禪との出会い



二十九歳、冬

暮、東京

正月、發心寺

僧伽、集まった人々

道林師、身心脱落

四月、攝心

四月、攝心はつづく

四月、攝心の口宣

独参、独参、独参


二十九歳、冬

 昭和五十四年十二月六日、敦賀に向かう小浜線の夜汽車から遠くの灯を見つめていた。涙が止めどもなくあふれて来た。發心寺の摂心から帰りであった。

 その当時、私は一人の意気揚揚とした坊さんであった。本山での修行を終え、都内の大きなお寺に住み込んでいた。坊さんであることにも何の疑問もなかった。本山では「一所懸命」ということを教えられた。「そんなことは誰でも知っている」という多少の疑問はあったが、それを日々のこととして努めていくことは大変なことでそれこそが修行であると言われれば「それもそうだ」ということになってしまう。またそれ以上のことを教えてくれる坊さんはいなかった。
 あるとき發心寺のことをふと聞いた。「本物の坊さんがいる。」
 好奇心だけは旺盛だったので、臘八摂心に出かけてみることにした。まるで物見遊山のようでもあった。私の修行の最後の摂心のつもりであった。それが私の本物の修行の入り口になったのである。

 小浜は若狭湾の中ほどに位置する古い街である。奈良の東大寺の「お水取り」に水を送る「お水送り」という神秘的な儀式もある。奈良と小浜が地下で水脈がつながっているというのだ。
 小浜の冬は季節風で始まる。十二月はちょうどその季節である。気温以上に寒さが感じられる。そんな中に發心寺はあった。
 しんと静まり返っていたが、四、五十人の修行僧、尼僧、日本人、外国人が一心に修行をしている真っ只中なのであった。
 寒く、そして足は痛かった。私はその当時、ほとんど坐禅などしていなかったのである。

 何の疑問もなかったが、私の「修行の最後」なのだから独参でいろいろ質問してみることにしたのである。發心寺の堂頭老師は本堂のずっと奥に坐っていた。禅僧というイメージからはかけはなれていた。そのことが「論破できる」という気持ちを私に起こさせた。私は質問をした。しかしながらそこに思いもかけない答えが返ってきたのだった。
 その質問はいま考えてみればつまらない質問である。お坊さんと一般の人がいる中でお坊さんとはどうあるべきか、というようなことであった。「そんなお坊さんと一般の人との区別などいらない」というような主旨の答えであったと思う。納得できるものではなかった。

 控室は一人の年輩のお坊さんと同室であった。坂本宗謙師である。摂心では会話は厳禁である。しかしいろいろな話をした。私にはなぜみんながこんなに熱心なのかという基本的な疑問があった。
 師は私が「修行もしないお坊さん」に見えたらしくあまり話をしたくなかったようである。しかしふと出た出身大学の話題が二人を引き付けた。師も東工大出身だったのである。師は一転して發心寺のことを熱く語った。出会いである。

 そんな中すぐに三日が過ぎてしまった。堂頭老師の答えは理解を超えていた。帰り際に独参に行った。
 「もう帰りますが、何か私に言いたい事はないでしょうか。」と言った。
 「そんなものはありませんが、大事なことはあなたがあなた自身になることです。」と答えてくれた。
 このことも私の理解を超えていた。

 「自分自身になる。自分自身になる。」とつぶやきながら帰路についた。「でも自分自身は自分自身じゃないか。」

 本物の佛教があるとしたら、ここ以外には考えられないという予感がした。そしてそれを目指して熱心に修行する内外男女僧俗を問わない人たちがいた。
 そのことがうれしくてふと涙が出てしまっていたのである。


暮、東京

 東京に帰ってから憂鬱な日が続いた。お寺の住込みの生活もいままではなにごともなく過ぎていた。しかし私の中で何かが変わっていたのである。
 一方にあれだけ坐禅を求めて修行する人たちがいた。それを目の当たりにしてしまったのである。しかし東京のお寺の日々は毎日葬式と法事に明け暮れる。同じ佛教とは思えないものがあった。同僚たちと茶飲み話をするのも苦痛になってしまっていた。部屋に籠って發心寺のことばかり考えていた。

 三日経って決心をした。「發心寺へ行こう。」
 「たとえ本物の修行はできなくても、發心寺で修行する人たちの中で最後の修行をしたい。三ヶ月でも半年でもいいから行ってこよう。」

 このことは同僚たちあるいは両親にはまさに「青天の霹靂」であったにちがいない。誰にも相談をしなかった。誰に相談しても分かってくれないと思ったからである。
 住込んでいたお寺の住職にも伝えた。ここで私の半生でもっとも悔やまれる言葉が私の口をついて出てしまった。
 「このお寺では私は単なる趣味人で終わってしまう。發心寺で本物の修行をしたい。」
 怒られて当然の発言であるが、住職は鷹揚に許してくれた。「恩」というのはこういうことを言うのかもしれない。

 發心寺の堂頭に電話したら、「来なさい。」と言ってくれた。お坊さんが修行するにはいろいろな手続きが普通は必要である。手続きは面倒である。しかしいまも發心寺の人たちは修行しているのである。一刻も早くとんで行きたかった。翌一月六日から始まる寒行托鉢には是非とも参加したかったのである。發心寺も手続きには寛大であった。

 正月は八王子に帰って準備にあたる。両親にも伝える。この正月を全く覚えていない。心はもう發心寺にあったのである。

 一月五日朝出発。


正月、發心寺

 京都から北山を抜けてずっと北に行くと若狭湾に出る。その若狭湾の真中に位置するのが小浜である。古くは大陸との交易や北前船で栄えた港町であるが、いまは静かに過去の歴史を伝えている。「海のある奈良」とも呼ばれ奈良の東大寺に春を告げる「お水取り」はこの小浜での神秘的な儀式「お水送り」によって初めて成立するのである。

 發心寺はそんな街のはずれに位置する。毎年、發心寺の修行は托鉢で始まる。いわゆる「寒行托鉢」である。一月六日から二月三日の節分までのもっとも気温の下がる寒中に毎日小浜市内を托鉢するのである。托鉢には一軒一軒に寄っていく「門づけ」の托鉢もあるが、寒行托鉢は二列になって道の両側を「ホー、ホー」と大きな声を出しながら歩く。街の人々はその声を聞いて家から出てきて寄進をするのだ。「ホー」というのは「鉢盂(はつう)」といって浄財を受ける鉢のことだというのだが、私には佛道の「法」だということのほうがふさわしいように思える。

 冬の日本海側の気候は厳しい。太平洋側とはくらべものにならない。季節風が毎日のように雪を運んでくる。晴れることは滅多にない。托鉢も必ず合羽を着けて出かける。足は冷たさで感覚を失う。失ったほうがよいのだ。冷たさもわからないのだから。ところが手はいつまでも感覚を失わない。それでも片手は合掌、もう一方は浄財を受ける鉢を持たねばならない。雪と風が手に吹きつける。冷たいというより、痛い。吹雪の日には浄財ごと鉢を落としてしまうこともある。

 二時間ほど歩いて休憩となる。發心寺の船大工の檀家さんが工場の休憩所を提供してくれるのだ。なによりもありがたい火である。こんなに火を尊いと思ったことはなかったかもしれない。

 「動中の功夫(くふう)、静中の功夫」という言葉がある。坐禅をしているだけが本当の功夫ではない。作務をしているときも、托鉢をしているときも功夫なのである。「自分を忘れる」という坐禅の目標からすれば、寒さに堪えるだけで「自分について考える」ひまもない寒行托鉢というのは「動中の功夫」の最高のものであるかもしれない。

 こんな寒行托鉢の前日に發心寺に跳び込んでいったのだ。發心寺の堂頭(住職、坐禅指導者)は私に聞こえるように「あの人は懲りてすぐ帰るよ」と、冗談めかしていつも言っていた。そんなことを言われて帰れるわけがない。今思えばそれは多分堂頭のいつもの作戦だったのである。

 こんな寒行の最中でも坐禅は毎日続けられる。独参の鐘も毎日のように鳴る。その頃は外国人の修行僧と僧となっていない居士も十人くらいいた。日本人もあわせて全部で二十人くらいであったが、だれもが鐘が鳴ると独参に思い詰めた眼で向かっていった。

 最初に同室になったのは日本語の達者なブラジル人と日本語のできない日系カナダ人の雲水であった。ブラジル人は日本語が驚異的にできた。なにしろ漢和辞典を手に漢文を読むのである。二人とも堂頭との出会いを私に熱く語ってくれた。


僧伽、集まった人々

 もともと「僧」という言葉はサンガという古代インドの言葉が中国語に音訳され「僧伽」となりさらにつづめられたものであり、「集まった人々」という意味なのである。發心寺にはほんとうにさまざまな人たちが集まっていた。

 曹洞宗の本山は福井の永平寺と横浜の総持寺である。これらの本山にも大勢の修行僧がいるが、多くは寺院の子弟である。寺に生まれて曹洞宗の大学に通いそれから本山で修行して寺院の住職となるわけである。彼らの中に自分から進んで修行に来たものは少ない。お寺を継ぐためには修行もしなければならない、ということである。本山に半ば強制的に修行をさせるという「厳しさ」の生まれる由縁でもある。

 しかしながら本当の「厳しさ」とは、自分が自分自身に課す「厳しさ」ではないだろうか。その人がみずからと向き合い一心に修行しているとき、誰もがその人に強制的になる必要はないのである。發心寺では誰もが自分自身と向き合っていた。そしてその空気を保っていた。

 あるアメリカ人の僧はもとバーテンダーだったが、日本に観光旅行できた時に發心寺に寄って以来發心寺に住みつくことになった。十数年ぶりにアメリカに帰ったとき元の恋人が待っていたというが、構わず日本にまた来てしまっていた。

 フランス人の僧は、日本に興味を持って宮大工のところで大工の修業をしていたがふと坐禅をしたのがきっかけで發心寺に来た。大工道具を一式持っていて發心寺の修繕係となっていた。私もよく鉋の刃の研ぎ方などを教えてもらったものである。

 南アフリカから来たテレビ局員は現地で何を見てきたのか非常に焦燥した目付きで来た。山を駆け回ることがとても好きでいつも木の実などを持って来てくれた。そうこうしているうちにだんだんと眼も穏やかになり、發心寺でずっと修行したいといっていた。しかし当時の南アフリカには人種差別の問題が在って各国から非難されていたので、彼に長期のビザはおりなかった。出家すればビザもおりるかもしれないと出家したがかなわず南アフリカに帰っていった。

 あるドイツ人は本名をアドルフといった。戦後のドイツでアドルフは重い名前である。彼はのちに出家したが名前ゆえのいろいろな問題があったのかもしれないと思う。

 それぞれがそれぞれに坐禅に向かっていた。そんな中にひとりの日本人(私)がお気楽にまだ坐禅を続けていた。


道林師、身心脱落

 日本人にもさまざまの修行僧、居士(僧ではないが修行僧と一緒に修行する人たち)がいた。永平寺などではほとんどの修行僧が寺院の子弟で占められているが、当時の發心寺には登校拒否の高校生からアルコール中毒が少しよくなった人、東大を中退してきた人など多彩な人たちが全国から集まっていた。

 發心寺の修行僧も寺院の子弟は少なくいろいろなきっかけで普通の人から修行僧となった人たちが多かった。その中に「道林(どうりん)さん」と呼ばれる一人の修行僧がいた。

 暮れの發心寺に初めて来たときの攝心については以前に書いたが、そのときに坂本宗謙師が「あの人がこの中で一番優秀な人だ。」と言っていたその人である。「この人が優秀な人?」といぶかしく思ったのを覚えている。いままでに私が出会ったいわゆる優秀な人とはまったく違っていたのである。

 發心寺で「優秀な人」と呼ばれるのは、「見性(けんしょう)」しているということである。「見性」するというのは自分の本性を徹見する、つまり悟りを開いているということである。「見性」とか「悟り」について勝手なイメージを持っていたからかもしれないが、およそそうとは見えない人であった。

 「トラックの運転手をしていたんだ。」みなが噂をしていた。本人も否定はしなかった。しかしどうしてここへ来たのだろう、疑問は沸いてくる。部屋を訪ねてみると「白隠禅師息耕録開筵普説講話」などという分厚い本をじっと読んでいる。当時の私にとっては最初の一行目から何やらちんぷんかんぷんの本である。何か他の修行僧にはないものが感じられた。

 發心寺の堂頭老師との出会いは大きい。しかし發心寺の堂頭老師から法を伝えられた人が目の前にいるということも私にとってもっと大きなことであったかもしれない。法が実際に伝わっているのである。

 道林師はいつもいろいろな祖録の一説を大きな声でつぶやきながら歩いていた。そのときも道林師はつぶやきながらむこうからやって来た。そしてすれちがった。

 「身心脱落、脱落身心」

 これは道元禅師が師匠の如浄禅師に述べたといわれる言葉である。この言葉がしばらく耳に残った。

 「身心脱落、脱落身心?」

 このとき私の中で何かが転回するのである。「要するに自分自身がどうなんだということなのだ。」

 それまでは「禅」とか「悟り」とかは探求すべき対象物であった。「でもそうではないのだ。」


四月、攝心

 發心寺では四月から六月までと十月から十二月までの月初めの七日間攝心修行がつとめられる。攝心は接心とも書き、朝起きてから夜床につくまでずっと坐禅三昧の日を過ごす。普段の發心寺の生活には作務といって屋内の清掃、庭の草取りをしたり、薪を割ったりいろいろな仕事があるが、それも攝心の間は坐禅になる。文字どおり自分自身の心に接する大修行なのである。

 北陸の春は四月初めにはまだ来ていない。花もなく、肌寒い中に粛々と攝心は始まる。独参の鐘は一日に何回も鳴り響き、大勢の修行僧が張り切って出かけていく。皆攝心になると眼が真剣になっていく。心に期すものがあるようだ。

 独参では堂頭老師と一対一で向き合う。坐禅の質問をするのもよいが、普通は自分の見解を述べて正邪を問う。それぞれが坐禅とはこういうものだと思いこんでしまっていることにはなかなか自分自身では気づきにくいものである。それらが指摘されていく中に修行の方向が見極められていくのである。

 私の中にも密かに期するものがあった。何かに気づいていることは確かである。それを独参でぶつけてみようと。独参の鐘が鳴る。我先にと出て行く人もいる。私はこう言おうと決めているものがあった。心の中でそれを繰り返してみる。いよいよ私の番である。順番を待っているところからずっと奥に堂頭老師はすわっている。礼拝して目の前にすわりそして言った。

 「身心脱落し来る。」

 この言葉は道元禅師が師匠の如浄禅師に認められたといわれている言葉である。言葉に間違いはない。

 「いいですねぇ。」

 意外な言葉が返ってきた。もうこれでよいということか、こんなものでもういいのか、という考えがふと頭を過る。そのとたんにまた言葉が飛んで来た。

 「でも、いつ脱落しました?」

 いつと言われても、と思う。言葉に詰まる。詰まっているとまた言われた。

 「門より入るものは家珍にあらず、縁によりて得るものは始終成壊す。」

 無門関の序の言葉である。


四月、攝心はつづく

 「門より入るものは家珍にあらず、縁によりて得るものは始終成壊す。」

 「門から入ってきたものはその家の本当の宝物ではない、また因縁によって得たものは必ず失われる。」ということは、学んで得たもの、研鑽して積み重ねてきたものはその人の本当の宝ではない、そういうものは必ず失われてしまうということなのである。さらに進んで言えば「身心脱落」が得たものであったならばそれは真の「身心脱落」ではないというのである。

 やはりそうか、と思う。禅なんてそんなあまいものではないはずだとも思う。まだこの發心寺に来てから四ヶ月もたっていない。昔の祖師がたには二、三十年も修行されたかたが大勢おられる。そんなに簡単に見性できるはずがないのだ。

 發心寺の攝心には各食後に空いた時間が一時間ほどある。もちろんその間も坐禅に専念する人たちも多い。攝心中は会話や外出は厳禁であるが、部屋で過ごしたり、境内の散歩をしたりする人たちもいる。

 北陸の四月はまだ春とはいえない日が多いが、その日は珍しく晴れていた。太陽のない長い冬を過ごした者には太陽は本当にありがたく見えるものである。鐘楼のそばに小さな花壇があってそこはひなたぼっこの絶好の場所であった。

 堂頭老師の言葉の余韻がある中、冷え切った身体をあたためようとそこに行った。太陽がまぶしくふりそそぎ、花壇にも園芸種の花がいくつか咲いていた。蝶もわずかな花を求めて飛んでいた。空気はまだ冷たかったがそれは春の日であった。

 そのときふと思ったのである。

 「家に帰ろう。」

 思えば、当初の目的は發心寺の修行僧の中で修行をしたいということだったはずである。坐禅を自分のものにしたいなどとは思ってもみなかった。とりあえず当初の目的は達成したのである。禅ということもまわりの人たちに触発されて自分なりに一所懸命になってみたが、所詮付け焼き刃のようなものであった。

 外にはこんなに明るい春の日がある。坐禅などということは忘れてこの春の日の中を生きていくのだ。「これで家に帰ることができる。」

 休みの時間も終り、心も軽くなって攝心に戻っていった。まだまだ攝心は続くのである。しかし後で考えれば、この瞬間が坐禅の本当の入り口だったのである。


四月、攝心の口宣

 もうお気楽なものである。なにしろふんぎりがついていたのである。この発心寺のように一心に修行を続けておられる尊い方々がおられる。そういう人たちをよりどころとして、私の坊さんとしての存在も保証される、そんな勝手な考えであったように思う。

 人はいつも存在理由を求めてしまう。人生の意味を求めてしまう。それがたとえ砂上の楼閣のようなものであっても自分自身がその気になってしまえばよいのである。自分自身をだましてしまえばよいのである。そしてだましたことにさえ気づかなくなっていく。確固たる存在理由のためにはだましていることに気づかないことが重要になる。だからこそなんでもない自分自身「本来の自己」に気づきようがないのである。

 そんなところに堂頭老師の口宣(くせん)が飛んできた。

 口宣というのは攝心や坐禅の最中に祖師がたのエピソードとか祖録の話とか諸注意とかを手短に話すことである。当時の発心寺では一日に一、二回口宣があった。

 「このなかにわかりかけてきた人が何人かいる。そのわかったところを捨てて坐りなさい。」というようなことであった。

 「わかりかけてきた人?」「何人か?」・・・「わかりかけてきた人」の「何人か」は誰だろう。まさか私ではないだろう・・・でも独参で「いいですね。」と言われた・・・

 発心寺の雲水も外部から攝心に参加した僧も一般の人も独参で我先にと争うようには出かけていく。しかし堂頭老師に何を言われたのか帰りの足は重い。しょんぼりとしてとぼとぼ帰っていく様子だ。何を言われたのか知らないがあんなにしょんぼりすることもないじゃないか、とも思っていた。だからその人たちと私は違うとも思っていた。

 もしかしたら私はその「何人か」なのかもしれない・・・そういう思いが一瞬頭をかすめたのである。

 一度坐禅のことはあきらめた身である。もちろんだめでも失うものはないのである。もう一度独参にいってみるか・・・もう一度独参にいってみよう・・・


独参、独参、独参

 それからは独参の始まりの鐘、喚鐘が鳴り始めると必ず独参に赴いた。しかしながら来る日も来る日も埒があかない。何を言ってもだめであった。出版されている臨済宗の公案の解答集の解答を持っていったこともあるが、「それはここでは通らない」と簡単に言われてしまったのである。いつしか四月の攝心も終わっていた。

 発心寺の日常の生活は一日中、作務という作業に明け暮れる。薪を割ったり、畑仕事をしたり、墓地の草刈りをしたりなかなかの労働である。そして朝と夜に坐禅を二、三時間する。そのときにも独参の鐘は鳴る。

 月に三回午前中、市内に托鉢に出る。そんな中でも頭は独参のことでいっぱいだった。何を独参に持っていったらよいのか。祖師がたの故事来歴もしらみつぶしに調べた。竹に小石が当たって悟ったという故事や、石につまずいてその痛みで悟ったという故事から何か転機のようなものが来ないものかと待ちわびたこともある。

 しかしそんなものは来るはずがないのである。他人の故事を探ってみてもそれはあくまでも他人のことなのである。坐禅はあくまでも自分自身のことなのだ。そのことをすっかり忘れてしまっていたのである。

 そのような時にも堂頭老師は口宣で私を励ましてくれているようであった。少なくとも私にはそう聞こえた。「柿は熟したら必ず落ちる。自分という力を用いなければ必ず落ちる。この中にはもう落ちようとしている人がいる。」

 日々の独参も過ぎてゆき五月の攝心も始まっていた。いつしか坐禅が自分のものとなっていた。「肯心みずから許す」という言葉がある。それは最後には悟ったということを他人が認めるのではなくて、自分自身で確信する、ということである。それは間違いようのないものであった。

 独参に行って三拝して堂頭老師の前に坐った。堂頭老師はしばらくして「しっかり坐ってください。」と言った。私は三拝をして退いた。



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