成り立ち
當山は延徳元年(1487年)、子安六萬坊の地に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊として開創され当初子安山松門寺と称しました。本尊は密教の菩薩であり当初は密教の寺であったかと推測されます。慶長元年、寺町に移され鶴壽山と山号を改め、禅室祖参大和尚を心源院より請し禅宗として坐禪の真髄を伝えていくことになります。以後三百七十余年にわたって寺町において檀信徒の方々の攝化に努めてまいりました。江戸時代には幕府より御朱印を戴いているという記録もあり由緒のある寺でありました。振返ってみますと、昭和六十三年をもちまして松門寺開創五百年を迎えるにいたります。
松門寺26世天眞俊道大和尚
當山の第26世立花俊道大和尚は明治10年佐賀県に生まれました。曹洞宗大学(現駒沢大学)を卒業後直ちに海外留学生としてコロンボ(現スリランカ)に古代インド語、原始佛教を学び、ついでオックスフォード大学に留学し、哲学博士の学位を受けました。帰国後、縁あって空位になっていた松門寺住職の座につき檀信徒の教化につとめるかたわら、駒沢大学学長に任ぜられました。その後當山住職として檀務に専念しておりましたが、昭和30年4月2日に遷化致しました。日本における古代インド語研究の草分として辞典の編纂の他多数の著書も残されています。佛教を追求するために古代インド語を始め当時インドの宗主国であったイギリスに渡って研究を続けたものです。
立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877‐1955)
天眞と号す。明治10年佐賀県杵島郡南有明村に生れ、同村永昌寺久原天瑞について得度伝法す。明治36年曹洞宗大学を卒業し、直ちに宗門海外留学生としてコロンボ市ピデョーダヤ・カレッジにパーリ語・梵語・原始佛教を学び、ついで大正8年から同11年までオックスフォード大学に留学し、バチェラー・オブ・レターズ及びドクトル・オブ・フィロソフィーの学位を受く。研究成果は1926年The
Ethics of Buddhismとしてロンドンで出版された。帰国後、永昌寺から東京八王子市寺町松門寺26世として転住し、第一中学林教諭、駒澤大学教授及び学監を経て、昭和12年から16年、同20年から22年まで2回にわたり駒澤大学長として勤務す。我国におけるパーリ語研究の新しい分野を開拓す。昭和30年4月2日示寂。世壽79。著書に、「巴利語文典」「原始佛教と禅宗」「校註正法眼藏随聞記」「考証釋尊伝」「法句経註解」「葉隠武士道と禅」等がある。(大修館書店 禪學大辞典より)
太平洋戦争
昭和20年8月2日、太平洋戦争の大空襲で松門寺の伽藍は観音堂、山門を残して焼失致しました。数千冊に及ぶ貴重な原始佛教に関する文献も全焼致しました。
片倉移転
昭和44年八王子市の区画整理事業に協力し現在の片倉に移転致しました。三百七十余年にわたってすみなれた寺町の多くの伽藍、五百をこえる墓地の移転という大事業でしたが、檀信徒の方々、また関係者の方々の多大な御協力も得られ町中の寺から郊外の寺へと新たな発展を期することになりました。
松門寺五百年
昭和62年、松門寺開創五百年を記念して、客殿の新築の御寄付を檀信徒の方々にお願いすることになりました。時節がら難航も予想されましたが、多くの方々の御快諾を受け昭和61年9月に着工し翌昭和62年6月に完成致しました。また、平成元年庫裡の新築、平成4年坐禪堂の新築と寺域の整備に努めてまいりました。今後も松門寺は坐禪の真髄を伝えることを中心とし法事の場としてだけではなく生きている方々の集まる場所として、精進していきたいと思います。
松門寺28世俊堂知彦大和尚(現住職)
私は松門寺に生まれたが、高校時代に「微分積分」という概念にたいへん感動し数学にのめりこむ。おりしも各大学には学生運動の嵐が吹き荒れ、東大の安田講堂事件の直後に受験することになり東京工業大学に入学する。1年以上も大学が機能しない中、理学部化学科に入る。ところが大学院に入学するも一日も行かずに中退する。何となく寺を継ぐことになり、本山に修行にでる。あるとき紹介された福井県小浜市の發心寺で原田雪慧老師に出会い人生は一変する。發心寺で五年間修行し、その後曹洞宗師家養成所の一期生となり四年間で養成所を修了、準師家の資格を得る。昭和62年に松門寺住職となり、發心寺準師家後堂を経て現在に至る。