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 以下の書籍は書店で注文するか、アマゾンあるいは版元ドットコムで「普勸坐禪儀提唱」、「正法眼藏提唱」を検索して下さい。


「普勸坐禪儀提唱」(令和2年7月31日発刊)


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本文より

宗乘自在 何ぞ功夫を費さん

 「宗乘」というのは一番大事なこと、まあ、佛道あるいは坐禅、佛教ということです。言葉というものは、ひとつの言葉がひとつの概念を表すとして、われわれは非常に厳密に概念と言葉を結びつけますけれども、禅家では概念と言葉をあまり厳密に結びつけません。それは言葉の中の世界で、いろいろ言葉をやりくりするだけにすぎない。本来のこの「いま」、本来の自分自身、何かである自分自身ではなくて、何でもない自分自身、それはもう名付けようもないし、考えようもない。その本来のところにいる、真っ只中にいるということを、あるいは坐禅と言い、あるいは宗乗と言い、あるいは佛道と言うだけのことです。

 厳密に佛道というコンセプトがあるわけでもない。宗乗というコンセプトがあるわけでもない。本当のことをみなさんに伝えたい、本来のことを、本来の自分自身のことを、みなさんに伝えたいということであります。

 「自在」というのは、「私の自在になる」というような言い方がありますから--自由自在とか、思うままになるとか--、坐禅はそういう「思うままになる」ものなのだということを言う人もいないではないけれども、自在ということをよく考えると、「自(おの)ずから在る」ということですね。私というものがあろうがなかろうが、本来のことはあるでしょ。みなさんがたとえばここでぽっくり死んでも、この世界はたぶんじゃなくて、やっぱり続くんですね。そのままに在る。私がこの本来についてどう考えようが、そんなことは余計なことであるわけですね。


「正法眼藏提唱」(平成26年2月7日発刊)


 「図書新聞」(3165号、2014年6月28日) 兼子正勝氏書評

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本文より

正法眼藏現成公案

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。

 実は佛法というものはない。坐禅というものもないのだ。本来のことを言うとき本来と言ってしまっては本来という意味になってしまう。本来という意味以前の本来をあるときは、佛法と言ったり、坐禅と言ったりするのだ。その本来のところでは、「私」のはたらきを含めて本来なのである。私を否定するのが佛教ではない。そこには迷う人、衆生があり、悟る人、諸佛がいる。生があり死があるのが本来のこの世なのである。

萬法ともにわれにあらざる時節、迷ひなく悟りなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

 しかしながら「私」というものが、この世に様々な対立する見解をもたらす。汚れる、清められる、生じる、滅する、増える、減る。本来のところで何が汚れるというのだろうか、何が清められるというのだろうか、何が生じるというのだろうか、何が滅するというのだろうか、何が増えるというのだろうか、何が減るというのだろうか。本来とは本来そのものでしかない。今は今なのだ。