貴道(公務員 42)

 松門寺の座禅会に参加してもう17年以上経ちます。そもそも私が座禅を始めたのは、前々から、日々自分の弱さを実感し、いざという時にも動揺しない強い心を持ちたいと思っていたからです。座禅の修行を積めば、くよくよ悩んだり落ち込んだりすることもなくなるのではと期待したのです。
ホームページで松門寺の座禅会を知り、参加致しました。松門寺の座禅会では、ほぼ毎回、立花老師の下に独参に通いました。一般人が最初から独参に通うことができる座禅会は珍しいのではないでしょうか。
こちらの座禅会では、本来の自己ということについて徹底的に老師から指導をいただきます。老師から本当の自分自身の提示を求められ、それに対し、自分なりに考え抜いたものをお示ししますが、いつも老師から、それは本来の自己ではないことを瞬時に思い知らされます。もう何を考えてもだめだと観念しかけた頃、もうこれしかないというところを老師に提示したところ、しっかり座禅を続けるよう指導いただきました。
本来の自己というものは言葉で言い尽くすことは困難ですが、誰のところにも、確かにいまここにあるものです。今この瞬間に、それと向き合い、そのものであることこそ、大事なところです。
さて、座禅を行うことにより、日々の悩みがなくなったり動揺しなくなるといった効果はあるのでしょうか。昔、達磨大師は、禅に功徳はあるかと問われ、無功徳と答えられたそうです。たしかに、目に見える効果や功徳を期待しても、何かあるというわけでもないでしょう。また、生きている限り人には心があり、心があるからこそ、何かあれば動揺するし、苦しみや悩みが一切無くなるということは無いでしょう。
しかし、座禅を通じて、一番大事なことを知ることができると言える気がします。
いずれにしても、あれこれ考えるよりも、まず座禅してみることが肝心です。そして、とかく我見(自分自身の考え)にとらわれがちな各自の座禅が、誤った方向に進まないように、しっかりした指導を受けることが必要です。
松門寺には本来の座禅の指導があると思います。
 (2014年6月 記)

 好道(大工 74)

 私が禅に関心を持つようになったのは二十三才の頃でした。自分の性格、仕事仲間との人間関係、仕事に対する不安に悩んでいたのです。当時禅ブームであったため自分も禅によって、この性格を変えることが出来たらと思っていたのです。そんな時、新聞の読者の欄に坐禅への呼び掛けの「しっかりと自己を掴もう」の記事を見て切り抜きましたが、また不安で悶々とした日々と何とかしたい気持ちが入り乱れ暫くの間参加することが出来ませんでした。たまたま日めくりの格言が目にとまりました。それは「人間の価値はその内容の充実にあり」の言葉でした。人間の価値、その内容とは何だろうと思うようになったのです。そこで思い切って参加してみると記事の掲載されたときよりは人数も少なくなって記事を見ての参加は私が最後だったようです。足の痛みに参加するのではなかったとの後悔もありましたが、その先生は帰り際に「君、また来いよ」と声をかけてくださいました。懐かしい五十年前の思い出です。その先生は内科の開業医でしたが、在家の人達のために禅会を開いておられました。
 先生は小浜の発心寺、原田祖岳老師の高弟安谷白雲老師に参禅された方で、常ひごろ禅は正師について指導を受けることが大切だと言っておられました。またこの禅会は専門道場にも劣らぬ会であるとも自負しておられました。私も毎回独参を続けていましたが、はじめは一向に修行が進みませんでした。  何年かたって見性を許されましたが、いま振り返って本当に安心できるものではありませんでした。そんな時先生はご病気になって独参も出来なくなりついには平成六年に逝去されました。
 その後あちこちの禅会に参加してみましたが、思うような禅会には巡り会いませんでした。そんな折、先生の追悼坐禅会があり、道友と修行について語り合ううちにこの松門寺の坐禅会の話が出たのです。さっそく電話して参禅することが出来ましたが、久しぶりの独参に身が震える思いでした。坐禅会のたびに独参することを心がけましたが、老師のご指導を受けるたびにもう少し早く老師に参禅出来ていたらと思わずにはいられませんでした。ずいぶんと回り道をしてしまった思いです。
 いまはいつも心の中にあった格言が、本当に納得出来、確信することが出来ました。人間としてこれを自覚し、この内容を充実させ、それを日常生活に生かし、主体性と自由性をもって今を生きてこそ、老師の示される「本来の自己」であり、しっかりと自己を掴むことと思うのです。純一であり、一色のこの坐禅をこれからも道友とともに精進したいと思っています。また坐禅に関心のある方、正師であられる老師のもとで道元禅師の云われる直指端的の道をともに修行できることを願っています。合掌
(2012年3月記)

 雅之(会社員 47)

 簡単なようで難しい。坐禅は一見ただ坐るだけの様に思えるが、実は大変難しい。いろいろな作法があり、精神を集中させなければならない。そのうちに足も痛くなって来る、お腹も空いて来る、眠くなって来る・・・等々。しかし私は、松門寺の坐禅會に参加する様になってから、坐禅に対する考え方が変わった。何が変わったか?正直に言うとうまく説明できない。頭でいろいろと考えてみたが、考えがまとまらない。だが、ここでの坐禅會は頭で考える事(思考)よりも、もっと大事な事を教えてくれる。その大事な事とは何か? 私にはまだよくわからない。そう簡単にわかるものではないだろう。また、松門寺の坐禅會には独参というものが有り、参禅者が師と一対一で向き合い指導を仰ぐ。私は独参においてその(大事な事)をいろいろと考えて師に問うのだが、所詮考えは考えでしかない。自分のものになっていない。どうすれば良いのだろう、とまた頭で考える。禅とは何と奥が深いものか?いつの日か師に認められる事を願い、これからも坐禅に精進して行きたい。
 幸いここには、立派な坐禅堂があります。とても居心地のいい坐禅堂です。これから本格的に坐禅を始めようと思っている方、自分自身をもっと良く知りたい方、自分を見つめ直そうと思っている方に、坐禅會への参加をお勧めします。私自身まだ半年足らずの経験ですが、坐禅をする度に気持ちがどっしりと落ち着いてくるのを感じ、それと同時に感覚が研ぎ澄まされてくるのを、ひしひしと感じています。
(2012年3月記)

 裕道(29)

 松門寺の坐禅会に参加するようになってからもうすぐ2年になります。坐禅を始めるようになった理由は、本当のことを知りたかったからです。かねてより、誰かが創り上げた思想や個人個人の感性を拠り所にした人生観ではなく、いつの時代も変わることのない普遍的な何かを確かめたいと考えていたのですが、いくら知識を積み重ねてもそこへ辿り着くことは出来ないと感じるようになり、ネットでたまたま目についた松門寺の門をくぐることにしました。

 いざこのお寺の坐禅会に参加してみると、それまで想い描いていた坐禅の世界とは少し違うように感じました。足を組んで座る中で、精神的な高みへと導かれてゆくのが坐禅なのだろうとそれまでは考えていたのですが、どうもそうではないようです。かといって坐禅とは何か、具体的に説明してもらえるわけでもありません。坐禅会に通えば通うほど、坐禅とは何なのかが分からなくなります。うまく言えませんが、どんどんと分からなくなることこそ、坐禅に取り組み続けることの魅力のようにも思えます。

 人は自分の価値観を絶対化してしまいがちです。一つの考え方を乗り越えても、乗り越えたことがまた一つの考え方になり、どこまで行っても終わりがありません。私が松門寺の坐禅会を気に入っているのは、老師とのやりとりの中で僅かでもそんな自分の思い込みから離れ、わからないままでいられる所かもしれません。 (2008年12月記)

 文道(地方公務員 48)

 松門寺に通い始めて1年が経ちます。
 私は6年ほど前、それまで生きがいと思って賭けてきたことに意味を見出せなくなって、本当は何がしたいのかまったく分らなくなってしまいました。悩みながら何かないかと探していたとき、松門寺のホームページが目に留まり、坐禅会に参加させてもらいました。老師は本当の自分を持って来なさいと言います。自分が何がしたいかを調べる以前に、本当の自分とは何かを知る必要があることははっきりしました。
 かつて私は自分がやりたいと思っていることを追及していました。31歳まで電気メーカーで新製品の開発をしていましたが、新製品が出来ても誰も幸せにできないことに気付き、田舎で牧場の建設と管理の仕事に転職しました。田舎で10年余り一生懸命でしたが、だからといって人の役に立てるわけでもなく、悩んだ末、また東京に帰ってきました。たまたま公務員の経験者採用試験に合格し、今は地方公務員です。
 尊い教えとか崇高な考え方を示してくれる宗教には今までたくさん出会ってきました。しかし尊いとか崇高だとか判断するのは人間の頭ですから、それは不確かと言わざるを得ません。
 老師は坐禅は宗教(religion)ではないと言いますが、坐禅会に参加して、確かにそう思います。本当のことに気付くだけらしいので、簡単なはずなのですが、、、
 坐禅会の正法眼蔵提唱の中であるお坊さんが悟りを開いて、「これでウソをつかなくてもすむ」と安心する一節がありました。私もいいかげんウソをつくのは止めたいと思っています。特に自分にウソをつくのは疲れるし、まして子供など育てられないです。焦らずにもう少し坐ってみようと思っています。 (2005年10月記)

 泰道(大学教員 34)

 松門寺坐禅会に参加させて頂きまして二年余りが経ちました。以前は仏教に限らず宗教に対して何の興味も感じていませんでしたが(むしろ毛嫌いしていました)、理詰めでは如何とも整理がつかない行き詰まり感から、仏教に興味を持ちはじめました。仏教や坐禅について全く無知だったので、坐禅会に参加すれば、心が安まって、いいお話でも聞けるのかな、というのが坐禅会に参加した動機だったと思います。ところが、坐禅会は想像していたものとだいぶ違っていて少々面食らいましたが、何度か坐禅会に参加していくうちに自分が求めるものが変化していきました。
 我々は、常に何らかの苦しみを抱え、その苦しみから開放されることを欲して様々な手段を試みています。個々の苦しみは多種多様で比較できるものではありませんが、過去の人々も我々以上に悩みを抱えていたに違いありません。その中で、お釈迦様が坐禅によって悟りを開き、多くの方々によって坐禅が現在まで伝わってきました。二千年以上の年月に耐えてきた坐禅は、科学が進歩した現代にあってもなんら普遍性を破るものではないはずです。時には、「こんなことして一体何になるのだろうか?」と思うこともありましたが、今は、坐禅が真に自分を救う道であると信じて坐禅会に参加させていただいております。
 老師は、「本当の自分自身に気づきなさい」、「月を指す指ばかりを見ていてはいけない」と仰ります。自分自身に参じる、そのためだけにこれからも坐禅会に参加させていただきたいと思います。(2005年9月記)


 美道(大学教授 57)

(その1)
 自己実現とかの言葉がもてはやされている中で、生きるということはどういうことなのだろうか、人間はどこからきてどこへ行くのだろうか、などの疑問を何となく感じたとき、私たちはまず哲学や心理学の本でも読んでみようかと思うのではないのでしょうか。しかし、このようなとき、「仏教は宗教ではない。」と断言される立花老師の仏教にふれてみるのも、無駄ではないような気がします。宗教でない宗教により、新しい視野が開けるかもしれません。
 これまで生きてきた時間より明らかに残りが少なくなり、多少精神的・時間的ゆとりをもてるようになり、このホームページの「仏教とは何か」に引かれ、また正法眼蔵提唱を聞いてみたいと思い、この坐禅会に参加するようになりました。まだ1年足らずですが、老師に自分の考えをぶつけてゆくうちに、「言葉をつくして説明しつくす」という老師の指導により、巷に氾濫している仏教の本も、その本質が見えるようになってきた気がします。自分自身で自分自身に決着をつけるなどという自己矛盾したことは、専門家の修行僧にまかせ、少し時間をかけて「宗教でない宗教」とおつき合いさせていただきたいと思っているこの頃です。

(その2)-2001/12/15-
 松門寺坐禅会に参禅して2年が過ぎました。現在の心境は、「煩悩も迷い、悟りも迷い。悟りを忘れ、修行を忘れ、忘れたことをも忘れる修行があったのか。」というところです。坐禅会の雰囲気を知っていただくために、最近の立花老師の提唱の一部を紹介させていただきます。

 道元禅師は莫作はマクサなりと言います。今の自分自身を自分のものとするということからみると、「つくることなかれ」、「なすことなし」、では自分の知識としての理解にとどまってしまいます。知っていることは坐禅ではないのです。マクサであるとしか言い様がないのです。
 今の一瞬は、悪の基準も何もない、諸悪の作りようもない、何でもない一瞬なのです。本当の何でもない自分自身になったとき、どこにも諸悪というものはないのです。何でもない自分自身になって、今の諸悪莫作そのものになるのです。諸悪莫作の意味もいらない、それこそが本当の諸悪莫作です。今というものを理解する以前の、何でもない自分自身というものを自分のものにしてみなさいということです。
 「今の自分自身と一つになってください。」という道元禅師の声が聞こえてくるような気がします。(正法眼蔵諸悪莫作の巻提唱より)

 道を求める気概のある方は、是非とも坐禅会に参加し、独参に通いつめてみて下さい。素直に老師と向きあうとき、必ずや仏法の心髄に触れることができるものと確信しています。一般の人を受け入れてくれる本格的な参禅道場がここにある、ということを一人でも多くの人に知って頂きたく、自らの未熟さをも省みず筆を取らせて頂きました。


 芳道(電機メーカー勤務 34)

 茶道を習っているので坐禅に興味をもちました。立ち読みした本に「坐禅はまず坐禅してみるしかない」と書いてあったので、坐禅なるものを体験してみようかと思っていました。そしてこの松門寺のホームページをたまたま見つけたのがきっかけになりました。
 はじめは「坐禅って仏教だったのかー」と言う程度の認識でした。「坐禅してみるしかない」というのはほんとうです。やはり坐禅は独参ですね。また、毎月の坐禅会の他に摂心があります。摂心のあと坐禅に対する感じが変わったような気がしています。
 坐禅は私のような怠け者にも続けることができます。なにしろ「なにもしないで良い 」のですから! (1999年10月記)


 順道(心理カウンセラー 38)

 人の悩みの理由は、自分が持っているイメージと現実とのギャップにあるのだろうと思います。「お金持ちになりたいけど貧乏だ」という文章を読んだとき、それだけではそれが悩みかどうかは分かりません。では、どうして悩みになるのでしょうか?それは、「今の自分はダメだけど、お金持ちになったら、ダメな自分ではなくなるような気がする」などと、今の自分を否定しているときではないかと思います。しかし、今の自分を否定していては、たとえお金持ちになったとしても、結局、その時(すなわち、今)の自分を否定して、幸せになるための理由を探し始めるような気がします。「何の理由が無くても、今の自分を肯定するためには、どうしたらいいのだろう?」そんなことを考えていた時、直感的に「座禅だ!」と思い、この座禅会に参加するようになりました。
 学生の頃から、公案の理解できないところが面白くて、マンガ本のような感じで読んで親しみを感じていたからそんな直感が働いたのかもしれません。老師と一対一で会話する独参は、公案のライブショーみたいな感じおもしろいです。(2004年2月)


 隆道(会社員 51)

 最近は参禅者が増えたので、体験希望の方のためらいを除く事など不要かも知れませんが、こんな者でも通えるという例としてご覧下さい。
 参禅の動機は、「桶の底が抜けたように、すべてが明白になる」体験をしてみたかっただけで、特別な悩みも人生への疑問も持っていませんでした。強いて挙げれば、(持病のため)人並みには生きてゆけない事実を受容できれば格好良い、と考えていました。
 以前から仏教に興味はありましたが、ごく偶に本を読む程度で、座禅を生活の中心に据える気概は持っていませんでした。また、暑いのも寒いのも嫌。軽労働も、あまりに遠いのも駄目という我儘さは、どこのお寺でも許されないだろうと考えていました。
 ところが、市内にある松門寺のHPを見つけて驚きました。全部の条件を満たす上に独参ができるではありませんか。(臨済系ならば公案が目安になるだろうけれど、只管打坐ならば、確かな先達の指導が必要に違いないと思っていたのです。)
 こんな情況で通い始めて2年半になりますが、未だに半跏趺坐もまともにできず先が思いやられます。しかし老師のゴツゴツと坐れば良い、のお言葉に甘えながら「外せないと思っているものを外す」道を探っております。(2003.5記)


 健道(公務員 45)

 私は坐禅会に参加して今月(2000年9月)ちょうど丸一年になります。
 私が坐禅会に参加するきっかけは、昨年始め頃から何となく仏教を学んでみたいという心境になっていました。しかし、仏教を学ぶと言ってもいろいろな宗派があること、かつ組織だった活動は避けたいこと等の理由からなかなか決めかねておりましたが、職場で購読している「企業と人材」(注 1999.7.5 「まずは現地へ」鷹取澄)という人材育成関係の雑誌を何気なく読んでいたところ、「坐禅を組んでみる」という記事が目に留まりました。
 その記事には摂心という泊り込み坐禅会のことがドキュメントで書かれており、最後には、その坐禅会が実施されている松門寺の連絡先も記載されておりました。この記事を読み終わると、自分が探していたものと何となく共通項がありそうな気持ちになり、すぐに松門寺に連絡をとったところ、八月のお盆のお忙しい時期にもかかわらず老師直々に会って頂くことになりました。そして老師にお会いして、仏教に関するお話を伺い、また坐禅堂で実際に坐禅をし、この坐禅会に参加することを決心しました。
 このような経緯で坐禅会に入会してから早くも一年が過ぎてしまいましたが、千葉市から二時間半かかる道のりも苦にならず毎月楽しく参加させていただいております。毎月の坐禅会では二回(一回は40分)の坐禅と老師と一対一での問答をする独参、そして老師による「正法眼蔵」の行持の巻についての講義があります。冷暖房完備の坐禅堂で時間に追われる世界から一秒一秒が長く感じる静寂の世界を感じ、また老師の講義では道元禅師の教えなどを詳細に解説していただいております。まだスタートしたばかりでありますが、老師の言われる「今のなんでもない自分自身をつかむため」にこれからも坐禅を続けてまいりたいと思っております。


 規道(会社員 ?)

 私は松門寺坐禅会に参加して1年と2ケ月になります。自宅が茨城県の結城市ですので片道約3時間かかりますが、そのことが辛いわけでもなく参加させて頂いています。
 松門寺の坐禅会を知ったきっかけはこのホームぺージでした。その当時、地元の坐禅会に参加し自分でも正法眼蔵の提唱本を読んだりしながら、徐々に他に「本物」の坐禅があるのではと思い始め、どうしたら「本物」を見つけられるのかと色々探し始めた頃でした。
 私が松門寺坐禅会に参加しようと決めたのは、正法眼蔵提唱の記載でした。正法眼蔵は、日本曹洞宗の開祖である道元禅師様が修行僧のために直に提唱されたお言葉を、お側に仕えた人が書きとったものです。その原書に直に触れることで、その当時のそのままを真っ直ぐに体験できると思ったのです。そのためには、提唱される和尚様が「本物」であることが絶対となります。
 初めての坐禅会の時は、正法眼蔵がきける期待と、和尚様には大変失礼な話しですが、本当に「本物」だろうかという疑いを抱きながらの参加でした。参加して分かったことは、和尚様は間違いなく曹洞宗の宗旨を継承する導師様であるということ。和尚様の提唱される正法眼蔵は自分を自分たらしめるに充分な内容であるということ。そしてここが「本物」であるということでした。
 和尚様は日頃から「何でもない自分になればいい。」とよく話されます。そして「自分は自分なのだから、何でもない自分になることに何も難しいことは無い。」と結論されます。今はただこのことだけを信じ、何でもない自分たるべくあがいている毎日です。
 ここは素晴らしいところです。松門寺坐禅会に参加され、諦めることなく精進されればきっと心願成就されることと思います。


 誠道(ソフト開発会社勤務 35)

何かしら物足りなさを感じて納得の行かない自分。
何ものにも束縛を受けない自由爽快な自分。
 『自分、自分、自分・・・ 一体、自分って何だろう? 理想の自分って何だろう  不満足な自分って何だろう?』 本当に困ってしまいます。
 『座禅は何でもないの自分に帰る。』老師が繰り返し仰る事です。
 『何でもない自分???』
読んで、聞いて、思想しても決着しません。もう、自分の体で実証してみるより他に出口はなさそうです。
只々、一生に一度どうしても会わなければならない人、一期一会、本来の自分に会えるよう老師に水先案内頂いております。
生きている私達の行く場所ですから、お寺だからといって構えることなく、ご自分を決着させるために出かけてみて下さい。老師は快く水先案内を引き受けて下さいます。


 嘉道(小さな研究開発会社の役員 56)

 昨年(平成9年)4月から始まったNHKのラジオ講座「正法眼藏−禅の道すじ」で、坐禅を実際にやってみることを強く勧めていました。坐禅には以前から関心があったため、インターネットを通じて松門寺の坐禅會を知りました。昨年7月から参加していますが、私が気に入っているのは次の3つです。
 (1) 設備の整った立派な坐禅堂があること
 (2) 規律があまりうるさくないこと
 (3) 老師の指導が親切なこと
 (1) によって、夏でも冬でも快適に坐禅が出来ます。(2) は、形よりも坐禅の中身に興味がある私に合っています。(3) が一番魅力的な点で、老師の指導方針が「人を見て法を説く」にあるため、独参を重視しています。坐禅は全く初めてですので、疑問点や老師からの問いかけに対する自分なりの考えを、遠慮なく話させて頂いてます。老師は「自分の坐禅をすること」を強調されおりますが、それが簡単に実現できるとは思っていません。老師との対話の過程を楽しむつもりで、坐禅會に通っています。

 秀道(診療放射線技師 39)

 立花老師に初めて会ったのは二年前の春です。それまで様々な坐禅会に参加したのですが、坐るだけ、あるいは道徳的な世間話に終ってしまい今一つ納得できませんでした。しかし老師の話で「一瞬に生きる。」「向上の道でなく向下の道。」「何でもない自分」など聴いているうちに体得はできなくとも、本当の事を言われていると満足するものがありました。
 松門寺の坐禅会の特徴は「独参」があることです。坐禅の疑問や自分の見解を老師の前で述べ、自分が正しい方向に行っているか点検してもらうというものです。他には立派な坐禅堂があり、坐禅そのものもうるさい規制はなく自由な雰囲気で行っています。坐禅するのにこれだけ環境が整った所はそうは無いと思います。本当に老師には感謝しております。
 また、宿泊施設もあり、現在私は老師の許しを頂いて寺で寝起きをしています。事情の許す限り、この坐禅を中心とした生活を行っていこうと思っています。もし坐禅したいと思っている方はぜひお越し下さい。一緒に坐りましょう。


 森泉(主婦 ?)

 一期一会になりきって
 私は現在松門寺の暁天坐そして朝課に参加させていただき、仏縁の深さご縁の有難さをしみじみ味わっております。松門寺は朝、日の出の大変美しい禅寺です。坂道をゆっくりと登って行きますと、ぽっかり顔を出した朝日が広々とした本堂の正面のガラス窓に写ってとてもなんともいいがたい気分になります。しばし朝の冷気の中で至福の時につつまれます。
 私がこの寺をお訪ねし初めて入室の折り背負いきれない荷物、人間の迷い苦しみのことをご相談申し上げますとご老師様は「とにかく坐禅して下さい。」としずかにきっぱりとおっしゃいました。このシンプルな言葉が私の心を強く打ちました。
 ただ天地いっぱいの坐禅になりきってこの世にたった一人比べるべくもない、量るべくもない本来の自分に帰ってひとりの人間として自分自身である日々でありたいとひたすら念じ坐禅しています。
 坐禅堂で正身端坐ゆったりと心を静めれば鳥の声、虫の音、小窓から入る涼風みんな私自身です。坐禅して心身が安らぎ素直な心ですべてのものと融和し、家族や周りの人々と共に皆仲良くできたら最高の幸福です。


 幸道(元保険会社役員 77)

 「佛道をならふといふは自己をならふなり。自己をならふといふは自己を忘るるなり。」
 もう二年前のこと、秋晴れの昼下がりの或る日、八王子片倉城跡の丘に建つ松門寺山門を訪れた時、その掲示板の眼についた文言である。さて自己を忘れるとは荘子・大師宗編の「坐忘」、孔子とその弟子顔回との問答にもあったなと思い出す。とにかく忘れよう、棄てようと勇をおこしてその門を叩き参禅の機を得たのが始まりである。禅といえば堅苦しい戒律やら、足の痺れを我慢してのことやら・・・と。案ずるよりまづ当れ、老師自らの懇切な指導にいつしか肩の力は融けて自然体と変わり行くを自覚す。ただただ文字通り自己をならう即ち忘れることと専ら坐る。時には老師に独参して一切の疑念を打破していただく。
 僧堂は森閑として坐蒲に腰を据えて面壁一@。達磨大師もかくありしか、堂の中央には文殊菩薩の坐像、慈眼を垂れておわすのみ。坐るほどに他なくまた自己もなし。一切を断って静かに深く呼吸し、想わず、念ずることなく自己をならうとはこの一刻にありと只管打坐す。温顔ゆたけき老師の教導にあらためて感謝しつつ。

@火偏に主(ちゅう):いっちゅうとは一本の線香が燃え尽きる時間、坐禅の一単位、現在は40分程度。


 洋道(印刷会社副社長 46)

 1990年3月に初めて門を叩く。
 その時の私はいつも死や年を取るのが恐くてたまりませんでした。精神的支柱がなくて不安の中にいつもいました。仕事以外になんにもない状態で休日はむしろ気持ちが重く、なんにも手が着かないような状態でした。
 さりとて特に趣味を持ちたいとも思わないし、またそれでは満足を得られない事を知っていました。そこで前にもやっていた坐禅を思い出し、高校の友人に松門寺の事を教わりました。
 扉を開けるとすぐに老師が現われ、そのお姿を拝見してまるでお釈迦様のような方だと即座に尊敬申し上げました。早速翌日の坐禅会に参加しましたがその時はまだ婦人会の様相でしたがその提唱は以前には聞けないような素晴らしいものだったのですっかり坐禅と立花老師の虜になってしまいました。
 ともかくお話の中でもともと人間には悟りがあるのであって坐禅して、修行して何処かへ行くのではありません、自分自身になればいいのですと言われて確かにいつも私は努力して何々になろうとばかりしていると思ました。
 毎回私は必ず独参をしているのですが正直最初は行くのが苦痛でした。しかし老師のお師匠様の原田雪慧老師が今のそのままの自分を持っていけばいいのですと言われるのを伺ってからはなんの迷いもなく、ともかく自分を老師の前に置いてしまい、恥じをかいております。老師にあっては打撃の神様の川上哲治氏も平成の経営の神様と言われている京セラ会長の稲盛和夫氏も形無しです。独参でたちまちのうちに自分のこだわりを打ち砕かれてしまう。(川上、稲盛両氏が打ち砕かれるのではありません。)
 仕事でも習い事でも芸術でも剣道、柔道でもない、そして長くやればいいのではない。回数でも年齢でも努力の度合でもない、そのモノサシではないのが坐禅。語ったところから坐禅が坐禅でなくなる、でも伝えるのが悟ったものの努めとおっしゃる立花老師。是非一度この松門寺の坐禅会にいらしてください。そして立花老師の提唱をお聞き下さい。


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松門寺の坐禅会 参禅者の声