菩提心を發すべき事

 

 右、菩提心は、多名一心なり。龍樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を觀ずる心も亦菩提心と名くと。然れば乃ち暫く此の心に依つて、菩提心と爲すべきものか。誠に夫れ無常を觀ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起らず、時光の太だ速かなることを恐怖す、所以に行道は頭燃を救ふ。身命の牢からざることを顧眄す、所以に精進は翹足に慣ふ。縱ひ緊那迦陵讃歎の音聲を聞くも、夕の風耳を拂ふ。縱ひ毛嬙西施美妙の容顔を見るも、朝の露眼を遮ぎる。已に聲色の繋縛を離るれば、自ら道心の理致に合はんか。往古來今、或は寡聞の士を聞き、或は少見の人を見るに、多く名利の坑に墮して、永く佛道の命を失す。哀むべし惜むべし、知らずんばあるべからず。縱ひ權實の妙典を讀むこと有り、縱ひ顯密の教籍を傳ふること有るとも、未だ名利を抛たずんば、未だ發心と稱せず。有が云く、菩提心とは無上正等覺心なり、名聞利養に拘はるべからず、有が云く、一念三千の觀解なり、有が云く、一念不生の法門なり、有が云く、入佛界の心なりと。是の如きの輩は未だ菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗ず。佛道の中に於て遠くして遠し。試みに吾我名利の當心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や、一念不生の法門を證するや否や。唯、貪名愛利の妄念のみ有つて、更に菩提道心の取るべき無きをや。古來得道得法の聖人、同塵の方便有りと雖も、未だ名利の邪念有らず。法執すら尚無し、况んや世執をや。所謂菩提心とは、前來云ふ所の無常を觀ずるの心、便ち是れ其の一なり、全く狂者の指す所に非ず。彼の不生の念三千の相は、發心以後の妙行なり、猥るべからざるか。唯、暫く吾我を忘れて潜に修す、乃ち菩提心の親しきなり。所以に六十二見は我を以て本と爲す。若し我見起るの時は靜坐觀察せよ。今我が身體内外の所有、何を以てか本とせんや。身體髪膚は父母に稟く、赤白の二滴は始終是れ空なり、所以に我に非ず。心意識智、壽命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我に非ず、彼此執るべき無きをや。迷ふ者は之を執り、悟る者は之を離る。而るに無我の我を計し、不生の生を執す、佛道の行ずべきを行ぜず、世情の斷ずべきを斷ぜず、實法を厭ひ妄法を求む、豈錯らざらんや。

正法を見聞しては必ず修習すべき事

 

 右、忠臣一言を獻ずれば、數廻天の力有り、佛祖一語を施さば廻心せざるの人莫し。自ら明主に非ずんば忠言を容るること無く、自ら拔群に非ずんば佛語を容るること無し。廻心せざるが如きは、順流生死之れ未だ斷ぜず、忠言を容れざるが如きは、治國徳政之れ未だ行はれざるなり。

佛道は必ず行に依て證入すべき事

 

 右、俗に云く、學べば乃ち祿其の中に在りと。佛の言はく、行ずれば乃ち證其の中に在りと。未だ嘗て學ばずして祿を得る者、行ぜずして證を得る者を聞くことを得ず。縱ひ行に信法頓漸の異なり有るも、必ず行を待つて超證す、縱ひ學に淺深利鈍の科有るも、必ず學を積んで祿に預る。是れ乃ち獨り王者の優と不優と天運の應と不應とに由るべきに非ざるか。若し學に非ずして祿を受くるものならば、誰か先王理亂の道を傳へん。若し行に非ずして證を得るものならば、誰か如來迷悟の法を了ぜん。識るべし行を迷中に立てて證を覺前に獲ることを。時に始て船筏の昨夢を知つて、永く藤虵の舊見を斷ず、是れ佛の強爲に非ず、機の周旋せしむる所なり。况んや行の招く所は證なり、自家の寶藏外より來らず。證の使ふ所は行なり、心地の蹤跡豈廻轉すべけんや。然れども若し證眼を廻して行地を顧れば、一翳の眼に當る無く、將に見んとすれば白雲萬里。若し行足を擧して證階に擬すれば、一塵の足に受くる無く、將に蹈まんとすれば天地懸隔す。是に於て退歩せば佛地を□跳せん。天福二甲午三月九日書す。

有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事

 

 右、佛法修行は、必ず先達の眞訣を稟けて、私の用心を用ひざるか。况んや佛法は有心を以て得べからず、無心を以て得べからず。但、操行の心と道と符合せざれば、身心未だ嘗て安寧ならず。身心未だ嘗て安寧ならざれば、身心安樂ならず。身心安樂ならざれば、道を證するに荊棘生ず。所謂操行と道と合せんには、如何が行履せん。心取捨せず名利無きなり。佛法修行は是れ人の爲に修せず。今世人の如きは、佛法修行の人、其の心と道と遠くして遠し。若し人賞翫すれば、縱ひ非道と知るも乃ち之を修行す、若し恭敬讃歎せざれば、是れ正道と知ると雖も弃てて修せず。痛ましき哉、汝等試みに心を靜かにして觀察せよ。此の心行、佛法とせんや、佛法に非ずとせんや。耻づべし恥づべし、聖眼の照す所なり。夫れ佛法修行は自身の爲にせず、況んや名聞利養の爲に之を修せんや、但、佛法の爲に之を修すべきなり。諸佛の慈悲衆生を哀愍するは、自身の爲にせず、他人の爲にせず、唯、佛法の常なり。見ずや、小虫畜類の其の子を養育するに、身心艱難し經營苦辛して、畢竟長養するも、父母に於て終に益無きをや。然れども子を念ふの慈悲、小物すら尚然り、自ら諸佛の衆生を念ふに似たり。諸佛の妙法は唯慈悲一條のみにあらず、普く諸門に現ず。其本皆然り。既に佛子たり、盍んぞ佛風に慣はざらんや。行者自身の爲に佛法を修すと念ふべからず、名利の爲に佛法を修すべからず、果報を得んが爲に佛法を修すべからず、靈驗を得んが爲に佛法を修すべからず、但、佛法の爲に佛法を修す、乃ち是れ道なり。

參禪學道は正師を求むべき事

 

 右、古人云く、發心正しからざれば萬行空しく施すと。誠なる哉此の言。行道は導師の正と邪とに依るべきか。機は良材の如く、師は工匠に似たり。縱ひ良材たりと雖も、良工を得ずんば奇麗未だ彰れず。縱ひ曲木と雖も、若し好手に遇はば妙功忽ち現ず。師の正邪に隨つて悟の僞と眞と有り。之を以て曉るべし。但し、我國は昔より正師未だ在らず、何を以てか之が然るを知るや。言を見て察するなり、流を酌んで源を討ぬるが如し。我朝古來の諸師篇集の書籍、弟子に訓へ人天に施す、其の言是れ靑く、其の語未だ熟せず、未だ學地の頂に到らず、何ぞ證階の邊に及ばん。只、文言を傳へて名字を誦せしむ。日夜他の寶を數へて自ら半錢の分無し。古の責之に在り。或は人をして心外の正覺を求めしめ、或は人をして他土の往生を願はしむ。惑亂此れより起り、邪念此れを職とす。縱ひ良藥を與ふと雖も、銷方を教へざれば病と作ること、毒を服するよりも甚し。我朝古より良藥を與ふるの人無きが如く、藥毒を銷するの師未だ在らず。是を以て生病除き難く、老死何ぞ免れん。皆是れ師の咎なり、全く機の咎に非ざるなり。所以いかんとなれば、人の師たる者、人をして本を捨て末を逐はしむるの然らしむるなり。自解未だ立せざる以前、偏へに己我の心を專にして、濫りに他人をして邪境に墮つることを招かしむ。哀れむべし、師たる者、未だ是の邪惑を知らず、弟子何爲ぞ是非を覺了せんや。悲しむべし、邊鄙の小邦佛法未だ弘通せず、正師未だ出世せざることを。若し無上の佛道を學ばんと欲せば、遙に宋土の知識を訪ふべし、に心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば學ばざるには如かず。夫れ正師とは、年老耆宿を問はず、唯、正法を明めて正師の印證を得るものなり。文字を先とせず、解會を先とせず、格外の力量有り、過節の志氣有りて、我見に拘らず、情識に滯らず、行解相應する是れ乃ち正師なり。

參禪に知るべき事

 

 右、參禪學道は一生の大事なり、忽せにすべからず、豈卒爾ならんや。古人臂を斷ち指を斬る、神丹の勝躅なり。昔、佛家を捨て國を捐つ、行道の遺蹤なり。今人云く、行じ易きの行を行ずべしと。此の言尤も非なり、太だ佛道に合はず。若し事を專にして以て行に擬せば、偃臥猶懶し、一事に懶ければ萬事に懶し。易きを好むの人は、自ら道器に非ざることを知る。况んや今世流布の法は、此れ乃ち釋迦大師無量劫來難行苦行して、然して後に乃ち此の法を得たり。本源既に爾り、流派豈易かるべけんや。好道の士は易行に志すこと莫れ。若し易行を求むれば、定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざるものか。古人大力量を具するすら尚言ふ、行じ難しと。識るべし佛道の深大なることを。若し佛道本より行じ易き者ならば、古來大力量の士、難行難解と言ふべからず。今人を以て古人に比するに、九牛の一毛にも及ばず。而も此の少根薄識を以て、縱ひ力を勵まして以て難行能行に擬するとも、猶古人の易行易解にも及ぶべからず。今人の好む所の易解易行の法とは、其れ是れ何ぞや。已に世法に非ず、又佛法に非ず、未だ天魔波旬の行にも及ばず、未だ外道二乘の行にも及ばず、凡夫迷妄の甚しきと云ふべきか。縱ひ出離に擬すと雖も、還つて是れ無窮の輪廻なり。其の骨を折き髄を碎くを觀るに亦難からざらんや、心操を調ふるの事尤も難し。長齋梵行も亦難からざらんや、身行を調ふるの事尤も難し。若し粉骨貴ぶべくんば之を忍ぶ者昔より多しと雖も、得法の者惟れ少し。齋行の者貴ぶべくんば古より多しと雖も、悟道の者惟れ少し。是れ乃ち心を調ふること甚だ難きが故なり。聰明を先とせず、學解を先とせず、心意識を先とせず、念想觀を先とせず、向來都て之を用ひずして身心を調へて以て佛道に入るなり。釋迦老子の云く、觀音流を入して所知を亡ずと。卽ち之の意なり。動靜の二相了然として生せず、卽ち之れ調なり。若し聰明博解を以て佛道に入るべくんば神秀上座其の人なり。若し庸體卑賤を以て佛道を嫌ふべくんば曹溪高祖豈敢てせんや。佛道を傳へ得るの法は、聰明博解の外に在り、事是に於て明かなり。探つて尋ぬべく、顧みて參ずべし。又年老耄及をも嫌はず、又幼稚壮齡をも嫌はず。趙州は六旬餘にして始めて參ず、然りと雖も祖席の英雄なり。鄭娘は十三歳にして久學す、能く又叢林の抜萃なり。佛法の威は加と不加とに見れ、參と不參に分る。或は教家の久習、或は世典の舊才も皆禪門を訪ふべし、其の例是れ多し。南嶽の慧思は多才の人なり、尚達磨に參ず、永嘉の玄覺は秀逸の士なり、已に大鑑に參ず。法を明め道を得るは、參師の力たるべし。但宗師に參問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、若し己見に同ずれば師の法を得ざるなり。參師問法の時、身心を淨うし、眼耳を靜かにし、唯、師の法を聽受して更に餘念を交へざれ。身心一如にして水を器に瀉すが如くせよ、若し能く是の如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、或は文籍を記し、或は先聞を薀んで、以て師の説に同ず、此の時、唯、己見古語のみ有つて、師の言と未だ契はず。或は一類あり、己見を先として經卷を披き、一兩語を記持して以て佛法と爲す。後に明師宗匠に參じて法を聞くの時、若し己見に同ぜば是と爲し、若し舊意に合はずんば非と爲す、邪を捨つるの方を知らず、豈正に歸するの道に登らんや。縱ひ塵沙劫も尚迷者たらん、尤も哀むべし、之を悲しまざらんや。參學は識るべし、佛道は思量と分別と卜度と觀想と知覺と慧解との外に在ることを。若し此等の際に在らば、生來常に此等の中に在つて常に此等を翫ぶ。何が故ぞ今に佛道を覺せざるや。學道は思量分別等の事を用ふべからず、常に思量等を帶びて吾身を以て檢點せば、是に於て明鑑なる者なり。其の所入の門は、得法の宗匠のみ有つて之を悉かにす。文字法師の及ぶ所に非ざるのみ。

天福甲午淸明の日書す。

佛法を修行し出離を欣求する人は須らく參禪すべき事

 

 右、佛法は諸道に勝れたり、所以に人之を求む。如來の在世には全く二教無く、全く二師無し。大師釋尊、唯、無上菩提を以て衆生を誘引するのみ。迦葉正法眼藏を傳へてより以來、西天二十八代、東土六代、乃至五家の諸祖、嫡嫡相承して更に斷絶すること無し。然れば則ち梁の普通中より以後、始めて僧徒より及び王臣に至るまで、拔群の者は歸せずといふこと無し。誠に夫れ勝を愛すべき所以の者は勝を愛すべきなり、葉公の龍を愛するが如くなるべからざるものか。神丹以東の諸國、文字の教網海に布き山に徧し。山に徧しと雖も雲心無く、海に布くと雖も波心を枯らす。愚者は之を嗜む、譬へば魚目を撮つて以て珠と崇むるが如し。迷者は之を翫ぶ、譬へば燕石を藏して以て玉と崇むるが如し。多く魔坑に墮して、屢自身を損ず。哀むべし、邊鄙の境、邪風は扇ぎ易く正法は通じ難し。然りと雖も、神丹の一國は已に佛の正法に歸す、我朝高麗等は佛の正法未だ弘通せず。何が爲ぞ。高麗國は猶正法の名を聞くも、我朝は未だ嘗て聞くことを得ず、前來入唐の諸師皆教網に滯りし故なり。佛書を傳ふと雖も佛法を忘るるが如し。其の益是れ何ぞ、其の功終に空し。是れ乃ち學道の故實を知らざる所以なり。哀むべし、徒に勞して一生の人身を過すことを。夫れ佛道を學ぶに、初め門に入るの時、知識の教を聞いて教の如く修行す。此の時知るべき事有り。所謂法我を轉じ、我法を轉ずるなり。我能く法を轉ずるの時、我は強く法は弱し。法還つて我を轉ずるの時、法は強く我は弱し。佛法從來此の兩節有り、正嫡に非ざれば未だ嘗て之を知らず、衲僧に非ざれば名すら尚聞くこと罕なり。若し此の故實を知らざらん者は、學道未だ辨ぜず、正邪奚ぞ分別せん。今の參禪學道の人は、自ら此の故實を傳授す、所以に誤らざるなり。餘門には無し。佛道を欣求するの人は、參禪に非ずんば眞の道を了知すべからず。

禪僧の行履の事

 

 右、佛祖より以來、直指單傳、西乾の四七、東地の六世、絲毫を添へず、一塵を破ること莫し。衣は曹溪に及び法は沙界に周し。時に、如來の正法眼藏巨唐に盛なり。其の法の爲體は、模索することを得ず、求覓することを得ず。見處に知を亡じ、得時に心を超ゆ。面目を黄梅に失し、臂腕を少室に斷ず。髓を得心を飜して風流を買ひ、拜を設け歩を退いて便宜に墮つ。然れども、心に於ても身に於ても住すること無く着すること無く、留らず滯らず。趙州に僧問ふ、狗子に還つて佛性有りや也無しや、趙州云く、無と。無の字の上に於て擬量し得てんや、擁滯し得てんや、全く巴鼻無し。請ふ、試みに手を撒せよ。且く手を撒して看よ。身心は如何、行李は如何、生死は如何、佛法は如何、世法は如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看來り看去らば、自然に動靜の二相了然として生ぜず。此の不生の時、是れ頑然なるにあらず、人の之を證すること無く、之に迷ふものは惟れ多し。參學の人、且く半途にして始めて得たり、全途にして辭すること莫れ。祈禱祈禱。

道に向つて修行すべき事

 

 右、學道の丈夫は、先づ須らく向道の正と不正とを知るべし。夫れ釋雄調御菩提樹下に坐して、明星を見ることを得て、忽然として頓に無上乘の道を悟る。其の所悟の道は聲聞緣覺等の能く及ぶ所に非ず。佛能く自ら悟り、佛佛に傳へて今に斷絶せず。其の得悟の者は、豈佛に非ざらんや。所謂向道の者は佛道の涯際を了ずるなり、佛道の樣子を明むるなり。佛道は人人の脚跟下なり。道に礙へられて當處に明了し、悟に礙へられて當人圓成す。是に因つて縱ひ十分の會を擧すと雖も、猶一半の悟に落つるか。是れ則ち向道の風流なり。而今、學道の人は未だ道の通塞を辨ぜず、強ひて見驗の有らんことを好む。錯らざるは阿誰ぞ。父を捨てて逃逝し、寶を棄てて跉跰す、長者の一子たりと雖も、久しく客作の賤人と作る。良に以有り。夫れ學道の者は、道に礙へらるることを求む、道に礙へらるる者は悟跡を亡ずるなり。佛道を修行するものは、先づ須らく佛道を信ずべし。佛道を信ずる者は、須らく自己本道中に在つて、迷惑せず、妄想せず、顚倒せず、増減無く、誤謬無しといふことを信ずべし。是の如きの信を生じ、是の如きの道を明め、依つて之を行ぜよ。乃ち學道の本基なり。其の風規たる、意根を坐斷して知解の路に向はざらしむ。是れ乃ち初心を誘引するの方便なり。其の後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の樣子なり。大凡自己佛道に在りと信ずるの人最も得難し。若し正しく道に在りと信ぜば、自然に大道の通塞を了じ、迷悟の職由を知らん。人試みに意根を坐斷せよ、十が八九は忽然として見道することを得ん。

直下承當の事

 

 右、身心を決擇するに自ら兩般有り、參師聞法と功夫坐禪となり。聞法は心識を遊化し、坐禪は行證を左右にす。是を以て佛道に入るは、尚一を捨てては承當すべからず。夫れ人は皆身心有り、作は必ず強弱有り、勇猛と昧劣となり。也は動、也は容。此の身心を以て直に佛を證する、是れ承當なり。所謂從來の身心を廻轉せず、但、他の證に隨ひ去るを直下と名け、承當と名くるなり。唯、他に隨ひ去る、所以に舊見に非ず。唯、承當し去る、所以に新巢に非ざるなり。

 

永平初祖學道用心集終り

 

 時に延文丁酉、菩薩戒を受けし弟子、寶慶の大檀越野州の太守藤原の朝臣知冬、願を發し緣を助く。集むる所の鴻福は、上四恩に報じ、下三有を資けんものなり。

 永平と寶慶とに住持する比丘曇希版を立す

 開版奉行比丘瑞雄維那 書字比丘一書記