心不可得

心不可得は、佛なり、みづから阿耨多羅三藐三菩提と保任しきたれり。
金剛經曰、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得、これすなはち佛なる心不可得の保任の現成せるなり。三界心不可得なり、法心不可得なりと保任しきたれるなり。これをあきらむる保任は、佛にならはざれば、證取せず、にならはざれば、正傳せざるなり。
佛にならふといふは、丈六身にならひ、一莖草にならふなり。にならふといふは、皮肉骨髓にならひ、破顔微笑にならふなり。この宗旨は、正法眼藏あきらかに正傳しきたりて、佛佛の心印、まさに直指なること嫡嫡單傳せるにとぶらひならふに、かならずその骨髓面目つたはれ、身體髪膚うくるなり。
佛道をならはず、室にいらざらんは、見聞せず會取せず、問取の法におよばず、道取の分ゆめにもいまだみざるところなり。山のそのかみ不丈夫なりしとき、金剛經に長ぜりき、ときの人これを周金剛王と稱じき、八百餘家のなかに王なり。ことに龍の疏をよくせるのみにあらず、さらに十二擔の書籍を釋集せり、齊肩の講者あることなし。ちなみに南方に無上道の嫡嫡相承せるありとききて、書をたづさへて山川をわたりゆく。龍潭にいたらんとするみちのひだりに歇息するに、婆子きたりあふ。
山とふ。なんぢはこれなにびとぞ。
婆子いはく、われはもちひうる老婆なり。
山いはく、わがためにもちひをうるべし。
婆子いはく、和尚かふてなにかせん。
山いはく、もちひをかふて點心にすべし。
婆子いはく、和尚のそこばくたづさへてあるは、これなにものぞ。
山いはく、汝きかずやわれはこれ周金剛王なり、金剛經に長ぜり、通達せずといふところなし、このたづさへてあるは金剛經の解釋なり。
これをききて、婆子いはく、老婆に一問あり、和尚これをゆるすやいなや。
山いはく、ゆるす、なんぢこころにまかせてとふべし。
いはく、われかつて金剛經をきくにいはく、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得、いまもちひをしていづれの心をか點ぜんとする、和尚もし道得ならんには、もちひをうるべし、和尚もし道不得ならんには、もちひをうるべからず。
山ときに茫然として祗對すべきことをえざりき。婆子すなはち拂袖して出ぬ、つひにもちひを山にうらず。
うらむべし數百軸の釋主、數十年の講者、わづかに弊婆の一問をうるに、すみやかに負處におちぬること、師承あると師承なきと、正師の室にとぶらふと正師の室にいらざると、はるかにこのなるによりてかくのごとし。
不可得の言をききては、彼此ともにおなじくうることあるべからずとのみ解せり、さらに活路なし。またうべからずといふは、もとよりそなはれるゆゑにいふなんとおもふひともあり、これらいかにもあたらぬことなり。
山このときはじめて畫にかけるもちひはうゑをやむるにあたはずとしり、また佛道修行は、かならずそのひとにあふべきとおもひしりき。またいたづらに經書にのみかかはれるがまことのちからをうべからざることをおもひしりき。つひに龍潭に參じて、師資のみち見成せしより、まさにそのひとなりき。いまは雲門法眼の高なるのみにあらず、人中天上の導師なり。
この因をおもふに、山むかしあきらめざることはいまみゆるところなり。婆子いま山を杜口せしむればとても、實にそのひとにてあらんこともさだめがたし。しばらく心不可得のことばをききて、心あるべきにあらずとばかりおもひて、かくのごとくとふにてあるらんとおぼゆ。山の丈夫にてありしかば、かんがふるちからもありなまし。かんがふることあらば、婆子がそのひとにてありけることもきこゆべかりしかども、山の山にてあらざりしときにてあれば、婆子がそのひとなることもいまだしられずみえざるなり。
また婆子を疑著すること、ゆゑなきにあらず、山道不得ならんに、などか山にむかふていはざる、和尚いま道不得なり、さらに老婆にとふべし、老婆かへりて和尚のためにいふべしと。このとき山の問をえて、山にむかひていふことありせば、老婆がまことにてあるちからもあらはれぬべし。
かくのごとく古人の骨髓も、面目も、古佛の光明も、現瑞も、同參の功夫ありて、山をも、婆子をも、不可得をも、可得をも、餠をも、心をも、把定にわづらはさるのみにあらず、放行にもわづらはさるなり。
いはゆる佛心はこれ三世なり、心と三世とあひへだたること、毫釐にあらずといへども、あひはなれあひさることを論ずるには、すなはち十萬八千よりもあまれる深遠なり。いかにあらんかこれ過去心といはば、かれにむかひていふべし、これ不可得と。いかにあらんかこれ現在心といはば、かれにむかひていふべし、これ不可得と。いかにあらんかこれ未來心といはば、かれにむかひていふべし、これ不可得と。
いはくのこころは心をしばらく不可得となづくる心ありとはいはず、しばらく不可得なりといふ。心うべからずとはいはず、ひとへに不可得といふ。心うべしとはいはず、ひとへに不可得といふ。またいかなるか過去心不可得といはば、生死去來といふべし。またいかなるか現在心不可得といはば、生死去來といふべし。またいかなるか未來心不可得といはば、生死去來といふべし。
おほよそ牆壁瓦礫にてある、佛心あり、三世佛、ともにこれを不可得にてありと證す。佛心にてある牆壁瓦礫のみあり、佛三世にこれを不可得なりと證す。いはんや山河大地にてある、不可得のみづからにてあるなり。草木風水なる不可得のすなはち心なるあり、また應無所住而生其心の不可得なるあり、また十方佛の一代の代にて八萬法門をとく。不可得の心、それかくのごとし。
また大證國師のとき、大耳三藏はるかに西天より到京せり、他心通をえたりと稱ず。唐の肅宗皇帝、ちなみに國師に命じて試驗せしむるに、三藏わづかに國師をみて、すみやかに禮拜して右にたつ。
國師つひにとふ、なんぢ他心通をえたりやいなや。
三藏まうす、不敢と。
國師いはく、なんぢいふべし老いまいづれのところにかある。
三藏まうす、和尚はこれ一國の師なり、なんぞ西川にゆきて競渡のふねをみる。
國師ややひさしくして再問す、なんぢいふべし老いまいづれのところにかある。
三藏まうす、和尚はこれ一國の師なりなんぞ天津橋上にゆきて、を弄するをみる。
國師またとふ、なんぢいふべし、老いまいづれのところにかある。
三藏ややひさしくあれどもしることなしみるところなし。
國師ちなみに叱していはく、這野狐、なんぢが他心通いづれのところにかある。
三藏また祗對なし。
かくのごとくのことしらざればあしし、きかざればあやしみぬべし。佛と三藏と、ひとしかるべからず、天地懸隔なり。佛は佛法をあきらめてあり、三藏はいまだあきらめず。まことにそれ三藏は在俗も三藏なることあり、たとへば文花にところをえたらんがごとし。とかあればひろく竺漢の言音をあきらめてあるのみにあらず、他心通をも修得せりといへども、佛道の身心におきてはゆめにもいまだみざるゆゑに、佛道の位に證せる國師にまみゆるには、すなはち勘破せらるるなり。
いはゆる佛道に心をならふには、萬法心なり、三界唯心なり、唯心これ唯心なるべし、是佛心なるべし。たとひ自なりともたとひ他なりとも、佛道の心をあやまらざるべし。いたづらに西川に流落すべからず、天津橋におもひわたるべからず。
佛道の身心を保任すべくは、佛道の智通を學すべし。
いはゆる佛道には盡地みな心なり、起滅にあらたまらず、盡法みな心なり、盡心を智通とも學すべし。三藏すでにこれをみず、野狐のみなり。しかあれば以前兩度もいまだ國師の心をみず、國師の心に通ずることなし。いたづらなる西川と天津と競渡ととのみにたはぶるる野狐子なり、いかにしてか國師をみん。
また國師の在處をみるべからざる道理あきらけし。老いまいづれのところにかあるとみたびとふに、このことばをきかず、もしきくことあらば、たづぬべし、きかざれば蹉過するなり。三藏もし佛法をならふことありせば、國師のことばをきかまし、國師の身心をみることあらまし。ひごろ佛法をならはざるがゆゑに、人中天上の導師にうまれあふといへども、いたづらにすぎぬるなり、あはれむべしかなしむべし。
おほよそ三藏の學者、いかでか佛の行履におよばん、國師の邊際をしらん。いはんや西天の論師、および竺乾の三藏、たえて國師の行履をしるべからず。三藏のしらんことは、天帝もしるべし、論師もしるべし。論師天帝しらんこと、補處の智力およばざらんや、十聖三賢もおよばざらんや。國師の身心は、天帝もしるべからず、補處もいまだあきらめざるなり。身心を佛家に論ずることかくのごとし、しるべし信ずべし。
わが大師釋尊の法、いまだ二乘外道等の野狐にはおなじからざるなり。しかあるにこの一段の因、ふるくより代の尊宿、おのおの參究するにその話のこれり。
ありて趙州にとふ、三藏なにとしてか第三度に國師の所在をみざる。
趙州いはく、國師三藏の鼻孔上に在り、所以に見ず。
またありて玄沙にとふ、に鼻孔上に在り、甚としてか見ざる。
玄沙いはく、只だ太近が爲なり。
海會端いはく、國師若し三藏が鼻孔上に在らば、什麼の見難きことか有らん、殊に國師三藏が眼睛裏に在ることを知らず。
また玄沙三藏を徴していはく、汝道前兩度還つて見るや。
雪竇顯いはく、敗也敗也。
またありて仰山にとふ、第三度なにとしてか三藏ややひさしくあれども國師の所在をみざる。
仰山いはく、前兩度は是れ渉境心、後自受用三昧に入る、所以に見ず。
この五位の尊宿、ともに諦當なれども、國師の行履は蹉過せり。いはゆる第三度しらずとのみ論じて、前兩度はしれりとゆるすににたり、これすなはち古先の蹉過するところなり、晩進のしるべきところなり。
興聖いま五位の尊宿を疑著すること、兩般あり。一にはいはく、國師の三藏を試驗する意趣をしらず、二にはいはく、國師の身心をしらず。しばらく國師の三藏を試驗する意趣をしらずといふは、第一番に國師いはく、汝道老今在什麼處と。
いふこころは、三藏もし佛法をしれりや、いまだしらずやと試問するとき、三藏もし佛法をきくことあらば、老今在什麼處ときくことばを、佛法にならふべきなり。佛法にならふといふは、國師の老いまいづれのところにかあるといふは、這邊にあるか、那邊にあるか、無上菩提にあるか、般若波羅蜜にあるか、空にかかれるか、地にたてるか、草庵にあるか、寶所にあるかととふなり。三藏このこころをしらず、いたづらに凡夫二乘での見解をたてまつる。
國師かさねてとふ汝道老今在什麼處。ここに三藏さらにいたづらのことばをたてまつる。國師かさねてとふ、汝道今在什麼處、ときに三藏ややひさしくあれどもものいはず、ここち茫然なり。ちなみに國師すなはち三藏を叱していはく、這野狐、他心通在什麼處。かくいふに、三藏なほいふことなし。
つらつらこの因をおもふに、古先ともにおもはくは、いま國師の三藏を叱すること、前兩度は國師の所在をしるといへども、第三度しらざるがゆゑに叱するなりと。しかにはあらず。おほよそ三藏の野狐のみにして、佛法は夢也未見在なることを叱するなり。前兩度はしれり、第三度はしらざるといはぬなり。叱するは總じて三藏を叱するなり。
國師のこころは、まづ佛法を他心通といふことありやいなやともおもふ。またたとひ他心通といふとも、他も佛道にならふ他を擧すべし、心も佛道にならふ心を擧すべし、通も佛道にならふ通を擧すべきに、いま三藏いふところは、かつて佛道にならふところにあらず、いかでか佛法といはんと國師はおもふなり。試驗すといふは、たとひ第三度いふところありとも、前兩度のごとくならば、佛法の道理にあらず、國師の本意にあらざれば、叱すべきなり。三度問著するは、三藏もし國師のことばをきくことやあると、かさねて問著するなり。
二には、國師の身心をしらずといふは、いはゆる國師の身心は、三藏のしるべきにあらず通ずべきにあらず、十聖三賢およばず、補處等覺のあきらむるにあらず、凡夫三藏いかでかしらんと。この道理、あきらかに決定すべし。國師の身心は、三藏もしるべしおよぶべしと擬するは、おのれすでに國師の身心をしらざるによりてなり。他心通をえんともがら、國師をしるべしといはば、二乘さらに國師をしるべきか。しかあるべからず、二乘人は、たえて國師の邊際におよぶべからざるなり。
いま大乘經をよむ二乘人おほし、かれらも國師の身心をしるべからず、また佛法の身心、よめにもみるべからざるなり。たとひ大乘經を讀誦するににたれども、またくかれは小乘人なりとあきらかにしるべし。
おほよそ國師の身心は、通修證をうるともがらのしるべきにあらざるなり。國師の身心は、國師なほはかりがたからん。ゆゑはいかん、行履ひさしく作佛を圖せず、ゆゑに佛眼も不見なり、去就はるかに窟を落せり、籠羅の拘牽すべきにあらざるなり。
いま五位の尊宿、ともに勘破すべし。趙州いはく、國師は三藏の鼻孔上にあるゆゑにみず。この話なにとかいふ、本をあきらめずして末をいふには、かくのごとくのあやまりあり。國師いかにしてか三藏の鼻孔上にあらん、三藏いまだ鼻孔なし、また國師と三藏と、あひみるたよりあるにあひにたれども、あひちかづくみちなし、明眼はまさに辨肯すべし。
玄沙いはく、只爲太近。まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはあたらず。いかなるをか太近といふ、なにをか太近と擧する。玄沙いまだ太近をしらず、太近を參せず、佛法におきては遠之遠矣。
仰山いはく、前兩度渉境心、後入自受用三昧、所以不見。これ小釋のほまれ西天にたかくひびくといへども、この不是なきにあらず。相見のところはかならず渉境なりといはば、佛相見のところなきがごとし。授記作佛の功ならはざるににたり。前兩度は實に三藏よく國師の所在をしれりといふ、國師の一毛の功をしらずといふべし。
玄沙の徴にいはく、前兩度還見麼。この還見麼の一句、いふべきをいふににたりといへども、見如不見といはんとす、ゆゑに是にあらず。
これをききて、雪竇明覺禪師いはく、敗也敗也。これ玄沙の道を道とするとき、しかいふべし、道にあらずとせんとき、しかいふべからず。
海會端いはく、國師若在三藏鼻孔上、有什麼難見、殊不知國師在三藏眼睛裏。これまた第三度を論ずるなり、前兩度もみざることを呵すべきを呵せず、いかんが國師の鼻孔上にあり、眼睛裏にありともしらん。
五位尊宿、いづれも國師の功にくらし、佛法の辨道ちからなきににたり。しるべし國師はすなはち一代の佛なり、佛正法眼藏あきらかに正傳せり。小乘の三藏論師等さらに國師の邊際をしらざる、その證これなり。他心通といふこと小乘のいふがごときは、他念通といひぬべし。
小乘三藏の他心通のちから、國師の一毛端をも半毛端をもしるべしとおもへるはあやまりなり。小乘の三藏、すべて國師の功の所在、みるべからずと、一向ならふべきなり。たとひもし國師さきの兩度は所在をしらるといへども、第三度にしらざらんは、三分に兩分の能あらん、叱すべきにあらず。たとひ叱すとも全分虧闕にあらず。これを叱せんたれか國師を信ぜん。意趣は、三藏すべていまだ佛法の身心あらざることを叱せしなり。
五位の尊宿、すべて國師の行李をしらざるによりて、かくのごとくの不是あり。このゆゑにいま佛道の心不可得をきかしむるなり。この一法を通ずることえざらんともがら、自餘の法を通ぜりといはんこと信じがたしといへども、古先もかくのごとく將錯就錯ありとしるべし。
あるときありて國師にとふ、いかにあらんかこれ佛常住心。
國師いはく、幸いに老參内に遇ふ。
これも不可得の心を參究するなり。
天帝釋あるとき國師にとふ、いかにしてか有爲を解せん。
國師いはく、天子修道して有爲を解すべし。
天帝釋かさねてとふ、いかならんかこれ道。
國師いはく、造次心是道。
天帝釋いはく、いかならんかこれ造次心。
國師ゆびをもてさしていはく、這箇是般若臺、那箇是眞珠網。
天帝釋禮拜す。
おほよそ佛道に身心を談ずること、佛佛の會におほし。ともにこれを參學せんことは、凡夫賢聖の念慮知覺にあらず。心不可得を參究すべし。

正法眼藏心不可得
仁治二年辛丑夏安居日書于興聖寶林寺