第三十八 唯佛與佛

佛法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として佛法を悟るなし、二乘として佛法をきはむるなし。ひとり佛にさとらるるゆゑに、唯佛與佛、乃能究盡といふ。それをきはめ悟るとき、われながらも、かねてより悟るとはかくこそあらめとおもはるることはなきなり。たとひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがはぬ悟りにてなきなり。悟りもおぼえしがごとくにてもなし。かくあれば、かねておもふ、そのようにたつべきにあらず。悟りぬるをりは、いかにありけるゆゑに悟りたりとおぼえぬなり。これにてかへりしるべし、悟りよりさきに、とかくおもひけるは、悟りのようにあらぬと。さきのさまざまおもふおもひのえうにあらざりけるは、おもひのまことにあしくして、そのちからのなきにてはなし。こしかたのおもひもさながら悟りにてありけるを、そのをりは、さかさまにせんとしけるゆゑに、ちからのなきとは、おもひもいひもするなり。えうにあらずとおぼゆることは、しるべきところ必ずあり。いはゆる、ちひさくはならじと恐れける。もし悟りよりさきのおもひをちからとして悟りのいでこんは、たのもしからぬ悟りにてありぬべし。悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて來れるゆゑに、悟りとは、ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる。まどひはなきものぞとも知るべし、さとりはなきことぞとも知るべし。無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。佛の無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ。この道にあるときの面目、しらざらんはおろかなりぬべし。
いはゆるその面目は、不染汚なり。不染汚とは、趣向なく、取舍なからんと、しひていとなみ、趣向にあらざらんところ、つくろひするにはあらぬなり。いかにも趣向せられず、取舍せられぬ不染汚のあるなり。たとへば、人にあふに、面目のいかやうなるとおぼえぬ、はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず、はるはただはるながらの心、あきも又あきながらの美惡にて、のがるべきにあらぬを、われにあらざらんとするには、われなるにても、おもひしるべし。このはる、あきのこゑ、われならんとするにも、われにあらざるにても、かへりみるべし。われにつもれるにてもなし、今もわれにあるおもひにてもなきなり。その心は、今の四大五蘊、各各われとわれとすべきにてもあらず、たれとたどるべからず。しかあれば、花月のもよほす心のいろ、又われとすべきにあらぬをわれとおもふ。われにあらぬをわれとおもひ、さもあらばあれ、そむくべきかたの色も、おもむくべきかたのそめられぬべきもなしとてらす時、おのづから道にある行履もかくれざりける本來の面目なり。
ふるき人のいはく、盡大地これ自己の法身にてあれども、法身にさへられざるべし。もし法身にさへられぬるには、いささか身を轉ぜんとするにもかなはず。出身の道あるべし、いかなるか是れ人の出身の道と。もしこの出身のみちをいはざらんものは、法身のいのちも、たちまちにたえて、ながく苦海にしづみぬべし。かくのごとくとはんに、いかにといはんか、法身をもいけ、苦海にもしづまざるべきと。
このときいふべし、盡大地、自己の法身なりと。
もしこの道理にてあらん、盡大地自己の法身といふをりはいはれぬ。又いはれざらんとき、ふつといはぬとやこころうべき。いはぬ、いはぬ。
古佛のいへる事あり。死のなかにいけることあり、いけるなかに死せることあり。死せるがつねに死せるあり、いけるがつねにいけるあり。これ人のしひてしかあらしむるにあらず、法のかくのごとくなるなり。
しかあれば、法輪を轉ずるをりも、かくのごとくのひかりあり、こゑあり。現身度生にもしかありとしるべし。これを無生の知見とはいふ。現身度生とは、度生現身にてありけるなり。度にむかひて現をたどらず、現をみるに度をあやしむことなかるべし。この度に、佛法はきはめつくせりと心うべし、とくべし、證ずべし。現にも身にも、度のごとくにありけると聞くなり、とくなり。これも現身度生のしかあらしめけるとなり。この旨を證じけるにぞ、得道のあしたより、涅槃のゆふべにいたるまで、一字をもとかざりけるとも、とかるることばの自在なりける。
古佛云く、盡大地是れ眞實人體なり、盡大地是れ解門なり、盡大地是れ毘盧一隻眼なり、盡大地是れ自己の法身なり。
いはゆるこころは、眞實とは、まことの身となり。盡大地を、われらがかりにあらざりけるまことしき身にてありけるとはしるべし。ひごろはなにとしてかしらざりけると問ふ人あらば、盡大地是れ眞實人體といひつることを我れにかへせといふべし。又、盡大地是れ眞實人體とは、かくのごとく知るともいふべし。
又、盡大地これ解門とは、いかにもまつはれかがふることなきになづくるなり。盡大地のことばは、ときにもとしにも、心にもことばにも、したしくして、ひまなく親蜜なり。かぎりなく、ほとりなきを盡大地と云ふべきなり。この解門にいらんことをもとめ、いでんことをもとめんに、又うべからざるなり。なにとしてかかくのごとくなる。發問をかへりみるべし。あらぬところを尋ねばやとおもはんにも、かなふべからざるものなり。
又、盡大地は是れ毘盧のひとつのまなこなりとは、佛はひとつのまなこといへる、かならずしも人のまなこのやうにあらんずるとはおもはざれ。人にも、目こそは二もあれ、まなこをいふときは、人眼とばかりいひて、二とも三ともいはぬなり。をまなぶものの、佛眼といひ、法眼といひ、天眼などいふも、めにてありとはならはぬなり。目のやうにあらんとしれるをば、はかなきといふ。今はただ佛の眼ひとつにて、盡大地ありけるときくべし。千眼もあれ、萬の眼もあれ、まづしばらく盡大地がそのなかのひとつにてあるとなり。かくおほかるなかに、ひとつぞと云ふもとがなし。又、佛にはただまなこはひとつのみありとしるもあやまらず。まなこはさまざまあるべきぞかし。三あるもあり、千眼あるもあり、八萬四千ありと云ふ事もあれば、まなこのかくのごとくなりとききて、耳をおどろかさざるべし。又、盡大地はみづからが法身なりときくべし。みづからをしらん事をもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。しかあれども、まことのみづからをばみるものまれなり、ひとり佛のみこれをしれり。その外の外道等は、いたづらにあらぬをのみわれとおもふなり。佛の云ふみづからは、則ち盡大地にてあるなり。しかあれば、みづからと知るも知らぬも、皆ともにおのれにあらぬ盡大地はなし。この時のことば、かのときの人にゆづるべし。

むかし有りて古に問ふ、百千萬境一時に來らん時、いかがすべき。
云く、莫管他(他を管ずること莫れ)。
いふ心は、來らん事はさもあらばあれ、ともかくもうごかすべからずとなり。これすみやかなる佛法にてあり、境にてはなし。このことばをば炳誡とは心うべからず、諦實にてありと心得べし。いかにも管ずるかとすれば、管ぜられざりけるなり。

ふるき佛の云く、山河大地と人と同じくむまれ、三世の佛と人と同じく行ひ來れり。
しかあればすなはち、一人むまるるをりに山河大地をみるに、この一人がむまれざりつるさきよりありける山河大地のうへに、いまひとへかさねてむまれいづるとみえず。しかあればとても、又ふるきことばのむなしかるべきにはあらず。いかにか心うべき。心えられずとて、さしおくべきにはあらねば、かならずこころうべし、とふべし。すでにとけることばにてあれば、きくべし。ききてはまた心うべきなり。
これを心えんやうは、このむまるる一人がかたよりこの生をたづぬるに、この生と云ふことは、いかにあることと、はじめ、をはりあきらめける人はたれぞ。終りも始めも知らざれども、うまれきたれり。夫れただ山河大地のきはもしらざれども、ここをばみる、この處をばふみありくがごとし。生のごとくにあらぬ山河大地よと、うらむるおもひなかれ。山河大地をひとしき我が生なりといへりけりとあきらむべし。又三世佛はすでにおこなひて道をもなり、悟りもをはれり。この佛とわれとひとしとは、又いかにか心うべき。まづしばらく佛の行をこころうべし。佛の行は、盡大地とおなじくおこなひ、盡衆生ともにおこなふ。もし盡一切にあらぬは、いまだ佛の行にてはなし。
しかあれば、心をおこすより、さとりをうるにいたるまで、かならず盡大地と盡衆生と、さとりもおこなひもするなり。これにいかにかうたがふおもひもあるべきに、しられぬおもひもまじるににたるを、あきらめんとて、かくのごとくのこゑのきこゆるも、人のようとはあやしまざるべし。これは、心うるをしへにては、三世の佛のこころをもおこしおこなふは、かならず、われらが身心をばもらさぬことわりのあるなりとしるべし。
これをうたがひおもふは、すでに三世の佛をそしるなり。しづかにかへりみれば、われらが身心は、まことに三世の佛とおなじくおこなひける道理あり、發心しける道理もありぬべくみゆるなり。この身心のさき、のちをかへりみてらせば、尋ぬべき人のわれにあらず、人にあらざらんには、なにをとどこほる處としてか、三世にはへだたれりとおもはん。このおもひども、しかしながらわれにあらず。なにとしてかは、又三世の佛の本心の處行道のときをばさへんとはすべき。しばらく、道は知不知にはあらぬとはなづくべし。

ふるき人の云く、撲落も他物にあらず、縱横これ論にあらず。山河および大地、すなはち全露法王身なり。
いまの人も、むかしの人のいへるがごとくならふべし。すでに法王の身にてあり、しかれば、撲落もことなるものにはあらざりけると心うる法王ありける。このこころは、山の地にあるがごとし、地の山をのせてあるににたり。心うるに、心えざりつるをりのきたりて心うる、さまたげず。又、心うるが、心えざりつるをやぶることもなくして、しかも心うると心えぬとの、はるのいろ、あきのこゑあり。それをも心えざりつるは、聲おほきにして、ときけるその聲、耳にいらず、耳、こゑのなかにあそびありきける。心うるは、こゑすでに耳に入りて三昧あらはるるをりにてあるべし。この、心うるはちひさく、心えぬはおほきにてありけるとも思はざるべし。わたくしにおもひえたる事にはあらねば、法王のかくのごとくなりけるとしるべし。法王のみとは、まなこも身のごとくにあり、心もみとひとしかるべし。心とみと、一毫の隔てなく、全露にてあるべし。光明にも法にも、かみにいふがごとくに、法王身にてありと心うるなり。
むかしより自いへることあり、いはゆる、うをにあらざればうをのこころをしらず、とりにあらざれば鳥のあとをたずねがたし。
このことわりをも、よく知れる人まれなり。人のうをの心をしらぬとのみおもへるは、あしくしれり。これを知るやうは、魚と魚とは、かならずあひたがひにその心を知るなり。人のやうにしらぬことはなくて、龍門をさかのぼらんとおもふにも、ともにしられ、同じく心をひとつにするなり。九浙をしのぐ心もかよひしらるるなり。これを、うをにあらぬはしることなし。
又鳥のそらを飛びぬるをば、いかにもことけだものは、このあしのあとをしり、このあとをみてたづぬることは、夢にもいまだおもひよらず。さありと知らねば、おもひよるためしもなし。しかあるを、鳥はよく、ちひさき鳥のいく百千むらがれすぎにける、これはおほきなる鳥のいくつらみなみにさり、きたに飛びにけるあとよと、かずかずにみるなり。車の跡の路にのこり、馬の跡の草にみゆるよりもかくれなし。鳥は鳥のあとを見るなり。
このことわりは、佛にもあり。佛のいくよよにおこなひすぎにけるよとおもはれ、ちひさき佛、おほきなる佛、かずにもれぬるかずながらしるなり。佛にあらざるをりは、いかにも知られざる事なり。いかにしられざるぞといふ人もありぬべし。佛のまなこにてそのあとをみるべきがゆゑに、佛にあらぬは佛の眼をそなへず。佛のものかぞふるかずなり。しらねばすべて佛の路のあとをばたどりぬべし。このあと、もしめにみえば、佛にてあるやらんと、足のあとをもたくらぶべし。たくらぶる處に、佛のあともしられ、佛のあとの長短も淺深もしられ、わがあとのあきらめらるることは、佛のあとをはかるよりうるなり。このあとをうるを、佛法とはいふなるべし。

正法眼藏第三十八唯佛與佛

弘安十一年季春晦日、於越州吉田縣志比莊、吉祥山永平寺知賓寮南軒書寫之