第九 四馬

世尊一日、外道來詣佛所問佛、不問有言、不問無言(世尊一日、外道、佛の所に來詣りて佛に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
世尊據坐良久(世尊、據坐良久したまふ)。
外道禮拜讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入(外道、禮拜し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
乃作禮而去(乃ち作禮して去りぬ)。
外道去了、阿難尋白佛言、外道以何所得、而言得入、稱讃而去(外道去り了りて、阿難、尋いで佛に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、稱讃して去るや)。
世尊云、如世間良馬、見鞭影而行(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
師西來よりのち、いまにいたるまで、善知識おほくこの因を擧して參學のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、佛法に信入するものあり。これを外道問佛話と稱ず。しるべし、世尊に聖默聖の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖默聖にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。

龍樹師曰、爲人句、如快馬見鞭影、入正路(人の爲に句をくに、快馬の鞭影を見て、ち正路に入るが如し)。
あらゆる機、あるいは生不生の法をきき、三乘一乘の法をきく、しばしば邪路におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときは、すなはち正路にいるなり。もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。坐に鞭影をみるもの、三阿祇をへて鞭影をみるものあり、無量劫を經て鞭影をみ、正路にいることをうるなり。

雜阿含經曰、佛告比丘、有四種馬、一者見鞭影、便驚悚隨御者意。二者觸毛、便驚悚隨御者意。三者觸肉、然後乃驚。四者徹骨、然後方覺。初馬如聞他聚落無常、能生厭。次馬如聞己聚落無常、能生厭。三馬如聞己親無常、能生厭。四馬猶如己身病苦、方能生厭(雜阿含經に曰く、佛、比丘に告げたまはく、四種の馬有り、一つには鞭影を見るに、便ち驚悚して御者の意に隨ふ。二つには毛に觸るれば、便ち驚悚して御者の意に隨ふ。三つには肉に觸れて、然して後乃ち驚く。四つには骨に徹つて、然して後方に覺す。初めの馬は、他の聚落の無常を聞きて、ち能く厭を生ずるが如し。次の馬は、己が聚落の無常を聞きて、ち能く厭を生ずるが如し。三の馬は、己が親の無常を聞きて、ち能く厭を生ずるが如し。四の馬は、猶ほ己が身の病苦によりて、方に能く厭を生ずるが如し)。
これ阿含の四馬なり。佛法を參學するとき、かならず學するところなり。眞善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして師なるは、かならずこれを參學しきたりて、學者のために傳授するなり。しらざるは人天の善知識にあらず。學者もし厚殖善根の衆生にして、佛道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。佛道とほきものは、きかず、しらず。
しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。いま生厭といふは、
佛以一音演法(佛、一音を以て法を演したまふに)、
衆生隨類各得解(衆生、類に隨つて各解を得)。
或有恐怖或歡喜(或いは恐怖する有り、或いは歡喜し)、
或生厭離或斷疑(或いは厭離を生じ、或いは疑ひを斷ず)。
なり。

大經曰、佛言、復次善男子、如調馬者、凡有四種。一者觸毛、二者觸皮、三者觸肉、四者觸骨。隨其所觸、稱御者意。如來亦爾、以四種法、調伏衆生。一爲生、便受佛語。如觸其毛隨御者意。二生老、便受佛語。如觸毛皮、隨御者意。三者生及以老病、便受佛語。如觸毛皮肉隨御者意。四者生及老病死、便受佛語。如觸毛皮肉骨、隨御者意(大經に曰く、佛言はく、復た次に善男子、調馬者の如き、凡さ四種有り。一つには觸毛、二つには觸皮、三つには觸肉、四つには觸骨なり。其の觸るる所に隨つて、御者の意に稱ふ。如來も亦た爾なり、四種の法を以て、衆生を調伏したまふ。一つには爲に生をきたまふに、便ち佛語を受く。其の毛に觸るれば御者の意に隨ふが如し。二つには生、老をきたまふに、便ち佛語を受く。毛、皮に觸るれば御者の意に隨ふが如し。三つには生及以び老、病をきたまふに便ち佛語を受く。毛、皮、肉に觸るれば御者の意に隨ふが如し。四つには生及び老、病、死をきたまふに、便ち佛語を受く。毛、皮、肉、骨に觸るれば御者の意に隨ふが如し)。
善男子、御者調馬、無有決定。如來世尊、調伏衆生、必定不。是故號佛調御丈夫(善男子、御者の馬を調ふること、決定有ること無し。如來世尊、衆生を調伏したまふこと、必定してしからず。是の故に佛を調御丈夫と號く)。
これを涅槃經の四馬となづく。學者ならはざるなし、佛ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく、ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとには、かならず聽聞し、佛法を傳授するごとには、衆生のためにこれをとくこと、歴劫におこたらず。つひに佛果にいたりて、はじめ初發心のときのごとく、菩薩聲聞、人天大會のためにこれをとく。このゆゑに、佛法寶種不斷なり。
かくのごとくなるがゆゑに、佛の所と菩薩の所と、はるかにことなり。しるべし、調馬師の法におほよそ四種あり。いはゆる觸毛、觸皮、觸肉、觸骨なり。これなにものを觸毛せしむるとみえざれども、傳法の大士おもはくは、鞭なるべしと解す。しかあれども、かならずしも調馬の法に鞭をもちゐるもあり、鞭をもちゐざるもあり。調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず。たてるたけ八尺なる、これを龍馬とす。このむまととのふること、人間にすくなし。また千里馬といふむまあり、一日のうちに千里をゆく。このむま五百里をゆくあひだ、血汗をながす、五百里すぎぬれば、涼にしてはやし、このむまにのる人すくなし。ととのふる法、しれるものすくなし。このむま、丹國にはなし、外國にあり。このむま、おのおのしきりに鞭を加すとみえず。
しかあれども、古いはく、調馬かならず鞭を加す。鞭にあらざればむまととのほらず。これ調馬の法なり。いま觸毛皮肉骨の四法あり、毛をのぞきて皮に觸することあるべからず。毛、皮をのぞきて肉、骨に觸すべからず。かるがゆゑにしりぬ、これ鞭を加すべきなり。いまここにとかざるは文の不足なり。
經かくのごときのところおほし、如來世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不なり。いはゆる生を爲するにすなはち佛語をうくるあり、生、老を爲するに佛語をうくるあり、生、老、病を爲するに佛語をうくるあり、生、老、病、死を爲するに佛語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一をはなれず。世間の調馬の、觸毛をはなれて觸皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を爲すといふは、如來世尊の生老病死を爲しまします、衆生をして生老病死をはなれしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を爲するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をえしめんがためなり。これ如來世尊、調伏衆生、必定不、是故號佛調御丈夫なり。

正法眼藏四馬第九

建長七年乙卯夏安居日以御草案書寫之畢