第七 深信因果

百丈山大智禪師懷海和尚、凡參次、有一老人、常隨衆聽法。衆人退老人亦退。忽一日不退(百丈山大智禪師懷海和尚、凡そ參次に一りの老人有つて、常に衆に隨つて聽法す。衆人退すれば老人もまた退す。忽ちに一日退せず)。
師遂問、面前立者、復是何人(師、遂に問ふ、面前に立せるは、復た是れ何人ぞ)。
老人對曰、某甲是非人也。於過去葉佛時、曾住此山。因學人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答曰、不落因果。後五百生、墮野狐身。今和尚代一轉語、貴野狐身(老人對して曰く、某甲は是れ非人なり。過去葉佛の時に、曾て此の山に住せり。因みに學人問ふ、大修行底の人、還た因果に落つや無や。某甲答へて曰く、因果に落ちず。後五百生まで、野狐の身に墮す。今すらくは和尚、一轉語を代すべし。貴すらくは野狐の身をれんことを)。
遂問曰、大修行底人、還落因果也無(大修行底の人、還た因果に落つや無や)。
師曰、不昧因果(因果に昧からず)。
老人於言下大悟、作禮曰、某甲已野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡事例(老人言下に大悟し、禮を作して云く、某甲已に野狐身をかれぬ、山後に住在せらん。敢告すらくは和尚、乞ふ亡の事例に依らんことを)。
師令維那白槌告衆曰、食後送亡(師、維那に令して白槌して衆に告して曰く、食後に亡を送るべし)。
大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是(大衆言議すらく、一衆皆安なり、涅槃堂にまた病人無し、何が故ぞ是の如くなる)。
食後只見、師領衆、至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬(食後に只見る、師、衆を領して、山後の岩下に至り、杖を以て一つの死野狐を指出するを。乃ち法に依つて火葬せり)。
師至晩上堂、擧前因(師、至晩に上堂して、前の因を擧す)。
黄檗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身。轉轉不錯、合作箇什麼(黄檗便ち問ふ、古人錯つて一轉語を祗對し、五百生野狐身に墮す。轉轉錯らざらん、箇の什麼にか作る合き)。
師曰、近前來、與道(近前來、が與に道はん)。
檗遂近前、與師一掌(檗、遂に近前して、師に一掌を與ふ)。
師拍手笑云、將謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在(師、拍手して笑つて云く、將に胡の鬚の赤きかと謂へば、更に赤き鬚の胡在ること有り)。
この一段の因、天聖廣燈録にあり。しかあるに、參學のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて惡趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの惡趣をす。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代參禪學道と稱ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。

第十九鳩摩羅多尊者曰、且善惡之報、有三時焉。凡人但見仁夭暴壽、逆吉義凶、便謂亡因果。殊不知、影響相隨、毫釐靡。縱經百千萬劫、亦不磨滅(第十九鳩摩羅多尊者曰く、且く善惡の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に暴は壽く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪しと謂へり。殊に知らず、影響相隨ひて毫釐もふこと靡きを。縱ひ百千萬劫を經とも、亦た磨滅せず)。
あきらかにしりぬ、曩いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ宗の慈誨をあきらめざるは稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにしてみだりに人天の善知識と自稱するは、人天の大賊なり、學者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後學晩進のために語ることなかれ。これは邪なり、さらに佛の法にあらず。汝等が疎學によりて、この邪見に墮せり。
旦國の衲等、ままにいはく、われらが人身をうけて佛法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報の墜墮にあらじ。金鎖玄關留不往、行於異類且輪廻(金鎖玄關留むれども往せず、異類に行じて且く輪廻す)なるべし。大善知識とあるともがらの見解かくのごとし。この見解は、佛の屋裡におきがたきなり。あるいは人、あるいは狼、あるいは餘趣のなかに、生得にしばらく宿通をえたるともがらあり。しかあれども、明了の種子にあらず、惡業の所感なり。この道理、世尊ひろく人天のために演しまします。これをしらざるは疎學のいたりなり。あはれむべし、たとひ一千生、一萬生をしるとも、かならずしも佛法なるべからず。外道すでに八萬劫をしる、いまだ佛法とせず。わづかに五百生をしらん、いくばくの能にあらず。
近代宋朝の參禪のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果を邪見のとしらざるにあり。あはれむべし、如來の正法の流通するところ、正傳せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。參學のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれば、修因感果のむね、あきらかなり。佛佛の道なるべし。おほよそ佛法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演することなかれ。

龍樹師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶、四諦、四沙門果(龍樹師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三寶、四諦、四沙門果無けん)。
あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。

永嘉眞覺大師玄覺和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を學せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃經を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すすみて曹谿に詣し、證をもて六に告す。六つひに印可す。のちに證道歌をつくるにいはく、
豁達空、撥因果(空に豁達し、因果を撥へば)、
蕩蕩招殃禍(蕩蕩として殃禍を招く)。
あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を學せんともがらは、古のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。

宏智古佛、かみの因を頌古するにいはく、
一尺水、一丈波(一尺の水、一丈の波)、
五百生前不奈何(五百生前奈何ともせず)。
不落不昧商量也(不落不昧商量するや)、
依前撞入葛藤(依前として葛藤に撞入す)。
阿呵呵。會也麼(阿呵呵。會也麼)。
若是洒洒落落(若し是れ洒洒落落たらば)、
不妨我和和(妨げず我が和和なるを)。
歌社舞自成曲(歌社舞自ら曲を成し)、
拍手其間唱哩(其の間に拍手して哩を唱ふ)。
いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤の句、すなはち不落と不昧と、おなじかるべしといふなり。
おほよそこの因、その理、いまだつくさず。そのゆゑいかんとなれば、野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および餘趣に生ずといはず。人の疑ふところなり。野狐身のすなはち、善趣にうまるべくは天上人間にうまるべし、惡趣にうまるべくは四惡趣等にうまるべきなり。野狐身ののち、むなしく生處なかるべからず。もし衆生死して性海に歸し、大我に歸すといふは、ともにこれ外道の見なり。

夾山圜悟禪師克勤和尚、頌古に云く、
魚行水濁、鳥飛毛落(魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ)、
至鑑難逃、太寥廓(至鑑逃れ難く、太寥廓たり)。
一往迢迢五百生(一往迢迢たり五百生)、
因果大修行(只因果につて大修行す)。
疾雷破山風震海(疾雷、山を破り、風、海を震はす)、
百錬金色不改(百錬の金、色改まらず)。
この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり。

杭州徑山大慧禪師宗杲和尚、頌に云、
不落不昧、石頭土塊(不落不昧、石頭土塊)、
陌路相逢、銀山粉碎(陌路に相逢ふて、銀山粉碎す)。
拍手呵呵笑一場(拍手呵呵笑ひ一場)。
明州有箇布袋(明州に箇の布袋有り)。
これらをいまの宋朝のともがら、作家の師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ佛法の施權のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり。

おほよそこの因に、頌古、拈古のともがら三十餘人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。佛法參學には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見おこして、斷善根とならんことを。
おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造惡のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、佛の出世あるべからず、師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ佛佛、あきらめつたへましますところなり。澆季の學者、薄にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、蕩蕩として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに餘惡いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。
しかあればすなはち、參學のともがら、菩提心をさきとして、佛の洪恩を報ずべくは、すみやかに果をあきらむべし。

正法眼藏深信因果第七

彼御本奥書に云、建長七年乙卯夏安居日以御草案書寫之
未及中書、書、定有可再治事也、雖然書寫之 懷弉