第四 發菩提心

おほよそ、心三種あり。
一者質多心、此方稱慮知心(一つには質多心、此の方に慮知心と稱ず)。
二者汗栗多心、此方稱草木心(二つには汗栗多心、此の方に草木心と稱ず)。
三者矣栗多心、此方稱積聚要心(三つには矣栗多心、此の方に積聚要心と稱ず)。
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと發願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。
この心もとよりあるにあらず、いまあらたに起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。この心は、法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。なきにあらず。自性にあらず、他性にあらず。共性にあらず、無因性にあらず。しかあれども、感應道交するところに、發菩提心するなり。佛菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず、感應道交するに發心するゆゑに、自然にあらず。
この發菩提心、おほくは南閻浮の人身に發心すべきなり。八難處等にもすこしきはあり、おほからず。菩提心をおこしてのち、三阿祇劫、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひてほとけになる。あるいは無量劫おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず、ただし衆生をわたし、衆生を利するもあり。菩薩の意樂にしたがふ。
おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、佛道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。いたづらに世間の欲樂をあたふるを、利衆生とするにはあらず。この發心、この修證、はるかに迷悟の邊表を超越せり。三界に勝出し、一切に拔群せり。なほ聲聞辟支佛のおよぶところにあらず。

葉菩薩、偈をもて釋牟尼佛をほめたてまつるにいはく、
發心畢竟二無別(發心と畢竟と二、別無し)、
如是二心先心難(是の如くの二心は先の心難し)。
自未得度先度他(自れ未だ度ることを得ざるに先づ他を度す)、
是故我禮初發心(是の故に我れは初發心を禮す)。
初發已爲天人師(初發已に天人師たり)、
勝出聲聞及覺(聲聞及び覺に勝出す)。
如是發心過三界(是の如くの發心は三界に過えたり)、
是故得名最無上(是の故に最無上と名づくることを得)。
發心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり、これを初發菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの佛にあふたてまつり、供養したてまつるに、見佛聞法し、さらに菩提心をおこす、霜上加霜なり。
いはゆる畢竟とは、佛果菩提なり。阿耨多羅三藐三菩提と初發菩提心と、格量せば劫火、螢火のごとくなるべしといへども、自未得度先度他のこころをおこせば、二無別なり。
毎自作是念(毎に自ら是の念を作さく)、
以何令衆生(何を以てか衆生をして)。
得入無上道(無上道に入り)、
速成就佛身(速やかに佛身を成就することを得しめん)。
これすなはち如來の壽量なり。ほとけは發心、修行、證果、みなかくのごとし。
衆生を利すといふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功熟して圓滿すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成佛得道に囘向するなり。この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この發心よりのち、大地を擧すればみな黄金となり、大海をかけばたちまちに甘露となる。これよりのち、土石砂礫をとる、すなはち菩提心を拈來するなり。水沫泡焔を參ずる、したしく菩提心を擔來するなり。
しかあればすなはち、國城妻子、七寶男女、頭目髓腦、身肉手足をほどこす、みな菩提心の鬧聒聒なり、菩提心の活なり、いまの質多、慮知の心、ちかきにあらず、とほきにあらず、みづからにあらず、他にあらずといへども、この心をもて、自未得度先度他の道理にめぐらすこと不退轉なれば、發菩提心なり。
しかあれば、いま一切衆生の我有と執せる草木瓦礫、金銀珍寶をもて菩提心にほどこす、また發菩提心ならざらめやは。心および法、ともに自他共無因にあらざるがゆゑに、もし一刹那この菩提心をおこすより、萬法みなとなる。おほよそ發心、得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の惡さるべからず。前刹那の惡いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。この刹那の量は、ただ如來ひとりあきらかにしらせたまふ。一刹那心、能起一語、一刹那語、能一字(一刹那の心、能く一語を起し、一刹那の語、能く一字をく)も、ひとり如來のみなり。餘聖不能なり。

おほよそ壯士の一彈指のあひだに、六十五の刹那ありて五蘊生滅すれども、凡夫かつて不覺不知なり。怛刹那の量よりは、凡夫もこれをしれり。一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覺知せず。覺知せざるがゆゑに菩提心をおこさず。佛法をしらず、佛法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如來の正法眼藏涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。いまわれら如來のにあふたてまつりて、曉了するににたれども、わづかに怛刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受するのみなり。世尊所の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。學者みだりに貢高することなかれ。極少をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。もし如來の道力によるときは、衆生また三千界をみる。おほよそ本有より中有にいたり、中有より當本有にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。かくのごとくして、わがこころにあらず、業にひかれて流轉生死すること、一刹那もとどまらざるなり。かくのごとく流轉生死する身心をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ發菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有なるべからず。

衆生の壽行生滅してとどまらず、すみやかなること、
世尊在世有一比丘、來詣佛所、頂禮雙足、却住一面、白世尊言、衆生壽行、云何速疾生滅(世尊在世に一比丘有り、佛の所に來詣りて、雙足を頂禮し、却つて一面に住して、世尊に白して言さく、衆生の壽行、云何が速疾に生滅する)。
佛言、我能宣、汝不能知(我れ能く宣するも、汝知ること能はじ)。
比丘言、頗有譬喩能顯示不(頗る譬喩の能く顯示しつべき有りや不や)。
佛言、有、今爲汝。譬如四善射夫、各執弓箭、相背攅立、欲射四方、有一捷夫、來語之、曰汝等今可一時放箭、我能遍接、倶令不墮。於意云何、此捷疾不(佛言く、有り、今汝が爲にかん。譬へば四の善射夫、各弓箭を執り、相背きて攅り立ちて、四方を射んと欲んに、一の捷夫有りて、來りて之に語げて、汝等今一時に箭を放つべし、我れ能く遍く接りて、倶に墮せざらしめんと曰はんが如し。意に於て云何、此れは捷疾なりや不や)。
比丘白佛、其疾、世尊(比丘、佛に白さく、其だ疾し、世尊)。
佛言、彼人捷疾、不及地行夜叉。地行夜叉捷疾、不及空行夜叉。空行夜叉捷疾、不及四天王天捷疾。彼天捷疾、不及日月二輪捷疾。日月二輪捷疾、不及堅行天子捷疾。此是導引日月輪車者。此等天、展轉捷疾。壽行生滅、捷疾於彼。刹那流轉、無有暫停(佛言く、彼の人の捷疾なること、地行夜叉に及ばず。地行夜叉の捷疾なること、空行夜叉に及ばず。空行夜叉の捷疾なること、四天王天の捷疾なるに及ばず。彼の天の捷疾なること、日月二輪の捷疾なるに及ばず。日月二輪の捷疾なること、堅行天子の捷疾なるに及ばず。此れは是れ日月の輪車を導引する者なり。此等の天、展轉して捷疾なり。壽行の生滅は、彼よりも捷疾なり。刹那に流轉し、暫くも停ること有ること無し)。
われらが壽行生滅、刹那流轉捷疾なること、かくのごとし。念念のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。この刹那生滅、流轉捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の壽量、たちまちに現在前するなり。三世十方の佛、ならびに七佛世尊、および西天二十八、東地六、乃至傳佛正法眼藏涅槃妙心の師、みなともに菩提心を保任せり、いまだ菩提心をおこさざるは師にあらず。

禪苑規一百二十問云、發悟菩提心否(菩提心を發悟せりや否や)。
あきらかにしるべし、佛の學道、かならず菩提心を發悟するをさきとせりといふこと。これすなはち佛の常法なり。發悟すといふは、曉了なり。これ大覺にはあらず。たとひ十地を頓證せるも、なほこれ菩薩なり。西天二十八、唐土六等、および師は、これ菩薩なり。ほとけにあらず、聲聞辟支佛等にあらず。いまのよにある參學のともがら、菩薩なり、聲聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。ただみだりに衲、衲子と自稱して、その眞實をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季道癈せること。
しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、樂にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。衆生界は有邊無邊にあらざれども、先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち菩提心なり。
一生補處菩薩、まさに閻浮提にくだらんとするとき、覩史多天の天のために、最後のをほどこすにいはく、菩提心是法明門、不斷三寶故(菩提心は是れ法明門なり、三寶を斷ぜざるが故に)。
あきらかにしりぬ、三寶の不斷は菩提心のちからなりといふことを。菩提心をおこしてのち、かたく守護し、退轉なかるべし。

佛言、云何菩薩守護一事。謂、菩提心。菩薩摩訶薩、常勤守護是菩提心、猶如世人守護一子。亦如瞎者護餘一目。如行曠野守護導者。菩薩守護菩提心、亦復如是。因護如是菩提心故、得阿耨多羅三藐三菩提。因得阿耨多羅三藐三菩提故、常樂我淨具足而有。是無上大般涅槃。是故菩薩守護一法(佛言はく、云何が菩薩一事を守護せん。謂く、菩提心なり。菩薩摩訶薩、常に勤めて是の菩提心を守護すること、猶ほ世人の一子を守護するが如し。亦た瞎者の餘の一目を護るが如し。曠野を行くに、導者を守護するが如し。菩薩の菩提心を守護することも、亦た復た是の如し。是の如くの菩提心を護るに因るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。阿耨多羅三藐三菩提を得るに因るが故に、常樂我淨具足して有り。ち是れ無上大般涅槃なり。是の故に菩薩は一法を守護すべし)。
菩提心をまぼらんこと、佛語あきらかにかくのごとし。守護して退轉なからしむるゆゑは、世間の常法にいはく、たとひ生ずれども熟せざるもの三種あり。いはく、魚子、菴羅果、發心菩薩なり。おほよそ退大のものおほきがゆゑに、われも退大とならんことを、かねてよりおそるるなり。このゆゑに菩提心を守護するなり。
菩薩の初心のとき、菩提心を退轉すること、おほくは正師にあはざるによる。正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無し、解を撥無し、三寶を撥無し、三世等の法を撥無す。いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功を失す。
あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、佛形に化し、父母師匠、乃至親族天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、佛道長遠、久受苦、もともうれふべし。しかじ、まづわれ生死を解し、のちに衆生をわたさんには。行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。まさにしるべし、かくのごとくのすなはちこれ魔なり、菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退轉せざるべし。自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔としるべし、外道としるべし、惡友としるべし。さらにしたがふことなかれ。

魔有四種。一煩惱魔、二五衆魔、三死魔、四天子魔(魔に四種有り。一には煩惱魔、二には五衆魔、三には死魔、四には天子魔)。
煩惱魔者、所謂百八煩惱等、分別八萬四千煩惱(煩惱魔とは、所謂る百八煩惱等、分別するに八萬四千のの煩惱なり)。
五衆魔者、是煩惱和合因、得是身。四大及四大造色、眼根等色、是名色衆。百八煩惱等受和合、名爲受衆。大小無量所有想、分別和合、名爲想衆。因好醜心發、能起貪欲瞋恚等心、相應不相應法、名爲行衆。六六塵和合故生六識、是六識分別和合無量無邊心、是名識衆(五衆魔とは、是れ煩惱和合の因にして、是の身を得。四大及び四大の造色、眼根等の色、是れを色衆と名づく。百八煩惱等の受和合せるを、名づけて受衆と爲す。大小無量の所有の想、分別和合せるを、名づけて想衆と爲す。好醜の心發るに因つて、能く貪欲瞋恚等の心、相應不相應の法を起すを、名づけて行衆と爲す。六六塵和合するが故に六識を生ず、是の六識分別和合すれば無量無邊の心あり、是れを識衆と名づく)。
死魔者、無常因故、破相續五衆壽命、盡離三法識熱壽故、名爲死魔(死魔とは、無常因の故に、相續せる五衆の壽命を破り、三法なる識熱壽を盡離するが故に、名づけて死魔と爲す)。
天子魔者、欲界主、深著世樂、用有所得故生邪見、憎嫉一切賢聖、涅槃道法。是名天子魔(天子魔とは、欲界の主として、深く世樂に著し、有所得を用ての故に邪見を生じ、一切賢聖、涅槃の道法を憎嫉す。是れを天子魔と名づく)。
魔是天竺語、秦言能奪命者。雖死魔實能奪命、餘者亦能作奪命因、亦奪智惠命。是故名殺者(魔は是れ天竺の語、秦には能奪命者と言ふ。死魔は實に能く命を奪ふと雖も、餘の者も亦た能く奪命の因を作し、亦た智惠の命を奪ふ。是の故に殺者と名づく)。
問曰、一五衆魔接三種魔、何以故別四(一の五衆魔に三種の魔を接す、何を以ての故に別にして四とくや)。
答曰、實是一魔、分別其義故有四(實に是れ一魔なり、其の義を分別するが故に四有り)。
上來これ龍樹師の施設なり、行者しりて勤學すべし。いたづらに魔をかうぶりて、菩提心を退轉せざれ、これ守護菩提心なり。

正法眼藏發菩提心第四

建長七年乙卯四月九日以御草案書寫之 懷弉