第七十四 王索仙陀婆

有句無句、如藤如樹。馬、透水透雲(有句も無句も、藤の如く樹の如し。驢にひ馬にふ、水を透り雲を透る)。
すでに恁麼なるゆゑに、
大般涅槃經中、世尊道、譬如大王告群臣仙陀婆來。仙陀婆者、一名四實。一者鹽、二者器、三者水、四者馬。如是四物、共同一名。有智之臣善知此名。若王洗時索仙陀婆、便奉水。若王食時索仙陀婆、便奉鹽。若王食已欲飮漿時索仙陀婆、便奉器。若王欲遊索仙陀婆、便奉馬。如是智臣、善解大王四種密語(大般涅槃經中に、世尊道はく、譬へば大王の、の群臣に仙陀婆來と告ぐるが如し。仙陀婆とは一名にして四實あり。一つには鹽、二つには器、三つには水、四つには馬なり。是の如くの四物、共同一名なり。有智の臣は善く此の名を知る。若し王、洗時に索仙陀婆せんには、便ち水を奉る。若し王、食時に索仙陀婆せんには、便ち鹽を奉る。若し王、食し已りて欲漿を飮まんとせん時索仙陀婆せんには、便ち器を奉る。若し王、遊ばんとして索仙陀婆せんには、便ち馬を奉る。是の如く智臣、善く大王の四種の密語を解するなり)。
この王索仙陀婆ならびに臣奉仙陀婆、きたれることひさし、法服とおなじくつたはれり。世尊すでにまぬかれず擧拈したまふゆゑに、兒孫しげく擧拈せり。疑著すらくは、世尊と同參しきたれるは仙陀婆を履踐とせり、世尊と不同參ならば、更買草鞋行脚、進一歩始得(更に草鞋を買ひて行脚して、一歩を進めて始得なるべし)。すでに佛屋裏の仙陀婆、ひそかに漏泄して大王家裏に仙陀婆あり。

大宋慶元府天童山宏智古佛上堂示衆云、擧、問趙州、王索仙陀婆時如何。趙州曲躬叉手(大宋慶元府天童山宏智古佛上堂の示衆に云く、擧す、趙州に問ふ、王索仙陀婆の時如何。趙州曲躬叉手す)。
雪竇拈云、索鹽奉馬(雪竇拈じて云く、鹽を索むるに馬を奉れり)。
師云、雪竇一百年前作家、趙州百二十歳古佛。趙州若是雪竇不是、雪竇若是趙州不是。且道、畢竟如何(雪竇は一百年前の作家、趙州は百二十歳の古佛なり。趙州若し是ならんには雪竇不是なり、雪竇若し是ならんには趙州不是なり。且く道ふべし、畢竟如何)。
天童不免下箇注脚。差之毫釐、失之千里。會也打草驚蛇、不會也燒錢引鬼。荒田不揀老倶胝、只今信手拈來底(天童免れず箇の注脚を下さん。之に差ふこと毫釐ならば、之を失ふこと千里。會するも草を打つて蛇を驚かす、不會なるも錢を燒きて鬼を引く。荒田揀ばず老倶胝、只今手に信せて拈じ來る底なり)。
先師古佛上堂のとき、よのつねにいはく、宏智古佛。
しかあるを、宏智古佛を古佛と相見せる、ひとり先師古佛のみなり。宏智のとき、徑山の大慧禪師宗杲といふあり、南嶽の遠孫なるべし。大宋一國の天下おもはく、大慧は宏智にひとしかるべし、あまりさへ宏智よりもその人なりとおもへり。このあやまりは、大宋國内の道俗、ともに疎學にして、道眼いまだあきらかならず、知人のあきらめなし、知己のちからなきによりてなり。
宏智のあぐるところ、眞箇の立志あり。
趙州古佛、曲躬叉手の道理を參學すべし。正當恁麼時、これ王索仙陀婆なりやいなや、臣奉仙陀婆なりやいなや。
雪竇の索鹽奉馬の宗旨を參學すべし。いはゆる索鹽奉馬、ともに王索仙陀婆なり、臣索仙陀婆なり。世尊索仙陀婆、葉破顔微笑なり。初索仙陀婆、四子、馬鹽水器を奉す。馬鹽水器のすなはち索仙陀婆なるとき、奉馬奉水する關子、學すべし。

南泉一日見隱峰來、遂指淨曰、淨境、中有水、不得動著境、與老將水來(南泉一日、隱峰の來るを見て、遂に淨を指して曰く、淨ち境なり、中に水有り、境を動著することを得ず、老が與に水を將ち來るべし)。
峰遂將水、向南泉面前瀉(峰、遂にの水を將つて、南泉の面前に向つて瀉す)。
休(泉、ち休す)。
すでにこれ南泉索水、徹底海枯。隱峰奉器、漏傾湫(南泉水を索むる、底に徹し海枯る。隱峰器を奉る、漏れて湫を傾く)。しかもかくのごとくなりといへども、境中有水、水中有境を參學すべし。動水也未、動境也未。

香嚴襲燈大師、因問、如何是王索仙陀婆(如何ならんか是れ王索仙陀婆)。
嚴云、過遮邊來(遮邊を過ぎ來れ)。
過去(、過ぎ去く)。
嚴云、鈍置殺人。
しばらくとふ、香嚴道底の過遮邊來、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや。試道看(試みに道ひ看んことをふ)。
ちなみに過遮邊去せる、香嚴の索底なりや、香嚴の奉底なりや、香嚴の本期なりや。もし本期にあらずは鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば鈍置殺人なるべからず。香嚴一期の盡力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ敗軍之將さらに武勇をかたる。おほよそ黄道黒、頂眼睛(黄とき黒と道ふ、頂と眼睛と)、おのれづから仙陀婆の索奉、審審細細なり。拈杖、擧拂子、たれかしらざらんといひぬべし。しかあれども、膠柱調絃するともがらの分上にあらず。このともがら、膠柱調絃をしらざるがゆゑに、分上にあらざるなり。

世尊一日陞座、文殊白槌云、諦觀法王法、法王法如是(世尊一日陞座したまふに、文殊白槌して云く、諦觀法王法、法王法如是)。
世尊下座。
雪竇山明覺禪師重顯云、
列聖叢中作者知(列聖叢中、作者のみ知る)、
法王法令不如欺(法王法令欺の如くならず)。
衆中若有仙陀客(衆中若し仙陀の客有らんには)、
何必文殊下一槌(何ぞ必ずしも文殊一槌を下さん)。
しかあれば、雪竇道は、一槌もし渾身無孔ならんがごとくは、下了未下、ともに落無孔ならん。もしかくのごとくならんは、一槌すなはち仙陀婆なり。すでに恁麼人ならん、これ列聖一叢仙陀客なり。このゆゑに法王法如是なり。使得十二時、これ索仙陀婆なり。被十二時使、これ索仙陀婆なり。索拳頭、奉拳頭すべし。索拂子、奉拂子すべし。
しかあれども、いま大宋國の山にある長老と稱ずるともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉苦哉、道陵夷なり。苦學おこたらざれ、佛命脈まさに嗣續すべし。たとへば、如何是佛(如何ならんか是れ佛)といふがごとき、心是佛と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。心是佛といふはたれといふぞと、審細に參究すべし。たれかしらん、仙陀婆の築著著なることを。

正法眼藏第七十四

爾時元三年十月二十二日在越州大佛寺示衆