第六十六 三昧王三昧

驀然として盡界を超越して、佛の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂を踏飜して、佛の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。佛の極之極を超越するはただこの一法なり。このゆゑに、佛これをいとなみて、さらに餘務あらず。
まさにしるべし、坐の盡界と餘の盡界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、佛の發心、修行、菩提、涅槃を辨肯するなり。正當坐時は、盡界それ豎なるか横なるかと參究すべし。正當坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡、身心裏等を落して坐すや。恁麼の千端萬端の參究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心落の結跏趺坐すべし。

先師古佛云、參禪者身心落也、祗管打坐始得。不要燒香、禮拜、念佛、修懺、看經(參禪は身心落なり、祗管に打坐して始得ならん。燒香、禮拜、念佛、修懺、看經を要せず)。
あきらかに佛の眼睛を抉出しきたり、佛の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦國に齊肩すくなし。打坐の佛法なること、佛法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を佛法と體解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや佛法を佛法と保任するあらんや。
しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心落の打坐あり、身心落の打坐とおなじからず。得恁麼ならん、佛の行解相應なり。この念想觀を保任すべし、この心意識を參究すべし。

牟尼佛告大衆言(釋牟尼佛、大衆に告げて言はく)、
若結跏趺坐(結跏趺坐するが若きは)、
身心證三昧(身心證三昧なり)。
衆恭敬(威衆恭敬す)、
如日照世界(日の世界を照すが如し)。
除睡懶覆心(睡懶覆心を除き)、
身輕不疲懈(身輕くして疲懈せず)、
覺悟亦輕便(覺悟もまた輕便なり)、
安坐如龍蟠(安坐は龍の蟠まるが如し)。
見畫跏趺坐(畫ける跏趺坐を見るに)、
魔王亦驚怖(魔王もまた驚怖す)。
何況證道人(何に況んや證道の人の)、
安坐不傾動(安坐して傾動せざるをや)。
しかあれば、跏趺坐を畫圖せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるるなり。いはんや眞箇に跏趺坐せん、その功はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、無量なり。

牟尼佛告大衆言、以是故、結跏趺坐(釋牟尼佛、大衆に告げて言はく、是を以ての故に結跏趺坐す)。
復次如來世尊、弟子、應如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂涓心、沒邪海、形不安穩。以是故、佛弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、攝之令還。欲證三昧、欲入三昧、種種馳念、種種散亂、皆悉攝之。如此修、證入三昧王三昧(復た次に如來世尊、の弟子にへたまはく、應に是の如く坐すべし。或いは外道の輩、或いは常に翹足して道を求むる、或いは常に立ちて道を求むる、或いは荷足して道を求むる、是の如き狂涓心は邪海に沒す。形安穩ならず。是を以ての故に、佛は弟子にへたまはく、結跏趺坐し、直身に坐すべしと。何を以ての故に。直身は心正し易きが故に。其の身直坐すれば、則ち心、懶ならず。端心正意にして繋念在前なり。若しは心馳散し、若しは身傾動すれば、之を攝して還らしむ。三昧を證せんと欲ひ、三昧に入らんと欲はば、種種の馳念、種種の散亂、皆悉くに之を攝すべし。此の如く修して、三昧王三昧に證入す)。

あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ證入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷屬なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直佛なり、直修證なり。直頂なり、直命脈なり。
いま人間の皮肉骨髓を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、弟子にも結跏趺坐を正傳しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七佛正傳の心印、すなはちこれなり。

牟尼佛、菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を經歴し、六十劫を經歴し、無量劫を經歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ轉妙法輪なり。これ一代の佛化なり、さらに虧缺せず。これすなはち黄卷朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成佛の正當恁麼時なり。
菩提達磨尊者、西來のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禪のあひだ、九白を經歴せり。それより頂眼睛、いまに震旦國に遍界せり。初の命脈、ただ結跏趺坐のみなり。初西來よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。師西來よりのち、これをしれり。
しかあればすなはち、一生萬生、把尾收頭、不離叢林、晝夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。

正法眼藏第六十六

爾時元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰舍示衆