第六十 三十七品菩提分法

古佛の公案あり、いはゆる三十七品菩提分法の行證なり。昇降階級の葛藤する、さらに葛藤公案なり。喚作佛なり、喚作なり。

四念住 四念處とも稱ず
一者、觀身不淨
二者、觀受是苦
三者、觀心無常
四者、觀法無我
觀身不淨といふは、いまの觀身の一袋皮は盡十方界なり。これ眞實體なるがゆゑに、活路に跳跳する觀身不淨なり。不跳ならんは觀不得ならん、若無身ならん。行取不得ならん、取不得ならん、觀取不得ならん。すでに觀得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる觀得は、毎日の行履、掃地掃牀なり。第幾月を擧して掃地し、正是第二月を擧して掃地掃牀するゆゑに、盡大地の恁麼なり。
觀身は身觀なり、身觀にて餘物觀にあらず。正當觀は卓卓來なり。身觀の現成するとき、心觀すべて摸未著なり、不現成なり。しかあるゆゑに金剛定なり、首楞嚴定なり。ともに觀身不淨なり。
おほよそ夜半見明星の道理を、觀身不淨といふなり。淨穢の比論にあらず。有身是不淨なり、現身便不淨なり。かくのごとくの參學は、魔作佛のときは魔を拈じて降魔し作佛す。佛作佛のときは佛を拈じて圖佛し作佛す。人作佛のときは、人を拈じて調人し、作佛するなり。まさに拈處に通路ある道理を參究すべし。たとへば、浣衣の法のごとし。水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる。この水を用著して浣洗し、この水を換却して浣洗すといへども、なほこれ水をもちゐる、なほこれ衣をあらふなり。一番洗、兩番洗に見淨ならざれば、休歇に滯累することなかれ。水盡更用水なり。衣淨更浣衣なり。水は類の水ともにもちゐる、洗衣によろし。水濁知有魚(水濁りて魚有ることを知る)の道理を參究するなり。衣は類の衣ともに浣洗あり。恁麼功夫して、浣衣公案現成なり。しかあれども、淨潔を見取するなり。この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水のころもに染却するを本期とせず。染汚水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり。さらに火風土水空を用著して、衣をあらひ物をあらふ法あり。地水火風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり。
いまの觀身不淨の宗旨、またかくのごとし。これによりて蓋身蓋觀蓋不淨、すなはち孃生袈裟なり。袈裟もし孃生袈裟にあらざれば、佛いまだもちゐざるなり、ひとり商那和修のみならんや。この道理よくよくこころをとめて參學究盡すべし。
觀受是苦といふは、苦これ受なり。自受にあらず他受にあらず、有受にあらず無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髓ににがきなり。有心無心等ににがきなり。これ一上の通修證なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する通なり。このゆゑに、將謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず。更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく摸索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦(作麼生ならんか是れ苦)。
觀心無常は、曹谿古佛いはく、無常者佛性也。
しかあれば、類の所解する無常、ともに佛性なり。
永嘉眞覺大師云、行無常一切空、是如來大圓覺。
いまの觀心無常、すなはち如來大圓覺なり、大圓覺如來なり。心もし不觀ならんとするにも、隨他去するがゆゑに、心もしあれば觀もあるなり。おほよそ無上菩提にいたり、無上正等覺の現成、すなはち無常なり、觀心なり。心かならずしも常にあらず、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち觀なり。
觀法無我は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子佛性無なり、狗子佛性有なり。一切衆生無佛性なり、一切佛性無衆生なり。一切佛無衆生なり、一切佛無佛なり。一切佛性無佛性なり、一切衆生無衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を觀法無我と參學するなり。しるべし、跳出渾身自葛藤なり。
牟尼佛言、一切佛菩薩、長安此法、爲聖胎也(一切佛菩薩、長に此の法に安んずる、爲聖胎なり)。
しかあれば、佛菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覺の聖胎なり、妙覺の聖胎なり。すでに一切佛菩薩とあり、妙覺にあらざらん佛も、これを聖胎とせり。等覺よりさき、妙覺よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。まことにの皮肉骨髓、ただ四念住のみなり。

四正斷 あるいは四正勤と稱ず
一者、未生惡令不生(未生の惡をば不生ならしむ)
二者、已生惡令滅(已生の惡をば滅ならしむ)
三者、未生善令生(未生の善をば生ぜしむ)
四者、已生善令長(已生の善をば長せしむ)
未生惡令不生といふは、惡の稱、かならずしもさだまれる形段なし。ただ地にしたがひ、界によりて立稱しきたれり。しかあれども、未生をして不生ならしむるを佛法と稱じ、正傳しきたれり。外道の解には、これ未萌我を根本とせりといふ。佛法にはかくのごとくなるべからず。しばらく問取すべし、惡未生のとき、いづれのところにかある。もし未來にありといはば、ながくこれ斷滅見の外道なり。もし未來きたりて現在となるといはば、佛法の談にあらず、三世混亂しぬべし。三世混亂せば法混亂すべし、法混亂せば實相混亂すべし、實相混亂せば唯佛與佛混亂すべし。かるがゆゑに、未來はのちに現在となるといはざるなり。さらに問取すべし、未生惡とは、なにを稱ずべきぞ、たれかこれを知取見取せる。もし知取見取することあらば、未生時あり、非未生時あらん。もししかあらば、未生法と稱ずべからず、已滅の法と稱じつべし。外道および小乘聲聞等に學せずして、未生惡令不生の參學すべきなり。彌天の積惡、これを未生惡と稱ず、不生惡なり。不生といふは、昨日定法、今日不定法なり。
已生惡令滅といふは、已生は盡生なり、盡生なりとは半生なり、半生なりとは此生なり。此生は被生礙なり、跳出生之頂なり。これをして滅ならしむといふは、調達生身入地獄なり、調達生身得授記なり。生身入驢胎なり、生身作佛なり。かくのごとく道理を拈來して、令滅の宗旨を參學すべきなり。滅は滅を跳出透するを滅とす。
未生善令生といふは、父母未生前面目參なり、朕兆已前明擧なり、威音王以前の會取なり。
已生善令長は、しるべし、已生善令生といはず、令長するなり。自見明星訖、更他見明星(自ら明星を見ること訖りて、更に他をして明星を見しむ)なり。眼睛作明星なり。胡亂後三十年、不曾闕鹽醋(胡亂より後三十年、曾て鹽と醋とを闕かず)なり。たとへば長するゆゑに已生するなり。このゆゑに、溪深杓柄長なり、只爲有所以來(只有るが爲に所以に來る)なり。


一者、欲
二者、心
三者、進
四者、思惟
足は、圖作佛の身心なり。圖睡快なり、因我禮なり。おほよそ欲足、さらに身心の因にあらざるなり。莫涯空の鳥飛なり、徹底水の魚行なり。
足は、牆壁瓦礫なり、山河大地なり。條條の三界なり、赤赤の椅子竹木なり。盡使得なるがゆゑに、佛心あり、凡聖心あり。草木心あり、變化心あり。盡心は心足なり。
足は、百尺竿頭驀直歩なり。いづれのところかこれ百尺竿頭。いはゆる不驀直不得なり。驀直一歩はなきにあらず、遮裏是甚麼處在、退。正當進足時、盡十方界、隨足到也、隨足至なり。
思惟足は、一切佛、業識忙忙、無本可據なり。身思惟あり、心思惟あり、識思惟あり。草鞋思惟あり、空劫已前自己思惟あり。
これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。
牟尼佛言、未運而到名如意足(未だ運らさずして到るを如意足と名づく)。
しかあればすなはち、ときこと、きりのくちのごとし。方あること、のみのはのごとし。

五根
一者、信根
二者、進根
三者、念根
四者、定根
五者、慧根
信根は、しるべし、自己にあらず、他己にあらず。自己の強爲にあらず、自己の結構にあらず、他の牽挽にあらず、自立の規矩にあらざるゆゑに、東西密相附なり。渾身似信を信と稱ずるなり。かならず佛果位と隨他去し隨自去す。佛果位にあらざれば信現成にあらず。このゆゑにいはく、佛法大海信爲能入(佛法の大海は信を能入と爲す)なり。おほよそ信現成のところは、佛現成のところなり。
進根は、省來祗管打坐なり。休也休不得なり、休得更休得なり。大驅驅生なり、不驅驅者なり。大驅不驅、一月二月なり。
牟尼佛言、我常勤進、是故我已得成阿耨多羅三藐三菩提(我れ常に勤め進せり、是の故に我れ已に阿耨多羅三藐三菩提を成ることを得たり)。
いはゆる常勤は、盡過現當來、頭正尾正なり。我常勤進を我已得成菩提とせり。我已得成阿耨菩提のゆゑに、我常勤進なり。しかあらずは、いかでか常勤ならん。しかあらずは、いかでか我已得ならん。論師經師、この宗旨を見聞すべからず、いはんや參學せるあらんや。
念根は、枯木の赤肉團なり。赤肉團を枯木といふ。枯木は念根なり。摸索當の自己、これ念なり。有身のときの念あり、無心のときも念あり。有心の念あり、無身の念あり。盡大地人の念根、これを念根とせり。盡十方佛の命根、これは念根なり。一念に多人あり、一人に多念あり。しかあれども、有念人あり、無念人あり。人にかならずしも念あるにあらず、念かならずしも人にかかれるにあらず。しかありといへども、この念根、よく持して究盡の功あり。
定根は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり。このゆゑに不昧因果なり、不落因果なり。ここをもて、入驢胎、入馬胎なり。いしの玉をつつめるがごとし、全石全玉なりといふべからず。地の山をいただけるがごとし。盡地盡山といふべからず。しかあれども、頂より跳出し跳入す。
慧根は、三世佛不知有なり、狸奴白却知有なり。爲甚如此(なにとしてかかくの如くなる)といふべからず、いはれざるなり。鼻孔有消息なり、拳頭有指尖なり。驢は驢を保任す、井は井に相見す。おほよそ根嗣根なり。

五力
一者、信力
二者、進力
三者、念力
四者、定力
五者、慧力
信力は、被自瞞無廻避處(自に瞞ぜられて廻避の處無し)なり、被他喚必廻頭(他に喚ばれては必ず廻頭す)なり。從生至老、只是這箇なり。七顛也放行なり、八倒也拈來なり。このゆゑに信如水珠(信は水珠の如し)なり。傳法傳衣を信とす、傳佛傳なり。
進力は、取行不得底なり、行取不得底なり。しかあればすなはち、得一寸、不如得一寸なり。行得一句、不如行得一句なり。力裏得力、これ進力なり。
念力は、人鼻孔太殺人なり。このゆゑに、鼻孔人なり。抛玉引玉なり、抛なり。さらに、未抛也三十棒なり。天下人用著未なり。
定力は、或者如子得其母(或いは子の其の母を得るが如し)なり、或者如母得其子なり、或者如子得其子なり、或者如母得其母なり。しかあれども、以頭換面にあらず、以金買金にあらず。唱而彌高なるのみなり。
慧力は、年代深遠なり。如船遇度(船の度に遇ふが如し)なり。かるがゆゑに、ふるくはいはく、如度得船(度に船を得たるが如し)。いふこころは、度必是船(度は必ず是れ船)なり。度の度を礙せざるを船といふ。春氷自消氷(春の氷自ら氷を消す)なり。

七等覺支
一者、擇法覺支
二者、進覺支
三者、喜覺支
四者、除覺支
五者、覺支
六者、定覺支
七者、念覺支
擇法覺支は、毫釐有差、天地懸隔なり。このゆゑに、至道不難易、唯要自揀擇(至道難易にあらず、唯自ら揀擇せんことを要す)のみなり。
進覺支は、不曾奪行市なり。自買自賣、ともに定價あり、知貴あり。屈己推人(己を屈して人を推す)に相似なりといへども通身撲不碎なり。一轉語を自賣することいまだやまざるに、一轉心を自買する商客に相逢す。驢事未了、馬事到來なり。
喜覺支は、老婆心切血滴滴なり。大悲千手眼、遮莫太多端。臘雪梅花先漏泄、來春消息大家寒(大悲千手眼、遮莫太だ多端なり。臘雪の梅花先づ漏泄す、來春の消息大家寒し)なり。しかもかくのごとくなりといへども、活、笑呵呵なり。
除覺支は、もしみづからがなかにありてはみづからと群せず、他のなかにありては他と群せず。我得不得なり。灼然道著、異類中行なり。
覺支は、設使將來、他亦不受(設使將來すとも他もまた受けじ)なり。唐人赤脚學唐歩、南海波斯求象牙(唐人赤脚にして唐歩を學し、南海の波斯象牙を求む)なり。
定覺支は、機先保護機先眼(機先に保護す機先の眼)なり。自家鼻孔自家穿(自家の鼻孔自家穿ぐ)なり。自家把索自家牽(自家の索を把りて自家牽く)なり。しかもかくのごとくなりといへども、さらに牧得一頭水牛なり。
念覺支は、露柱歩空行(露柱、空を歩みて行く)なり。このゆゑに、口似椎、眼如眉(口は椎に似たり、眼は眉の如し)なりといふとも、なほこれ栴檀林裏栴檀、獅子窟中獅子吼(栴檀林裏に栴檀し、獅子窟中に獅子吼す)なり。

八正道支 また八聖道とも稱ず
一者、正見道支
二者、正思惟道支
三者、正語道支
四者、正業道支
五者、正命道支
六者、正進道支
七者、正念道支
八者、正定道支
正見道支は、眼睛裏藏身なり。しかあれども、身先須具身先眼(身先には須らく身先眼を具すべし)なり。向前の堂堂成見なりといへども、公案見成なり、親曾見なり。おほよそ眼裏藏身せざれば、佛にあらざるなり。
正思惟道支は、作是思惟時、十方佛皆現なり。しかあれば、十方佛、佛現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事已、趣波羅奈(是の事を思惟し已りて、ち波羅奈に趣く)なり、思惟の處在は波羅奈なり。
古佛いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。
これ正思量、正思惟なり。破蒲團、これ正思惟なり。
正語道支は、唖子自己不唖子なり。人中の唖子は未道得なり。唖子界の人は唖子にあらず。不慕聖なり、不重己靈なり。口是掛壁の參究なり。一切口掛一切壁なり。
正業道支は、出家修道なり、入山取證なり。

牟尼佛言、三十七品是業。
業は大乘にあらず、小乘にあらず。は佛、菩薩、聲聞等あり。いまだ出家せざるものの、佛法の正業を嗣續せることあらず、佛法の大道を正傳せることあらず。在家わづかに近事男女の學道といへども、達道の先蹤なし。達道のとき、かならず出家するなり。出家に不堪ならんともがら、いかでか佛位を嗣續せん。
しかあるに、二三百年來のあひだ、大宋國に禪宗と稱ずるともがら、おほくいはく、在家の學道と出家の學道と、これ一等なりといふ。これただ在家人の屎尿を飮食とせんがために狗子となれる類族なり。あるいは國王大臣にむかひていはく、萬機の心はすなはち佛心なり、さらに別心あらずといふ。王臣いまだ正正法をわきまへず、大して師號等をたまふ。かくのごとくの道あるは調達なり。唾をくらはんがために、かくのごとくの小兒の狂語あり。啼哭といふべし。七佛の眷屬にあらず、魔儻畜生なり。いまだ身心學道をしらず、參學せず、身心出家をしらず。王臣の法政にくらく、佛の大道をゆめにもみざるによりてかくのごとし。
維摩居士の佛出世時にあふし、道未盡の法おほし。學未到すくなからず。蘊居士が席に參歴せし、藥山の堂奥をゆるされず、江西におよばず。ただわづかに參學の名をぬすめりといへども、參學の實あらざるなり。自餘の李附馬、楊文公等、おのおの參とおもふといへども、乳餠いまだ喫せず、いはんや畫餠を喫せんや。いはんや喫佛せんや、未有鉢盂なり。あはれむべし、一生の皮袋いたづらなることを。
普勸すらくは盡十方の天衆生、人衆生、龍衆生、衆生、はるかに如來の法を慕古して、いそぎて出家修道し、佛位位を嗣續すべし。禪師等が未達の道をきくことなかれ。身をしらず、心をしらざるがゆゑに、しかのごとくいふなり。あるいは又すべて衆生をあはれむこころなく、佛法をまぼるおもひなく、ただひとすぢに在家の人の屎糞をくらはんとして惡狗となれる人面狗、人皮狗、かくのごとくいふなり。同坐すべからず、同語すべからず、同依止すべからず。かれらはすでに生身墮畜生なり。出家人もし屎糞ゆたかならば、出家人すぐれたりといはまし。出家人の屎糞、この畜生におよばざるゆゑにかくのごとく道取するなり。在家心と出家心と一等なりといふこと、證據といひ、道理といひ、五千餘軸の文にみえず、二千餘年のあとなし。五十代四十餘世の佛、いまだその道取なし。たとひ破戒無戒の比丘となりて、無法無慧なりといふとも、在家の有智持戒にはすぐるべきなり。業これ智なり、悟なり、道なり、法なるがゆゑに。在家たとひ隨分の善根功あれども、身心の善根功おろそかなり。一代の化儀、すべて在家得道せるものなし。これ在家いまだ學佛道の道場ならざるゆゑなり。遮障おほきゆゑなり。萬機心と師心と一等なりと道取するともがらの身心をさぐるに、いまだ佛法の身心にあらず、佛の皮肉骨髓つたはれざらん。あはれむべし、佛正法にあひながら畜生となれることを。
かくのごとくなるによりて、曹谿古佛たちまちに辭親尋師す、これ正業なり。金剛經をききて發心せざりしときは樵夫として家にあり、金剛經をききて佛法の力あるときは重擔を放下して出家す。しるべし、身心もし佛法あるときは、在家にとどまることあたはずといふことを。みなかくのごとし。出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪條なり、調達よりも猛惡なりといふべし。六群比丘、六群尼、十八群比丘等よりもおもしとしりて、共語すべからず。一生の壽命いくばくならず、かくのごとくの魔子畜生等と共語すべき光陰なし。いはんやこの人身心は、先世に佛法を見聞せし種子よりうけたり。公界の調度なるがごとし。魔族となすべきにあらず、魔族とともならしむべきにあらず。佛の深恩をわすれず、法乳のを保護して、惡狗の叫吠をきくことなかれ。惡狗と同坐同食することなかれ。

嵩山高古佛、はるかに西天の佛國をはなれて、邊邦の丹に西來するとき、佛の正法まのあたりつたはれしなり。これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず。師西來已前は、東地の衆生人天、いまだかつて正法を見聞せず。しかあればしるべし、正法正傳、ただこれ出家の功なり。
大師釋尊、かたじけなく父王のくらゐをすてて嗣續せざることは、王位の貴ならざるにあらず、佛位の最貴なるを嗣續せんがためなり。佛位はこれ出家位なり、三界の天衆生、人衆生、ともに頂戴恭敬するくらゐなり。梵王、釋王の同坐するところにあらず。いはんや下界の人王、龍王の同坐するくらゐならんや。無上正等覺位なり。くらゐよく法度生し、放光現瑞す。この出家位の業、これ正業なり、佛七佛の懷業なり。唯佛與佛にあらざれば究盡せざるところなり。いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬禮し、身命を抛して供養すべし。

牟尼佛言、出家受戒、是佛種子也、已得度人(出家受戒すれば、是れ佛種子なり。已に得度せる人なり)。
しかあればすなはちしるべし、得度といふは出家なり。未出家は沈淪にあり、かなしむべし。おほよそ一代の佛のなかに、出家の功を讃歎せること、稱計すべからず。釋尊誠し、佛證明す。出家人の破戒不修なるは得道す、在家人の得道いまだあらず。帝者の尼を禮拜するとき、尼答拜せず。天の出家人を拜するに、比丘比丘尼またく答拜せず。これ出家の功すぐれたるゆゑなり。もし出家の比丘比丘尼に拜せられば、天の宮殿、光明、果報等、たちまちに破壞墜墮すべきがゆゑにかくのごとし。
おほよそ佛法東漸よりこのかた、出家人の得道は稻竹葦のごとし。在家ながら得道せるもの、一人もいまだあらず。すでに佛法その眼耳におよぶときは、いそぎて出家をいとなむ。はかりしりぬ、在家は佛法の在處にあらず。しかあるに、萬機の身心すなはち佛の身心なりといふやからは、いまだかつて佛法を見聞せざるなり。黒闇獄の罪人なり。おのれが言語なほ見聞せざる愚人なり、國賊なり。萬機の心をもて佛の心に同ずるを詮とするは、佛法のすぐれたるによりて、しかいふを帝者よろこぶ。しるべし、佛法すぐれたりといふこと。萬機の心は假令おのづから佛の心に同ずとも、佛の身心おのづから萬機の身心とならんとき、萬機の身心なるべからず。萬機心と佛心と一等なりといふ禪師等、すべて心法のゆきがた、樣子をしらざるなり。いはんや佛心をゆめにもみることあらんや。
おほよそ梵王、釋王、人王、龍王、鬼王等、おのおの三界の果報に著することなかれ。はやく出家受戒して、の道を修すべし。曠大劫の佛因ならん。みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩よりもすぐれたる維摩比丘をみん。今日はわづかに空生、舍利子、文殊、彌勒等をみる、いまだ半維摩をみず。いはんや三四五の維摩をみんや。もし三四五維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみず、しらず、保任せざるなり。一維摩いまだ保任せざれば維摩佛をみず、維摩佛みざれば維摩文殊、維摩彌勒、維摩善現、維摩舍利子等、いまだあらざるなり。いはんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未來等あらんや。維摩いまだこれらの光明功みえざることは、不出家のゆゑなり。維摩もし出家せば、これらの功あるべきなり。當時唐朝、宋朝の禪師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を擧して作得是とおもひ、道得是といふ。これらのともがら、あはれむべし、言をしらず、佛法にくらし。
あるいは又あまりさへは、維摩と釋尊と、その道ひとしとおもひいへるおほし。これらまたいまだ佛法をしらず、道をしらず、維摩をもしらず、はからざるなり。かれらいはく、維摩默然無言して菩薩にしめす、これ如來の無言爲人にひとしといふ。これおほきに佛法をしらず、學道の力量なしといふべし。如來の有言、すでに自餘とことなり、無言もまた類とひとしかるべからず。しかあれば、如來の一默と維摩一默と、相似の比論にすらおよぶべからず。言はことなりとも默然はひとしかるべしと憶想せるともがらの力量をさぐるには、佛邊人とするにもおよばざるなり。かなしむべし、かれらいまだ聲色の見聞なし、いはんや跳聲色の光明あらんや。いはんや默の默を學すべしとだにもしらず、ありとだにもきかず。おほよそ類と類と、その動靜なほことなり。いかでか釋尊と類とおなじといひ、おなじからずと比論せん。これ佛の堂奥に參學せざるともがら、かくのごとくいふなり。
あるいは邪人おほくおもはく、言動容はこれ假法なり、寂默凝然はこれ眞實なり。かくのごとくいふ、また佛法にあらず。梵天自在天等の經を傳聞せるともがらの所許なり。佛法いかでか動靜にかかはらん。佛道に動靜ありや、動靜なしや、動靜を接すや、動靜に接せらるやと、審細に參學すべし。而今の晩學、たゆむことなかれ。
現在大宋國をみるに、佛の大道を參學せるともがら、斷絶せるがごとし。兩三箇あるにあらず。維摩は是にして一默あり、いまは一默せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに佛法の活路なし。あるいは又、維摩の一默はすなはち世尊の一默なりとおもふともがらのみあり、さらに分別の光明あらざるなり。かくのごとくおもひいふともがら、すべていまだかつて佛法見聞の參學なしといふべし。大宋國人にあればとて、佛法なるらんとおもふことなかれ。その道理、あきらめやすかるべし。
いはゆる正業は業なり。論師經師のしるところにあらず。業といふは、雲堂裏の功夫なり、佛殿裏の禮拜なり、後架裏の洗面なり。乃至合掌問訊、燒香燒湯する、これ正業なり。以頭換尾するのみにあらず、以頭換頭なり、以心換心なり、以佛換佛なり、以道換道なり。これすなはち正業道支なり。あやまりて佛法の商量すれば、眉鬚墮落し、面目破顔するなり。

正命道支とは、早朝粥、午時なり。在叢林弄魂なり。曲木座上直指なり。老趙州の不滿二十衆、これ正命の現成なり。藥山の不滿十衆、これ正命の命脈なり。汾陽の七八衆、これ正命のかかれるところなり。もろもろの邪命をはなれたるがゆゑに。
牟尼佛言、聲聞人、未得正命。
しかあればすなはち、聲聞の行證、いまだ正命にあらざるなり。しかあるを、近日庸流いはく、聲聞、菩薩を分別すべからず、その威儀戒律ともにもちゐるべしといひて、小乘聲聞の法をもて、大乘菩薩法の威儀進止を判ず。
牟尼佛言、聲聞持戒、菩薩破戒。
しかあれば、聲聞の持戒とおもへる、もし菩薩戒に比望するがごときは、聲聞戒みな破戒なり。自餘の定慧もまたかくのごとし。たとひ不殺生等の相、おのづから聲聞と菩薩にあひにたりとも、かならず別なるべきなり。天地懸隔の論におよぶべからざるなり。いはんや佛佛正傳の宗旨と聲聞と、ひとしからんや。正命のみにあらず、淨命あり。しかあればすなはち、佛に參學するのみ正命なるべし。論師等の見解、もちゐるべからず。未得正命なるがゆゑに、本分命にあらず。
進道支とは、抉出通身の行李なり、抉出通身打人面なり。倒騎佛殿打一匝、兩匝三四五匝なるがゆゑに、九九算來八十二なり。重報君(重ねて君に報ず)の千萬條なり。換頭也十字縱横なり、換面也縱横十字なり。入室來、上堂來なり。望州亭相見了なり、烏石嶺相見了なり。堂前相見了なり、佛殿裡相見了なり。兩鏡相對して三枚影あるをいふ。
正念道支は、被自瞞の八九成なり。念よりさらに發智すると學するは父逃逝なり。念中發智と學するは、纏縛之甚(纏縛の甚しき)なり。無念はこれ正念といふは外道なり。また地水火風の靈を念とすべからず、心意識の顛倒を念と稱ぜず。まさに汝得吾皮肉骨髓、すなはち正念道支なり。
正定道支とは、落佛なり、落正定なり。他是能擧(他是れ能く擧す)なり、剖來頂作鼻孔(頂を剖き來つて鼻孔と作す)なり。正法眼藏裏、拈優曇花なり。優曇花裏、有百千枚葉破顔微笑(百千枚の葉有りて破顔微笑す)なり。活計ひさしくもちゐきたりて木杓破なり。このゆゑに、落草六年、花開一夜なり。劫火洞燃、大千倶壞、隨他去なり。

この三十七品菩提分法、すなはち佛の眼睛鼻孔、皮肉骨髓、手足面目なり。佛一枚、これを三十七品菩提分法と參學しきたれり。しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。坐斷すべし、落すべし。

正法眼藏三十七品菩提分法第六十

爾時元二年甲辰二月二十四日在越宇吉峰舍示衆