第五十六 見佛

牟尼佛、告大衆言、若見相非相、見如來。
いまの見相と見非相と、透せる體達なり。ゆゑに見如來なり。この見佛眼すでに參開なる現成を見佛とす。見佛眼の活路、これ參佛眼なり。自佛を他方にみ、佛外に自佛をみるとき、條條の蔓枝なりといへども、見佛を參學せると、見佛を辨肯すると、見佛を落すると、見佛を得活すると、見佛を使得すると、日面佛見なり、月面佛見なり。恁麼の見佛、ともに無盡面、無盡身、無盡心、無盡手眼の見佛なり。而今脚尖に行履する發心發足よりこのかた、辨道功夫、および證契究徹、みな見佛裏に走入する活眼睛なり、活骨髓なり。しかあれば、自盡界他盡方、遮箇頭那箇頭、おなじく見佛功夫なり。
如來道の若見相非相を拈來するに、參學眼なきともがらおもはくは、相を相にあらずとみる、すなはち見如來といふ。そのおもむきは、相は相にはあらず、如來なりとみるといふとおもふ。まことに小量の一邊は、しかのごとくも參學すべしといへども、佛意の道成はしかにはあらざるなり。しるべし、相を見取し、非相を見取する、見如來なり、如來あり、非如來あり。

涼院大法眼禪師云、若見相非相、不見如來。
いまこの大法眼道は、見佛道なり。これに法眼道あり、見佛道ありて、通語するに、競頭來なり、共出手なり。法眼道は耳處に聞著すべし、見佛道は眼處聞聲すべし。
しかあるを、この宗旨を參學する從來のおもはくは、相は如來相なり、一相の如來相にあらざる、まじはれることなし。この相を、かりにも非相とすべからず。もしこれを非相とするは父逃逝なり。この相すなはち如來相なるがゆゑに、相は相なるべしと道取するなりといひきたれり。まことにこれ大乘の極談なり、方の所證なり。しかのごとく決定一定して、信受參受すべし。さらに隨風東西の輕毛なることなかれ。相は如來相なり、非相にあらずと參究見佛し、決定證信して受持すべし。諷誦通利すべし。かくのごとくして、自己の耳目に見聞ひまなからしむべし。自己の身心骨髓に落ならしむべし。自己の山河盡界に透ならしむべし。これ參學佛行李なり。自己の云爲にあれば、自己の眼睛を發明せしむべからずとおもふことなかれ。自己の一轉語に轉ぜられて、自己の一轉佛を見落するなり。これ佛の家常なり。
このゆゑに、參取する隻條道あり。いはゆる相すでに非相にあらず、非相すなはち相なり。非相これ相なるがゆゑに、非相まことに非相なり。喚作非相の相ならびに喚作相の相、ともに如來相なりと參學すべし。參學の屋裏に兩部の典籍あり。いはゆる參見典と參不見典となり。これ活眼睛の所參學なり。もしいまだこれらの典籍を著眼看の參徹せざれば參徹眼にあらず、參徹眼にあらざれば見佛にあらず。見佛に相處見、非相處見あり。吾不會佛法なり。不見佛に相處不見、非相處不見あり。會佛法人得なり。法眼道の八九成、それかくのごとし。
しかありといへども、この一大事因、さらにいふべし、若見相實相、見如來。
かくのごとくの道取、みなこれ釋牟尼佛之所加被力なり。異面目の皮肉骨髓にあらず。

爾時釋牟尼佛、在靈鷲山。因藥王菩薩告大衆言、若親近法師、得菩薩道。隨順是師學、得見恆沙佛(爾の時に釋牟尼佛、靈鷲山に在しき。因みに藥王菩薩大衆に告げて言く、若し法師に親近せば、ち菩薩道を得ん。是の師に隨順して學せば、恆沙の佛を得見す)。
いはゆる親近法師といふは、二の八載事師のごとし。しかうしてのち、全臂得髓なり。南嶽の十五年の辨道のごとし。師の髓をうるを親近といふ。菩薩道といふは、吾亦如是、汝亦如是なり。如許多の蔓枝行李を得するなり。得は、古來より現ぜるを引得するにあらず、未生を發得するにあらず、現在の漫漫を策把するにあらず、親近得を落するを得といふ。このゆゑに一切の得は得なり。
隨順是師學は、猶是侍者(猶是れ侍者のごとし)の古蹤なり、參究すべし。この正當恁麼行李時、すなはち得見の承當あり。そのところ、見恆沙佛なり。恆沙佛は、頭頭活なり。あながちに見恆沙佛をわしりへつらふことなかれ。まづすべからく隨師學をはげむべし。隨師學得佛見なり。

牟尼佛、告一切證菩提衆言、深入禪定、見十方佛。
盡界は深なり、十方佛土なるがゆゑに。これ廣にあらず、大にあらず、小にあらず、窄にあらず。擧すれば隨他擧す、これを全收と道す。これ七尺にあらず、八尺にあらず、一丈にあらず。全收無外にして入之一字なり。この深入は禪定なり、深入禪定は見十方佛なり。深入裏許無人接渠にして得在なるがゆゑに、見十方佛なり。設使將來、他亦不受のゆゑに、佛十方在なり。深入は長長出不得なり、見十方佛は只見臥如來なり。禪定は入來出頭不得なり。眞龍をあやしみ恐怖せずは、見佛の而今、さらに疑著を抛すべからず。見佛より見佛するゆゑに、禪定より禪定に深入す。この禪定見佛深入等の道理、さきより閑工夫漢ありて造作しおきて、いまの漢に傳授するにあらず。而今の新條にあらざれども、恁麼の道必然なり。一切の傳道受業かくのごとし。修因得果かくのごとし。

牟尼佛、告普賢菩薩言、若有受持、讀誦正憶念修書寫、是法華經者、當知是人、則見釋牟尼佛、如從佛口、聞此經典(釋牟尼佛、普賢菩薩に告げて言はく、若し是の法華經を受持し讀誦し正憶念し、修し書寫せん者有らん、當に知るべし、是の人、則ち釋牟尼佛を見たてまつり、佛の口より此の經典を聞くが如し)。
おほよそ一切佛は、見釋牟尼佛、成釋牟尼佛するを成道作佛といふなり。かくのごとくの佛儀、もとよりこの七種の行處の條條よりうるなり。七種行人は、當知是人なり、如是當人なり。これすなはち見釋牟尼佛處なるがゆゑに、したしくこれ如來佛口、聞此經典なり。釋牟尼佛は、見釋牟尼佛よりこのかた釋牟尼佛なり。これによりて舌相あまねく三千を覆す、いづれの山海か佛經にあらざらん。このゆゑに書寫の當人、ひとり見釋牟尼佛なり。佛口はよのつねに萬古に開す、いづれの時節か經典にあらざらん。このゆゑに、受持の行者のみ見釋牟尼佛なり。乃至眼耳鼻等の功もまたかくのごとくなるべきなり。および前後左右、取造次、かくのごとくなり。いまの此經典にむまれあふ、見釋牟尼佛をよろこばざらんや、生値釋牟尼佛なり。身心をはげまして受持讀誦、正憶念、修書寫是法花經者則見釋牟尼佛なるべし、如從佛口、聞此經典、たれかこれをきほひきかざらん。いそがず、つとめざるは、貧窮無慧の衆生なり、修するは當知是人、則見釋牟尼佛なり。

牟尼佛、告大衆言、若善男子善女人、聞我壽命長遠、深心信解、則爲見佛、常在耆闍崛山、共大菩薩、聲聞衆、圍遶法。又見此裟婆世界、其地瑠璃、坦然平正(釋牟尼佛、大衆に告げて言く、若し善男子善女人、我が壽命の長遠なりとくを聞きて、深心に信解せば、則ちため佛、常に耆闍崛山に在して、共に大菩薩、聲聞衆に、圍遶せられて法したまふを見る。又此の裟婆世界は、其の地瑠璃にして、坦然平正なりと見る)。
この深心といふは裟婆世界なり。信解といふは無廻避處なり。誠諦の佛語、たれか信解せざらん。この經典にあひたてまつれるは、信解すべき機なり。深心信解是法華、深心解壽命長遠のために、願生此裟婆國土しきたれり。如來の力、慈悲力、壽命長遠力、よく心を拈じて信解せしめ、身を拈じて信解せしめ、盡界を拈じて信解せしめ、佛を拈じて信解せしめ、法を拈じて信解せしめ、實相を拈じて信解せしめ、皮肉骨髓を拈じて信解せしめ、生死去來を拈じて信解せしむるなり。これらの信解、これ見佛なり。
しかあればしりぬ、心頭眼ありて見佛す、信解眼をえて見佛す。ただ見佛のみにあらず、常在耆闍崛山をみるといふは、耆闍崛山の常在は、如來壽命と一齊なるべし。しかあれば、見佛常在耆闍崛山は、前頭來も如來および耆闍崛山ともに常在なり、後頭來も如來および耆闍崛山ともに常在なり。菩薩聲聞もおなじく常在なるべし、法もまた常在なるべし。裟婆世界、其地瑠璃、坦然平正をみる、裟婆世界をみること動著すべからず、高處高平、低處低平なり。この地はこれ瑠璃地なり、これを坦然平正なるとみる目をいやしくすることなかれ。瑠璃爲地の地はかくのごとし。この地を瑠璃にあらずとせば、耆闍崛山は耆闍崛山にあらず、釋牟尼佛は釋牟尼佛にあらざらん。其地瑠璃を信解する、すなはち深信解相なり、これ見佛なり。

牟尼佛、告大衆言、一心欲見佛、不自惜身命。時我及衆、倶出靈鷲山。
いふところの一心は、凡夫二乘等のいふ一心にあらず。見佛の一心なり。見佛の一心といふは、靈鷲山なり、及衆なり。而今の箇箇、ひそかに欲見佛をもよほすは、靈鷲山心をこらして欲見佛するなり。しかあれば、一心すでに靈鷲山なり、一身それ心に倶出せざらんや。倶一身心ならざらんや。身心すでにかくのごとし、壽者命者またかくのごとし。かるがゆゑに、自惜を靈鷲山の但惜無上道に一任す。このゆゑに我及衆、靈鷲山倶出なるを、見佛の一心と道取す。

牟尼佛、告大衆言、若此經、則爲見我、多寶如來、及化佛(若し此の經をけば、則ち我と多寶如來及びの化佛を見ると爲す)。
此經は、我常住於此、以通力、令顛倒衆生、雖近而不見(我れ常に此に住するも、通力を以て、顛倒の衆生をして、近しと雖も見ざらしむ)なり。この表裏の力如來に、則爲見我等の功そなはる。

牟尼佛、告大衆言、能持是經者、則爲已見我。亦見多寶佛、及分身者(能く是の經を持すれば、則ち已に我を見ると爲す。亦た多寶佛及びの分身者を見る者なり)。
この經を持することかたきゆゑに、如來よのつねにこれをすすむ。もしおのづから持是經者あるは、すなはち見佛なり。はかりしりぬ、見佛すれば持經す。持經のもの、見佛のものなり。しかあればすなはち、乃至聞一偈一句受持するは、得見釋牟尼佛なり。亦見多寶佛なり、見分身佛なり、傳佛法藏なり、得佛正眼なり、得見佛命なり、得佛向上眼なり、得佛頂眼なり、得佛鼻孔なり。

雲雷音宿王華智佛、告妙莊嚴王言、大王當知、善知識者、是大因。所謂化導、令得見佛、發阿耨多羅三藐三菩提心(大王當に知るべし、善知識は、是れ大因なり。所謂化導は、佛を見て、阿耨多羅三藐三菩提心を發すことを得しむ)。
いまこの大會は、いまだむしろをまかず。過去現在未來の佛と稱ずといへども、凡夫の三世に準的すべからず。いはゆる過去は心頭なり、現在は拳頭なり、未來は腦後なり。しかあれば、雲雷音宿王華智佛は、心頭現成の見佛なり。見佛の通語いまのごとし。化導は見佛なり、見佛は發阿耨多羅三藐三菩提心なり。發菩提心は見佛の頭正尾正なり。

牟尼佛言、有修功、柔和質直者、則皆見我身、在此而法(の功を修すること有りて、柔和質直なる者は、則ち皆我が身此に在りて而も法をくと見る)。
あらゆる功と稱ずるは泥帶水なり、隨波逐浪なり。これを修するを吾亦如是、汝亦如是の柔和質直者といふ。これを泥裏に見佛しきたり、波心に見佛しきたる、在此而法にあづかる。

しかあるに、近來大宋國に禪師と稱ずるともがらおほし。佛法の縱横をしらず、見聞いとすくなし。わづかに臨濟雲門の兩三語を諳誦して、佛法の全道とおもへり。佛法もし臨濟雲門の兩三語に道盡せられば、佛法今日にいたるべからず。臨濟雲門を佛法の爲尊と稱じがたし。いかにいはんやいまのともがら、臨濟雲門におよばず、不足言のやからなり。かれら、おのれが愚鈍にして佛經のこころあきらめがたきをもて、みだりに佛經を謗す。さしおきて修せず。外道の流類といひぬべし。佛の兒孫にあらず、いはんや見佛の境界におよばんや。孔子老子の宗旨になほいたらざるともがらなり。佛の屋裡兒、かの禪師と稱ずるやからにあひあふことなかれ。ただ見佛眼の眼睛を參究體達すべし。

先師天童古佛擧(先師天童古佛擧す)、
波斯匿王問賓頭盧尊者、承聞尊者、親見佛來、是否(波斯匿王、賓頭盧尊者に問ふ、承聞すらくは尊者、親り佛を見來ると、是なりや否や)。
尊者以手策起眉毛示之(尊者、手を以て眉毛を策起して之を示す)。
先師頌云、
策起眉毛答問端、
親曾見佛不相瞞。
至今應供四天下、
春在梅梢帶雪寒。
(眉毛を策起して問端に答ふ、親曾の見佛相瞞ぜず。今に至るまで四天下に應供す、春は梅梢に在り雪を帶して寒し。)
いはゆる見佛は、見自佛にあらず、見他佛にあらず、見佛なり。一枝梅は見一枝梅のゆゑに、開花明明なり。
いま波斯匿王の問取する宗旨は、尊者すでに見佛なりや、作佛なりやと問取するなり。尊者あきらかに眉毛を策起せり、見佛の證驗なり、相瞞すべからず。至今していまだ休罷せず。應供あらはれてかくるることなし。親曾の見佛たどるべからず。かの三億家の見佛といふは、この見佛なり。見三十二相にはあらず。見三十二相は、たれか境界をへだてん。この見佛の道理をしらざる人天聲聞覺の類おほかるべし。たとへば、拂子を豎起するおほしといへども、拂子を豎起するはおほきにあらずといふがごとし。見佛は被佛見成なり。たとひ自己は覆藏せんことをおもふとも、見佛さきだちて漏泄せしむるなり。これ見佛の道理なり。如恆河沙數量の身心を功夫して、審細にこの策起眉毛の面目を參究すべし。たとひ百千萬劫の晝夜、つねに釋牟尼佛に共住せりとも、いまだ策起眉毛の力量なくは、見佛にあらず。たとひ二千餘載よりこのかた、十萬餘里の遠方にありとも、策起眉毛の力量したしく見成せば、空王以前より見釋牟尼佛なり。見一枝梅なり、見梅梢春なり。しかあれば、親曾見佛は禮三拜なり、合掌問訊なり。破顔微笑なり、拳頭飛霹靂なり、跏趺坐蒲團なり。

賓頭盧尊者、赴阿育王宮大會齋。王行香次、作禮問尊者曰、承聞尊者、親見佛來、是否(賓頭盧尊者、阿育王宮の大會に赴いて齋す。王、行香の次でに、作禮して尊者に問うて曰く、承聞すらくは尊者、親り佛を見來ると、是なりや否や)。
尊者以手撥開眉毛曰、會麼(尊者、手を以て眉毛を撥開して曰く、會すや)。
王曰、不會。
尊者曰、阿那婆達多龍王、佛齋時、貧道亦預其數(尊者曰く、阿那婆達多龍王、佛をじて齋せし時、貧道も亦其の數に預かりき)。
いはゆる阿育王問の宗旨は、尊者親見佛來是否の言、これ尊者すでに尊者なりやと問著するなり。ときに尊者すみやかに眉毛を撥開す。これ見佛を出現於世せしむるなり、作佛を親見せしむるなり。
阿那婆達多龍王佛齋時、貧道亦預其數といふ、しるべし、佛の會には、唯佛與佛、稻竹葦すべし。四果支佛のあづかるべきにあらず。たとひ四果支佛きたれりとも、かれを擧して佛のかずにあづかるべからず。
尊者すでに自稱す、佛齋時、貧道またそのかずなりきと。無端にきたれる自道取なり。見佛なる道理あきらかなり。
佛といふは、牟尼佛のみにあらず、無量無盡三世十方一切佛なり。佛の數にあづかる無諱不諱の親曾見佛なり。見佛見師、見自見汝の指示、それかくのごとくなるべし。
阿那婆達多龍王といふは、阿耨達池龍王なり。阿耨達池、ここには無熱惱池といふ。
保寧仁勇禪師頌曰、
我佛親見賓頭盧、
眉長髪短雙眉麁。
阿育王猶狐疑、
摩尼悉哩蘇
(我佛親り賓頭盧を見る、眉長く髪短く雙眉麁なり。阿育王なほ狐疑す、摩尼悉哩蘇。)
この頌は、十成の道にあらざれども、趣向の參學なるがゆゑに拈來するなり。

趙州眞際大師、因問、承聞和尚、親見南泉、是否(承聞すらくは和尚、親り南泉を見ると、是なりや否や)。
師曰、鎭州出大蘿蔔頭(鎭州に大蘿蔔頭を出す)。
いまの道現成は、親見南泉の證驗なり。有語にあらず、無語にあらず。下語にあらず、通語にあらず。策起眉毛にあらず、撥開眉毛にあらず、親見眉毛なり。たとひ軼才の獨歩なりとも、親見にあらずよりは、かくのごとくなるべからず。
この鎭州出大蘿蔔頭の語は、眞際大師の鎭州竇家園眞際院に住持なりしときの道なり。のちに眞際大師の號をたてまつれり。
かくのごとくなるがゆゑに、見佛眼を參開するよりこのかた、佛正法眼藏を正傳せり。正法眼藏の正傳あるとき、佛見雍容の威儀現成し、見佛ここに巍巍堂堂なり。

正法眼藏見佛第五十六

爾時元元年癸卯冬十一月朔十九日在禪師峰山示衆
元二年甲辰冬十月朔十六日在越州吉田縣大佛寺侍者寮書寫之 懷弉