第五十五 十方

拳頭一隻、只箇十方なり。赤心一片、玲瓏十方なり。敲出骨裏髓了也(骨裏の髓を敲出し了れり)。
牟尼佛、告大衆言、十方佛土中、唯有一乘法。
いはゆる十方は、佛土を把來してこれをなせり。このゆゑに、佛土を拈來せざれば十方いまだあらざるなり、佛土なるゆゑに以佛爲主(佛を以て主と爲す)なり。この裟婆國土は、釋牟尼佛土なるがごとし。この裟婆世界を擧拈して、八兩半斤をあきらかに記して、十方佛土の七尺八尺なることを參學すべし。
この十方は、一方にいり一佛にいる、このゆゑに現十方せり。十方一方、是方自方、今方なるがゆゑに眼睛方なり、拳頭方なり、露柱方なり、燈籠方なり。かくのごとくの十方佛土の十方佛、いまだ大小あらず、淨穢あらず。このゆゑに十方の唯佛與佛、あひ稱揚讃歎するなり。さらにあひ誹謗してその長短好惡をとくを轉法輪とし、法とせず。佛および佛子として、助發問訊するなり。
の法を稟受するには、かくのごとく參學するなり。外道魔儻のごとく是非毀辱することあらざるなり。いま眞丹國につたはれる佛經を披閲して、一化の始終を見するに、釋牟尼佛いまだかつて他方の佛それ劣なりととかず、他方の佛それ勝なりととかず。また他方の佛は佛にあらずととかず。おほよそ一代のにすべてみえざるところは、佛のあひ是非する佛語なり。他方の佛また釋牟尼佛を是非したてまつる佛語つたはれず。このゆゑに、
牟尼佛、告大衆言、唯我知是相、十方佛亦然(唯だ我れのみ是の相を知る、十方佛も亦た然り)。

しるべし、唯我知是相の相は、打圓相なり。圓相は遮竿得恁麼長、那竿得恁麼短なり。十方佛道は、唯我知是相、釋牟尼佛亦然の著なり。唯我證是相、自方佛亦然なり。我相、知相、是相、一切相、十方相、裟婆國土相、釋牟尼佛相なり。
この宗旨は、これ佛經なり。佛ならびに國土は兩頭にあらず。有にあらず無にあらず、迷悟にあらず、善惡無記等にあらず。淨にあらず穢にあらず、成にあらず住にあらず、壞にあらず空にあらず、常にあらず無常にあらず、有にあらず無にあらず、自にあらず。離四句なり、絶百非なり。ただこれ十方なるのみなり、佛土なるのみなり。しかあれば、十方は有頭無尾漢なるのみなり。

長沙景岑禪師、告大衆言、盡十方界、是沙門壹隻眼。
いまいふところは、瞿曇沙門眼の壹隻なり。瞿曇沙門眼は、吾有正法眼藏なり、阿誰に附囑するとも瞿曇沙門眼なり。盡十方界の角角尖尖、瞿曇の眼處なり。この盡十方界は、沙門眼のなかの壹隻なり。これより向上に如許多眼あり。
盡十方界、是沙門家常語。
家常は尋常なり。日本國の俗のことばには、よのつねといふ。しかあるに、沙門家のよのつねの言語はこれ盡十方界なり。言端語端なり。家常語は盡十方界なるがゆゑに、盡十方界は家常語なる道理、あきらかに參學すべし。この十方無盡なるゆゑに盡十方なり。家常にこの語をもちゐるなり。かの索馬索鹽、索水索器のごとし。奉水奉器、奉鹽奉馬のごとし。たれかしらん、沒量大人この語脈裏に轉身轉腦することを。語脈裏に轉語するなり。海口山舌、言端語直の家常なり。しかあれば、掩口し掩耳する、十方の眞箇是なり。
盡十方界、沙門全身。
一手指天是天、一手指地是地。雖然如是、天上天下唯我獨尊(一手は天を指す是れ天、一手は地を指す是れ地。然も是の如くなりと雖も、天上天下唯我獨尊なり)。
これ沙門全身なる十方盡界なり。頂、眼睛、鼻孔、皮肉骨髓の箇箇、みな透盡十方の沙門身なり。盡十方を動著せず、かくのごとくなり。擬議量をまたず、盡十方界沙門身を拈來して、見盡十方界沙門身するなり。
盡十方界、是自己光明。
自己とは、父母未生已前の鼻孔なり。鼻孔あやまりて自己の手裏にあるを盡十方界といふ。しかあるに、自己現成して現成公案なり、開殿見佛なり。しかあれども、眼睛被別人換却木子了也(眼睛別人に木子を換却せられ了りぬ)。しかあれども、劈面來、大家相見することをうべし。さらに呼則易、遣則難(呼ぶことは則ち易く、遣ることは則ち難し)なりといへども、喚得廻頭、自廻頭、堪作何用。便著者漢廻頭(喚んで廻頭することを得ば、自ら廻頭す。何の用を可作すべき。便ち著者漢の廻頭)なり。待喫人、衣待著人(は人の喫はんことを待ち、衣は人の著んことを待つ)のとき、模索不著なるがごとくなりとも、可惜許、曾與三十棒(曾てに三十棒を與ふ)。
盡十方界、在自己光明裏。
眼皮一枚、これを自己の光明とす。忽然として打綻するを在裏とす。見由在眼を盡十方界といふ。しかもかくのごとくなりといへども、同牀眠知被穿(牀を同じうして眠れば被の穿げたることを知る)。
盡十方界、無一人不自己(一人として自己ならざる無し)。
しかあればすなはち、箇箇の作家、箇箇の拳頭、ひとりの十方としても自己にあらざるなし。自己なるがゆゑに、自自己己みなこれ十方なり。自自己己の十方、したしく十方を礙するなり。自自己己の命脈、ともに自己の手裏にあるがゆゑに、還他本分草料(他に本分の草料を還せ)なり。いまなにとしてか達磨眼睛、瞿曇鼻孔あらたに露柱の胎裏にある。いはく、出入也、十方十面一任なり。

玄沙院宗一大師云、盡十方界、是一顆明珠。
あきらかにしりぬ、一顆明珠はこれ盡十方界なり。頭鬼面これを窟宅とせり、佛兒孫これを眼睛とせり。人家男女これを頂拳頭とせり。初心晩學これを著衣喫とせり。先師これを泥彈子として兄弟を打著す。しかもこれ單提の一著子なりといへども、宗の眼睛を抉出しきたれり。抉出するとき、宗ともに壹隻手をいだす。さらに眼睛裏放光するのみなり。

乾峰[所名也]和尚因問、十方薄伽梵、一路涅槃門。未審、路頭在什麼處(十方薄伽梵、一路涅槃門。未審、路頭什麼處にか在る)。
乾峰以杖畫一畫云(乾峰、杖を以て畫すること一畫して云く)、在遮裏。
いはゆる在遮裏は十方なり。薄伽梵とは杖なり。杖とは在遮裏なり。一路は十方なり。しかあれども、瞿曇の鼻孔裏に杖をかくすことなかれ。杖の鼻孔に杖を撞著することなかれ。しかもかくのごとくなりとも、乾峰老漢すでに十方薄伽梵、一路涅槃門を料理すると認ずることなかれ。ただ在遮裏と道著するのみなり。在遮裏はなきにあらず、乾峰老漢、はじめより杖に瞞ぜられざらんよし。
おほよそ活鼻孔を十方と參學するのみなり。

正法眼藏十方第五十五

爾時元元年癸卯十一月十三日在日本國越州吉峰舍示衆
元三年乙巳窮冬廿四日在越州大佛寺侍司書寫 懷弉