第五十四 洗淨
佛の護持しきたれる修證あり、いはゆる不染汚なり。
南嶽山觀音院大慧禪師、因六問、還假修證不(また修證を假るや不や)。
大慧云、修證不無、染汚不得(修證は無きにあらず、染汚することはち不得なり)。
六云、只是不染汚、佛之所護念。汝亦如是吾亦如是、乃至西天師亦如是云云(只是の不染汚、佛の所護念なり。汝もまた如是、吾もまた如是、乃至西天の師もまた如是なり云云)。
大比丘三千威儀經云、淨身者、洗大小便、剪十指爪(淨身とは、大小便を洗ひ、十指の爪を剪るなり)。
しかあれば、身心これ不染汚なれども、淨身の法あり、心あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、國土樹下をもきよむるなり。國土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは佛之所護念なり。佛果にいたりてなほ退せず、癈せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり。
華嚴經淨行品云、
左右便利、當願衆生、除穢汚、無婬怒癡(便利を左右せんには當に願ふべし、衆生、穢汚を除きて婬怒癡無からんことを)。
已而就水、當願衆生、向無上道、得出世法(已に水に就かんには當に願ふべし、衆生、無上道に向ひて出世の法を得んことを)。
以水滌穢、當願衆生、具足淨忍、畢竟無垢(水を以て穢を滌がんには當に願ふべし、衆生、淨忍を具足して畢竟垢無からんことを)。
水かならずしも本淨にあらず、本不淨にあらず。身かならずしも本淨にあらず、本不淨にあらず。法またかくのごとし。水いまだ非にあらず、身いまだ非にあらず、法またかくのごとし。佛世尊の、それかくのごとし。しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず。佛法によりて佛法を保任するにこの儀あり。これを洗淨と稱ず。佛の一身心をしたしくして正傳するなり。佛の一句子をちかく見聞するなり。佛の一光明をあきらかに住持するなり。おほよそ無量無邊の功を現成せしむるなり。身心に修行を威儀せしむる正當恁麼時、すなはち久遠の本行を具足圓成せり。このゆゑに、修行の身心本現するなり。
十指の爪をきるべし。十指といふは、左右の兩手の指のつめなり。足指の爪、おなじくきるべし。
經にいはく、つめのながさもし一麥ばかりになれば罪をうるなり。
しかあれば、爪をながくすべからず。爪のながきは、おのづから外道の先蹤なり。ことさらつめをきるべし。
しかあるに、いま大宋國の家のなかに、參學眼そなはらざるともがら、おほく爪をながからしむ。あるいは一寸兩寸、および三四寸にながきもあり。これ非法なり。佛法の身心にあらず。佛家の稽古あらざるによりてかくのごとし。有道の尊宿はしかあらざるなり。あるいは長髪ならしむるともがらあり、これも非法なり。大國の家の所作なりとして、正法ならんとあやまることなかれ。
先師古佛、ふかくいましめのことばを、天下の家の長髪長爪のともがらにたまふにいはく、不會淨髪、不是俗人、不是家、便是畜生。古來佛、誰是不淨髪者。如今不會淨髪箇、眞箇是畜生(淨髪を會せざらんは、是れ俗人にあらず、是れ家にあらず、便是畜生なり。古來の佛、誰か是れ淨髪せざる者ならんや。如今淨髪箇を會せざらんは、眞箇是畜生なり)。
かくのごとく示衆するに、年來不剃頭のともがら、剃頭せるおほし。
あるいは上堂、あるいは普のとき、彈指かまびすしくして責呵す。いかなる道理としらず。胡亂に長髪長爪なる、あはれむべし、南閻浮の身心をして非道におけること。近來二三百年、師道癈せるゆゑにしかのごとくのともがらおほし。かくのごとくのやから、寺院の主人となり、師號に署して爲衆の相をなす、人天の無なり。いま天下の山に、道心箇渾無なり、得道箇久絶なり、祇管破落儻のみなり。
かくのごとく普するに、方に長老の名をみだりにせるともがら、うらみず、陳なし。しるべし、長髪は佛のいましむるところ、長爪は外道の所行なり。佛の兒孫、これらの非法をこのむべからず。身心をきよらしむべし、剪爪剃髪すべきなり。
洗大小便おこたらしむることなかれ。舍利弗この法をもて外道を降伏せしむることありき。外道の本期にあらず、身子が素懷にあらざれども、佛の威儀現成するところに、邪法おのづから伏するなり。
樹下露地に修するときは起屋なし、便宜の溪谷河水等によりて、分土洗淨するなり。これは灰なし、ただ二七丸の土をもちゐる。二七丸をもちゐる法は、まづ法衣をぬぎてたたみおきてのち、くろからず、黄色なる土をとりて、一丸のおほきさ、大なる大豆許に分して、いしのうへ、あるいは便宜のところに、七丸をひとならべにおきて、二七丸をふたへにならべおく。そののち、磨石にもちゐるべき石をまうく。そののちす。後使籌、あるいは使紙。そののち水邊にいたりて洗淨する、まづ三丸の土をたづさへて洗淨す。一丸土を掌にとりて、水すこしばかりをいれて、水に合してときて、泥よりもうすく、漿ばかりになして、まづ小便を洗淨す。つぎに一丸の土をもてさきのごとくして大便處を洗淨す。つぎに一丸の土をさきのごとくして略して觸手をあらふ。
寺舍に居してよりこのかたは、その屋を起立せり。これを東司と稱ず。ふるきにはといひ、廁といふときもありき。家の所住にかならずあるべき屋舍なり。
東司にいたる法は、かならず手巾をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、淨竿に手巾をかくべし。かくる法は、臂にかけたりつるがごとし。もし九條七條等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併すべし。倉卒になげかくることなかれ。よくよく記號すべし。記號といふは、淨竿に字をかけり。白紙にかきて月輪のごとく圓にして、淨竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直はおけりとわすれず、みだらざるを記號といふなり。衆家おほくきたらんに、自他の竿位を亂すべからず。
このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手して揖すべし。揖するに、かならずしもあひむかひて曲躬せず。ただ叉手をむねのまへにあてて氣色ある揖なり。東司にては、直を著せざるにも、衆家と揖し氣色するなり。もし兩手ともにいまだ觸せず、兩手ともにものをひさげざるには、兩手を叉して揖すべし。もしすでに一手を觸せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬せんとするがごとくしてもちて、頭をいささか低頭せんとするがごとく揖するなり。他、かくのごとくせば、おのれかくのごとくすべし。おのれかくのごとくせば、他またしかあるべし。
褊衫および直をして、手巾のかたはらにかくる法は、直をぬぎとりて、ふたつのそでをうしろへあはせて、ふたつのわきのしたをとりあはせてひきあぐれば、ふたつのそでかさなれる。このときは、左手にては直のうなぢのうらのもとをとり、右手にてはわきをひきあぐれば、ふたつのたもとと左右の兩襟と、かさなるなり。兩袖と兩襟とをかさねて、又たてざまになかよりをりて、直のうなぢを淨竿の那邊へなげこす。直の裙ならびに袖口等は、竿の遮邊にかかれり。たとへば、直の合腰、淨竿にかくるなり。つぎに竿にかけたりつる手巾の遮那兩端をひきちがへて、直よりひきこして、手巾のかからざりつるかたにて又ちがへてむすびとどむ。兩三匝もちがへちがへしてむすびて、直を淨竿より落地せしめざらんとなり。あるいは直にむかひて合掌す。
つぎに絆子をとりて兩臂にかく。つぎに淨架にいたりて、淨桶に水を盛て、右手に提して淨廁にのぼる。淨桶に水をいるる法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。廁門のまへにして換鞋すべし。蒲鞋をはきて、自鞋を廁門の前にするなり。これを換鞋といふ。
禪苑規云、欲上東司、應須預往。勿致臨時内逼倉卒。乃疊袈裟、安寮中案上、或淨竿上(東司に上らんと欲はば、須らく預め往くべし。臨時にして内に逼めて倉卒に致すこと勿れ。乃ち袈裟を疊みて寮中の案上或いは淨竿の上に安ずべし)。
廁内にいたりて、左手にて門扉を掩す。つぎに淨桶の水すこしばかり槽裏に瀉す。つぎに淨桶を當面の淨桶位に安ず。つぎにたちながら槽にむかひて彈指三下すべし。彈指のとき、左手は拳にして、左腰につけてもつなり。[禪苑規、三千威儀經文事、入べし]
つぎに袴口衣角ををさめて、門にむかひて兩足に槽唇の兩邊をふみて、蹲居し、す。兩邊をけがすことなかれ、前後にそましむることなかれ。このあひだ默然なるべし。隔壁と語笑し、聲をあげて吟詠することなかれ。涕唾狼藉なることなかれ、怒氣卒暴なることなかれ。壁面に字をかくべからず、廁籌をもて地面を劃すことなかれ。
屎退後、すべからく使籌すべし。又かみをもちゐる法あり。故紙をもちゐるべからず。字をかきたらん紙、もちゐるべからず。淨籌觸籌わきまふべし。籌はながさ八寸につくりて三角なり。ふとさは手拇指大なり。漆にてぬれるもあり、未漆なるもあり。觸は籌斗になげおき、淨はもとより籌架にあり。籌架は槽のまへの版頭のほとりにおけり。
使籌、使紙ののち、洗淨する法は、右手に淨桶をもちて、左手をよくよくぬらしてのち、左手を掬につくりて水をうけて、まづ小便を洗淨す、三度。つぎに大便をあらふ。洗淨如法にして淨潔ならしむべし。このあひだ、あらく淨桶をかたぶけて、水をして手のほかにあましおとし、あましちらして、水をはやくうしなふことなかれ。
洗淨しおわりて、淨桶を安桶のところにおきて、つぎに籌をとりてのごひかはかす。あるいは紙をもちゐるべし。大小兩處、よくよくのごひかはかすべし。つぎに右手にて袴口衣角をひきつくろいて、右手に淨桶を提して廁門をいづるちなみに、蒲鞋をぬぎて自鞋をはく。つぎに淨架にかへりて、淨桶を本所に安ず。
つぎに洗手すべし。右手に灰匙をとりて、まづすくひて、瓦石のおもてにおきて、右手をもて滴水を點じて觸手をあらふ。瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなをとにあててとぐがごとし。かくのごとく、灰にて三度あらふべし。つぎに土をおきて、水を點じてあらふこと三度すべし。つぎに右手に皀莢をとりて、小桶の水にさしひたして、兩手あはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して慇懃にあらふべし。灰三、土三、皀莢一なり。あはせて一七度を度とせり。つぎに大桶にてあらふ。このときは面藥土灰等をもちゐず、ただ水にてもゆにてもあらふなり。一番あらひて、その水を小桶にうつして、さらにあたらしき水をいれて兩手をあらふ。
華嚴經に云く、以水盥掌、當願衆生、得上妙手、受持佛法(水を以て掌を盥ふには當に願ふべし、衆生、上妙の手を得て佛法を受持せんことを)。
水杓をとらんことは、かならず右手にてすべし。このあひだ、桶杓おとをなし、かまびすしくすることなかれ。水をちらし、皀莢をちらし、水架の邊をぬらし、おほよそ倉卒なることなかれ。狼藉なることなかれ。つぎに公界の手巾に手をのごふ。あるいはみづからが手巾にのごふ。手をのごひをはりて、淨竿のした、直のまへにいたりて、絆子をして竿にかく。つぎに合掌してのち、手巾をとき、直をとりて著す。つぎに手巾を左臂にかけて塗香す。公界に塗香あり、香木を寶瓶形につくれり。その大は拇指大なり。ながさ四指量につくれり。纖索の尺餘なるをもちて、香の兩端に穿貫せり。これを淨竿にかけおけり。これを兩掌をあはせてもみあはすれば、その香氣おのづから兩手にず。絆子を竿にかくるとき、おなじうへにかけかさねて、絆と絆とみだらしめ、亂縷せしむることなかれ。かくのごとくする、みなこれ淨佛國土なり、莊嚴佛國なり。審細にすべし、倉卒にすべからず。いそぎをはりてかへりなばやと、おもひいとなむことなかれ。ひそかに東司上不佛法の道理を思量すべし。
衆家のきたりゐる面をしきりにまぼることなかれ。廁中の洗淨には冷水をよろしとす、熱湯は腸風をひきおこすといふ。洗手には温湯をもちゐる、さまたげなし。釜一隻をおくことは、燒湯洗手のためなり。
規云、晩後燒湯上油、常令湯水相續、無使大衆動念(晩後には燒湯し上油して、常に湯水を相續せしめ、大衆を動念せしむること無かれ)。
しかあればしりぬ、湯水ともにもちゐるなり。もし廁中の觸せることあらば、門扉を掩して觸牌をかくべし。もしあやまりて落桶あらば、門扉を掩して落桶牌をかくべし。これらの牌かかれらん局には、のぼることなかれ。もしさきより廁上にのぼれらんに、ほかに人ありて彈指せば、しばらくいづべし。
規云、若不洗淨、不得坐牀及禮三寶。亦不得受人禮拜(若し洗淨せずは、牀に坐し及び三寶を禮すること得ざれ。また人の禮拜を受くること得ざれ)。
三千威儀經云、若不洗大小便、得突吉羅罪。亦不得淨坐具上坐、及禮三寶。設禮無(若し大小便を洗はざれば、突吉羅罪を得。またの淨坐具上に坐し、及び三寶を禮すること得ざれ。設禮するとも無からん)。
しかあればすなはち、辨道功夫の道場、この儀をさきにすべし。あに三寶を禮せざらんや、あに人の禮拜をうけざらんや、あに人を禮せざらんや。佛の道場かならずこの威儀あり。佛道場中人、かならずこの威儀具足あり。これ自己の強爲にあらず、威儀の云爲なり。佛の常儀なり、の家常なり。ただ此界の佛のみにあらず、十方の佛儀なり、淨土穢土の佛儀なり。少聞のともがらおもはくは、佛には廁屋の威儀あらず、裟婆世界の佛の威儀は淨土の佛のごとくにあらずとおもふ。これは學佛道にあらず。しるべし、淨穢は離人の滴血なり。あるときはあたたかなり、あるときはすさまじ。佛に廁屋ありしるべし。
十誦律第十四云、羅羅沙彌、宿佛廁。佛覺了、佛以右手摩羅羅頂、是偈言(羅羅沙彌のとき、佛の廁に宿す。佛覺し了りて佛右手を以て羅羅の頂を摩でて、是の偈をいて言く)、
汝不爲貧窮、
亦不失富貴。
但爲求道故、
出家應忍苦。
(汝貧窮の爲にあらず、また富貴を失せるにあらず。但だ求道の爲の故なり、出家は應に苦を忍ぶべし。)
しかあればすなはち、佛道場に廁屋あり、佛廁屋裏の威儀は洗淨なり。相傳しきたれり。佛儀のなほのこれる、慕古の慶快なり、あひがたきにあへるなり。いはんや如來かたじけなく廁屋裏にして羅羅のために法しまします。廁屋は佛轉法輪の一會なり。この道場の進止、これ佛正傳せり。
摩訶祇律第三十四云、廁屋不得在東在北、應在南在西。小行亦如是(廁屋は東に在り北に在ること得ざれ。南に在り西に在るべし。小行もまた是の如し)。
この方宜によるべし。これ西天竺國の舍の圖なり。如來現在の建立なり。しるべし、一佛の佛儀のみにあらず、七佛の道場なり、舍なり。佛の道場なり、舍なり。はじめたるにあらず、佛の威儀なり。これらをあきらめざらんよりさきは、寺院を草創し、佛法を修行せん、あやまりはおほく、佛威儀そなはらず、佛菩提いまだ現前せざらん。もし道場を建立し、寺院を草創せんには、佛正傳の法儀によるべし。これ正嫡正傳の法儀によるべし、これ正嫡正傳なるがゆゑに、その功あつめかさなれり。佛正傳の嫡嗣にあらざれば佛法の身心いまだしらず、佛法の身心しらざれば佛家の佛業あきらめざるなり。いま大師釋牟尼佛の佛法あまねく十方につたはれるといふは、佛身心の現成なり。佛身心現成の正當恁麼時、かくのごとし。
正法眼藏第五十四
爾時延應元年己亥冬十月二十三日在雍州宇治縣觀音導利院興聖寶林寺示衆