第四十七 佛經

このなかに、菩薩法あり、佛法あり。おなじくこれ大道の調度なり。調度ぬしにしたがふ、ぬし調度をつかふ。これによりて、西天東地の佛、かならず或從知識、或從經卷の正當恁麼時、おのおの發意、修行、證果、かつて間隙あらざるものなり。發意も經卷知識により、修行も經卷知識による、證果も經卷知識に一親なり。機先句後、おなじく經卷知識に同參なり。機中句裏、おなじく經卷知識に同參なり。
知識はかならず經卷を通利す。通利すといふは、經卷を國土とし、經卷を身心とす。經卷を爲他の施設とせり、經卷を坐臥經行とせり。經卷を父母とし、經卷を兒孫とせり。經卷を行解とせるがゆゑに、これ知識の經卷を參究せるなり。知識の洗面喫茶、これ古經なり。經卷の知識を出生するといふは、黄檗の六十杖よく兒孫を生長せしめ、黄梅の打三杖よく傳衣附法せしむるのみにあらず、桃花をみて悟道し、竹響をききて悟道する、および見明星悟道、みなこれ經卷の知識を生長せしむるなり。あるいはまなこをえて經卷をうる皮袋拳頭あり、あるいは經卷をえてまなこをうる木杓漆桶あり。
いはゆる經卷は、盡十方界これなり。經卷にあらざる時處なし。勝義諦の文字をもちゐ、世俗諦の文字をもちゐ、あるいは天上の文字をもちゐ、あるいは人間の文字をもちゐ、あるいは畜生道の文字をもちゐ、あるいは修羅道の文字をもちゐ、あるいは百草の文字をもちゐ、あるいは萬木上の文字をもちゐる。このゆゑに、盡十方界に森森として羅列せる長短方圓、黄赤白、しかしながら經卷の文字なり、經卷の表面なり。これを大道の調度とし、佛家の經卷とせり。
この經卷、よく蓋時に流布し、蓋國に流通す。人の門をひらきて盡地の人家をすてず、物の門をひらきて盡地の物類をすくふ。佛し、菩薩するに、盡地盡界なるなり。開方便門し、開住位門して、一箇半箇をすてず、示眞實相するなり。この正恁麼時、あるいは佛、あるいは菩薩の慮知念覺と無慮知念覺と、みづからおのおの強爲にあらざれども、この經卷をうるを、各面の大期とせり。
必得是經のときは、古今にあらず、古今は得經の時節なるがゆゑに。盡十方界の目前に現前せるは、これ得是經なり。この經を讀誦通利するに、佛智、自然智、無師智、こころよりさきに現成し、身よりさきに現成す。このとき、新條の特地とあやしむことなし。この經のわれらに受持讀誦せらるるは、經のわれらを接取するなり。文先句外、向下節上の消息、すみやかに散花貫花なり。
この經をすなはち法となづく。これに八萬四千の法蘊あり。この經のなかに成等正覺の佛なる文字あり、現住世間の佛なる文字あり、入般涅槃の佛なる文字あり。如來如去、ともに經中の文字なり、法上の法文なり。拈花瞬目、微笑破顔、すなはち七佛正傳の古經なり。腰雪斷臂、禮拜得髓、まさしく師資相承の古經なり。つひにすなはち傳法附衣する、これすなはち廣文全卷を附囑せしむる時節至なり。みたび臼をうち、みたび箕の米をひる、經の經を出手せしめ、經の經に正嗣するなり。
しかのみにあらず、是什麼物恁麼來、これ佛の千經なり、菩薩の萬經なり。似一物不中、よく八萬蘊をとき、十二部をとく。いはんや拳頭脚跟、杖拂子、すなはち古經新經なり、有經空經なり。在衆辨道、功夫坐禪、もとより頭正也佛經なり、尾正也佛經なり。菩提葉に經し、空面に經す。
おほよそ佛の一動兩靜、あはせて把定放行、おのれづから佛經の卷舒なり。窮極あらざるを、窮極の標準と參學するゆゑに、鼻孔より受經出經す、脚尖よりも受經出經す。父母未生前にも受經出經あり、威音王以前にも受經出經あり。山河大地をもて經をうけ經をとく。日月星辰をもて經をうけ經をとく。あるいは空劫已前の自己をして經を持し經をさづく。あるいは面目已前の身心をもて經を持し經をさづく。かくのごとくの經は、微塵を破して出現せしむ、法界を破していださしむるなり。

第二十七般若多羅尊者道、貧道出息不隨衆、入息不居蘊界。常轉如是經、百千萬億卷。非但一卷兩卷(貧道は出息衆に隨はず、入息蘊界に居せず。常に如是經を轉ずること、百千萬億卷なり。但一卷兩卷のみにあらず)。
かくのごとくの師道を聞取して、出息入息のところに轉經せらるることを參學すべし。轉經をしるがごときは、在經のところをしるべきなり。能轉所轉、轉經經轉なるがゆゑに、悉知悉見なるべきなり。

先師尋常道、我箇裏、不用燒香禮拜念佛修懺看經、祗管打坐、辨道功夫、身心落(我が箇裏、燒香禮拜念佛修懺看經を用ゐず、祗管に打坐し、辨道功夫して身心落す)。
かくのごとくの道取、あきらむるともがらまれなり。ゆゑはいかん。看經をよんで看經とすれば觸す、よんで看經とせざればそむく。不得有語、不得無語。速道、速道。
この道理參學すべし。 この宗旨あるゆゑに、
古人云、看經須具看經眼。
まさにしるべし、古今にもし經なくは、かくのごときの道取あるべからず。落の看經あり、不用の看經あること、參學すべきなり。
しかあればすなはち、參學の一箇半箇、かならず佛經を傳持して佛子なるべし。いたづらに外道の邪見をまなぶことなかれ。いま現成せる正法眼藏はすなはち佛經なるがゆゑに、あらゆる佛經は正法眼藏なり。一異にあらず、自他にあらず。しるべし、正法眼藏そこばくおほしといへども、なんだちことごとく開明せず。しかあれども、正法眼藏を開演す、信ぜざることなし。
佛經もしかあるべし。そこばくおほしといへども、信受奉行せんこと、一偈一句なるべし。八萬を解會すべからず、佛經の達者にあらざればとて、みだりに佛經は佛法にあらずといふことなかれ。なんだちが佛の骨髓を稱じきこゆるも、正眼をもてこれをみれば、依文の晩進なり。一句一偈を受持せるにひとしかるべし、一句一偈の受持におよばざることもあるべし。この薄解をたのんで、佛正法を謗ずることなかれ。聲色の佛經よりも功なるあるべからず。聲色のなんぢを惑亂する、なほもとめむさぼる。佛經のなんぢを惑亂せざる、信ぜずして謗ずることなかれ。
しかあるに、大宋國の一二百餘年の前後にあらゆる杜撰の臭皮袋いはく、師の言句、なほこころにおくべからず。いはんや經は、ながくみるべからず、もちゐるべからず。ただ身心をして枯木死灰のごとくなるべし。破木杓、底桶のごとくなるべし。かくのごとくのともがら、いたづらに外道天魔の流類となれり。もちゐるべからざるをもとめてもちゐる、これによりて、佛の法むなしく狂顛の法となれり。あはれむべし、かなしむべし。たとひ破木杓、底桶も、すなはち佛の古經なり。この經の卷數部帙、きはむる佛まれなるなり。佛經を佛法にあらずといふは、佛の經をもちゐし時節をうかがはず、佛の從經出の時節を參學せず、佛と佛經との親疎の量をしらざるなり。かくのごとくの杜撰のやから、稻竹葦のごとし。獅子の座にのぼり、人天の師として、天下に叢林をなせり。杜撰は杜撰に學せるがゆゑに、杜撰にあらざる道理をしらず、しらざればねがはず。從冥入於冥、あはれむべし。いまだかつて佛法の身心なければ、身儀心操、いかにあるべしとしらず。有空のむねあきらめざれば、人もし問取するとき、みだりに拳頭をたつ。しかあれども、たつる宗旨にくらし。正邪のみちあきらめざれば、人もし問取すれば、拂子をあぐ。しかあれども、あぐる宗旨にあきらかならず。あるいは爲人の手をさづけんとするには、臨濟の四料簡四照用、雲門の三句、洞山の三路五位等を擧して、學道の標準とせり。

先師天童和尚、よのつねにこれをわらうていはく、學佛あにかくのごとくならんや。佛正傳する大道、おほく心にかうぶらしめ、身にかうぶらしむ。これを參學するに、參究せんと擬するにいとまあらず。なんの間暇ありてか晩進の言句をいれん。まことにしるべし、方長老無道心にして、佛法の身心を參學せざることあきらけし。
先師の示衆かくのごとし。まことに臨濟は黄檗の會下に後生なり。六十杖をかうぶりて、つひに大愚に參ず。老婆心話のしたに、從來の行履を照顧して、さらに黄檗にかへる。このこと、雷聞せるゆゑに、黄檗の佛法は臨濟ひとり相傳せりとおもへり。あまりさへ黄檗にもすぐれたりとおもへり。またくしかにはあらざるなり。臨濟はわづかに黄檗の會にありて隨衆すといへども、陳尊宿すすむるとき、なにごとをとふべしとしらずといふ。大事未明のとき、參學の玄侶として、立地聽法せんに、あにしかのごとく茫然とあらんや。しるべし、上上の機にあらざることを。また臨濟かつて勝師の志氣あらず、過師の言句きこえず。黄檗は勝師の道取あり、過師の大智あり。佛未道の道を道得せり、未會の法を會得せり。黄檗は超越古今の古佛なり。百丈よりも尊長なり、馬よりも英俊なり。臨濟にかくのごとくの秀氣あらざるなり。ゆゑはいかん。古來未道の句、ゆめにもいまだいはず。ただ多を會して一をわすれ、一を達して多にわづらふがごとし。あに四料簡等に道味ありとして、學法の指南とせんや。
雲門は雪峰の門人なり。人天の大師に堪爲なりとも、なほ學地といふつべし。これらをもて得本とせん、ただこれ愁末なるべし。臨濟いまだきたらず、雲門いまだいでざりし時は、佛なにをもてか學道の標準とせし。かるがゆゑにしるべし、かれらが屋裏に佛家の道業つたはれざるなり。憑據すべきところなきがゆゑに、みだりにかくのごとく胡亂道するなり。このともがら、みだりに佛經をさみす、人、これにしたがはざれ。もし佛經なげすつべくは、臨濟雲門をもなげすつべし。佛經もしもちゐるべからずは、のむべき水もなし、くむべき杓もなし。
また高の三路五位は節目にて、杜撰のしるべき境界にあらず。宗旨正傳し、佛業直指せり。あへて餘門にひとしからざるなり。

また杜撰のともがらいはく、道、ともにその極致は一揆なるべし。しばらく入門の別あるのみなり。あるいはこれを鼎の三脚にたとふ。これいまの大宋國ののさかりに談ずるむねなり。もしかくのごとくいはば、これらのともがらがうへには、佛法すでに地をはらうて滅沒せり。また佛法かつて微塵のごとくばかりもきたらずといふべし。かくのごとくのともがら、みだりに佛法の通塞を道取せんとして、あやまりて佛經は不中用なり、師の門下に別傳の宗旨ありといふ。少量の機根なり。佛道の邊際をうかがはざるゆゑなり。佛經もちゐるべからずといはば、經あらんとき、もちゐるや、もちゐるべからずや。道に佛經のごとくなる法おほし。用いかん。もし佛道のほかに道ありといはば、たれか道を信ぜん。師の師とあることは、佛道を正傳するによりてなり。佛道を正傳せざらん師、たれか師といはん。初を崇敬することは、第二十八なるゆゑなり。佛道のほかに道をいはば、十二十たてがたからん。嫡嫡相承するによりて、師を恭敬するゆゑは、佛道のおもきによりてなり。佛道を正傳せざらん師は、なんの面目ありてか人天と相見せん。いはんやほとけをしたふしふかきこころざしをるがへして、あらたに佛道にあらざらん師にしたがひがたきなり。
いま杜撰の狂者、いたづらに佛道を輕忽するは、佛道所有の法を決擇することあたはざるによりてなり。しばらくかの道をもて佛に比する愚癡のかなしむべきのみにあらず、罪業の因なり、國土の衰弊なり。三寶の陵夷なるがゆゑに。孔老の道、いまだ阿羅漢に同ずべからず。いはんや等覺妙覺におよばんや。孔老のは、わづかに聖人の視聽を大地乾坤の大象にわきまふとも、大聖の因果を一生多生にあきらめがたし。わづかに身心の動靜を無爲の爲にわきまふとも、盡十方界の眞實を無盡際斷にあきらむべからず。
おほよそ孔老のの佛經よりも劣なること、天地懸隔の論におよばざるなり。これをみだりに一揆に論ずるは、謗佛法なり、謗孔老なり。たとひ孔老の微ありとも、近來の長老等、いかにしてかその少分をもあきらめん。いはんや萬期に大柄をとらんや。かれにも訓あり、修練あり。いまの庸流たやすくすべきにあらず。修しこころむるともがら、なほあるべからず。一微塵なほ他塵に同ずべからず。いはんや佛經の奥玄ある、いまの晩進、いかでか辨肯することあらん。兩頭ともにあきらかならざるに、いたづらに一致の胡亂道するのみなり。
大宋いまかくのごとくのともがら、師號に署し、師職にをり、古今に無慚なるをもて、おろかに佛道を亂辨す。佛法ありと聽許しがたし。しかのごとくの長老等、かれこれともにいはく、佛經は佛道の本意にあらず、傳これ本意なり。傳に奇特玄妙つたはれり。
かくのごとくの言句は、至愚のはなはだしきなり、狂顛のいふところなり。師の正傳に、またく一言半句としても、佛經に違せる奇特あらざるなり。佛經と道と、おなじくこれ釋牟尼佛より正傳流布しきたれるのみなり。ただし傳は、嫡嫡相承せるのみなり。しかあれども、佛經をいかでかしらざらん、いかでかあきらめざらん、いかでか讀誦せざらん。
いはく、なんぢ經にまどふ、經なんぢをまよはさず。
看經の因おほし。
杜撰にむかふていふべし、なんぢがいふがごとく、佛經もしなげすつべくは、佛心もなげすつべし、佛身もなげすつべし。佛身心なげすつべくは、佛子なげすつべし。佛子なげすつべくは、佛道なげすつべし。佛道なげすつべくは、道なげすてざらんや。佛道道ともになげすてば、一枚の禿子の百姓ならん。たれかなんぢを喫棒の分なしとはいはん。ただ王臣の驅使のみにあらず、閻老のせめあるべし。近來の長老等、わづかに王臣の帖をたづさへて、梵刹の主人といふをもて、かくのごとくの狂言あり。是非を辨ずるに人なし。ひとり先師のみこのともがらをわらふ。餘山の長老等、すべてしらざるところなり。

おほよそ異域の侶なれば、あきらむる道かならずあるらんとおもひ、大國の帝師なれば、達せるところさだめてあるらんとおもふべからず。異域の衆生かならずしも種にたへず。善衆生は善なり、惡衆生は惡なり。法界のいく三界も、衆生の種品おなじかるべきなり。
また大國の帝師となること、かならずしも有道をえらばれず。帝者また有道をしりがたし、わづかに臣の擧をききて登用するのみなり。古今に有道の帝師あり、有道にあらざる帝師おほし。にごれる代に登用せらるるは無道の人なり、にごれる世に登用せられざるは有道の人なり。そのゆゑはいかん。知人のとき、不知人のとき、あるゆゑなり。黄梅のむかし、秀あることをわすれざるべし。秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に法す。しかのみにあらず、七百高の上座なり。黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。樵夫より行者にうつる、搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身、うらむべしといへども、出俗越、得法傳衣、かつていまだむかしもきかざるところ、西天にもなし、ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。七百の高もかたを比せず、天下の龍象あとをたづぬる分なきがごとし。まさしく第三十三代の位を嗣續して佛嫡なり。五、知人の知識にあらずは、いかでかかくのごとくならん。
かくのごとくの道理、しづかに思惟すべし、卒爾にすることなかれ。知人のちからをえんことをこひねがふべし。人をしらざるは自他の大患なり、天下の大患なり。廣學措大は要にあらず。知人のまなこ、知人の力量、いそぎてもとむべし。もし知人のちからなくは、曠劫に沈淪すべきなり。
しかあればすなはち、佛道にさだめて佛經あることをしり、廣文深義を山海に參學して、辨道の標準とすべきなり。

正法眼藏佛經第四十七

爾時元元年癸卯秋九月庵居于越州吉田縣吉峰寺而示衆