第四十六 無
法
法於
法するは、佛
附囑於佛
の見成公案なり。この
法は法
なり。有
にあらず、無
にあらず。有爲にあらず、無爲にあらず。有爲無爲の因
にあらず、從
起の法にあらず。しかあれども、鳥道に不行なり、佛衆に爲與す。大道十成するとき、
法十成す。法藏附囑するとき、
法附囑す。拈華のとき、拈
法あり。傳衣のとき、傳
法あり。このゆゑに、
佛
、おなじく威音王以前より
法に奉覲しきたり、
佛以前より
法に本行しきたれるなり。
法は佛
の理しきたるとのみ參學することなかれ。佛
は
法に理せられきたるなり。この
法、わづかに八萬四千門の法蘊を開演するのみにあらず、無量無邊門の
法蘊あり。先佛の
法を後佛は
法すと參學することなかれ。先佛きたりて後佛なるにあらざるがごとく、
法も先
法を後
法とするにはあらず。このゆゑに、
釋
牟尼佛道、如三世
佛、
法之儀式、我今亦如是、
無分別法(三世
佛
法の儀式の如く、我れも今亦た是の如く無分別法を
く)。
しかあればすなはち、
佛の
法を使用するがごとく、
佛は
法を使用するなり。
佛の
法を正傳するがごとく、
佛は
法を正傳するによりて、古佛より七佛に正傳し、七佛よりいまに正傳して無
法あり。この無
法に
佛あり、
あるなり。我今
法は、正傳にあらざる新條と學することなかれ。古來正傳は舊
の鬼窟と證することなかれ。
大唐國西京光宅寺大證國師、因
問、無
還解
法否(無
また
法を解すや否や)。
國師曰、常
熾然、
無間歇(常
熾然、
くに間歇無し)。
曰、某甲爲甚麼不聞(某甲甚麼と爲てか聞かざる)。
國師曰、汝自不聞、不可妨他聞者也(汝自ら聞かざるも、他の聞くを妨ぐべからざる者なり)。
曰、未審、什麼人得聞(未審、什麼人か聞くことを得る)。
國師曰、
聖得聞(
聖聞くことを得)。
曰、和尚還聞否(和尚また聞くや否や)。
國師曰、我不聞(我れ聞かず)。
曰、和尚
不聞、爭知無
解
法(和尚
に聞かず、爭んぞ無
法を解するを知らんや)。
國師曰、
我不聞。我若聞則齊於
聖、汝
不聞我
法(
ひに我聞かず。我若し聞かば則ち
聖に齊し、汝
ち我が
法を聞かざらん)。
曰、恁麼則衆生無分也(恁麼ならば則ち衆生無分なり)。
國師曰、我爲衆生
、不爲
聖
(我れは衆生の爲に
く、
聖の爲に
かず)。
曰、衆生聞後如何(衆生聞きて後如何)。
國師曰、
非衆生(
ち衆生に非ず)。
無
法を參學せん初心晩學、この國師の因
を直須勤學すべし。
常
熾然、
無間歇とあり。常は
時の一分時なり。
無間歇は、
すでに現出するがごときは、さだめて無間歇なり。無
法の儀、かならずしも有
のごとくにあらんずると參學すべからず。有
の音聲および有
法の儀のごとくなるべきがゆゑに、有
界の音聲をうばうて、無
界の音聲に擬するは佛道にあらず。無
法かならずしも聲塵なるべからず。たとへば、有
の
法それ聲塵にあらざるがごとくなり。しばらく、いかなるか有
、いかなるか無
と、問自問他、功夫參學すべし。
しかあれば、無
法の儀、いかにかあるらんと審細に留心參學すべきなり。愚人おもはくは、樹林の鳴條する、葉花の開落するを無
法と認ずるは、學佛法の漢にあらず。もししかあらば、たれか無
法をしらざらん、たれか無
法をきかざらん。しばらく廻光すべし。無
界には草木樹林ありやなしや、無
界は有
界にまじはれりやいなや。しかあるを、草木瓦礫を認じて無
とするは不遍學なり。無
を認じて草木瓦礫とするは不參
なり。たとひいま人間の所見の草木等を認じて無
に擬せんとすとも、草木等も凡慮のはかるところにあらず。ゆゑいかんとなれば、天上人間の樹林、はるかに殊異あり、中國邊地の所生ひとしきにあらず。海裏山間の草木、みな不同なり。いはんや空におふる樹木あり、雲におふる樹木あり。風火等のなかに、所生長の百草萬樹、おほよそ有
と學しつべきあり、無
と認ぜられざるあり。草木の人畜のごとくなるあり。有
無
いまだあきらめざるなり。いはんや仙家の樹石花果湯水等、みるに疑著およばずとも、
著せんにかたからざらんや。ただわづかに
州一國の草木をみ、日本一州の草木を慣
して、萬方盡界もかくのごとくあるべしと擬議商量することなかれ。
國師道、
聖得聞。
いはく、無
法の會下には、
聖立地聽するなり。
聖と無
と、聞を現成し、
を現成せしむ。無
すでに
聖のために
法す。聖なりや、凡なりや。あるいは無
法の儀をあきらめをはりなば、
聖の所聞かくのごとくありと體達すべし。すでに體達することをえては、聖者の境界をはかりしるべし。さらに超凡越聖の通宵路の行履を參學すべし。
國師いはく、我不聞。
この道も容易會なりと擬することなかれ。超凡越聖にして不聞なりや。擘破凡聖
窟のゆゑに不聞なりや。恁麼功夫して、道取を現成せしむべし。
國師いはく、
我不聞。我若聞則、齊於
聖。
この擧似、これ一道兩道にあらず。
我は凡聖にあらず、
我は佛
なるべきか。佛
は超凡越聖するゆゑに、
聖の所聞には一齊ならざるべし。
國師道の汝
不聞我
法の理道を修理して、
佛
聖の菩提を料理すべきなり。その宗旨は、いはゆる無
法、
聖得聞。國師
法、這
得聞なり。この道理を、參學功夫の日深月久とすべし。
しばらく國師に問著すべし、衆生聞後はとはず、衆生正當聞
法時、如何。
高
洞山悟本大師、參曩
雲巖大和尚問曰、無
法什麼人得聞(曩
雲巖大和尚に參じて問うて曰く、無
法は什麼人か聞くことを得る)。
雲巖曩
曰、無
法、無
得聞(無
法は無
聞くことを得)。
高
曰、和尚聞否(和尚聞くや否や)。
曩
曰、我若聞、汝
不得聞吾
法也(我れ若し聞かば、汝
ち吾が
法を聞くことを得ざらん)。
高
曰、若恁麼、
某甲不聞和尚
法(若し恁麼ならば、
ち某甲和尚の
法を不聞ならん)。
曩
曰、我
汝尚不聞、何況無
法也(我れ
くもら汝なほ聞かず、何に況んや無
の
法をや)。
高
乃述偈呈曩
曰(高
乃ち偈を述して曩
に呈するに曰く)、
也太奇、也太奇、
無
法不思議。
若將耳聽終難會、
眼處聞聲方得知。
(也太奇、也太奇、無
法不思議なり。若將耳聽は終難會なり、眼處に聞聲して方に知ることを得ん。)
いま高
道の無
法什麼人得聞の道理、よく一生多生の功夫を審細にすべし。いはゆるこの問著、さらに道著の功
を具すべし。この道著の皮肉骨髓あり、以心傳心のみにあらず。以心傳心は初心晩學の辨肯なり。衣を擧して正傳し、法を拈じて正傳する關
子あり。いまの人、いかでか三秋四月の功夫に究竟することあらん。高
かつて大證道の無
法
聖得聞の宗旨を見聞せりといへども、いまさらに無
法什麼人得聞の問著あり。これ肯大證道なりとやせん、不肯大證道なりとやせん。問著なりとやせん、道著なりとやせん。もし
不肯大證爭得恁麼道、もし
肯大證、爭解恁麼道なり。
曩
雲巖云、無
法、無
得聞。
この血脈を正傳して、身心
落の參學あるべし。いはゆる無
法、無
得聞は、
佛
法、
佛得聞の性相なるべし。無
法を聽取せん衆會、たとひ有
無
なりとも、たとひ凡夫賢聖なりとも、これ無
なるべし。この性相によりて、古今の眞僞を批判すべきなり。たとひ西天より將來すとも、正傳まことの
師にあらざらんは、もちゐるべからず。たとひ千萬年より
學すること聯綿なりとも、嫡嫡相承にあらずは嗣續しがたし。いま正傳すでに東土に通達せり、眞僞の通塞わきまへやすからん。たとひ衆生
法、衆生得聞の道取を聽取しても、
佛
の骨髓を稟受しつべし。雲巖曩
の道を聞取し、大證國師の道を聽取して、まさに與奪せば、
聖得聞の道取する
聖は無
なるべし。無
得聞と道取する無
は
聖なるべし。無
所
無
なり、無
法
無
なるがゆゑに。しかあればすなはち、無
法なり、
法無
なり。
高
道の若恁麼、則某甲不聞和尚
法也。
いまきくところの若恁麼は、無
法、無
得聞の宗旨を擧拈するなり。無
法、無
得聞の道理によりて、某甲不聞、和尚
法也なり。高
このとき、無
法の席末を接するのみにあらず、爲無
法の志氣あらはれて衝天するなり。ただ無
法を體達するのみにあらず、
法の聞不聞を體究せり。すすみて有
法の
不
、已
今
當
にも體達せしなり。さらに聞不聞の
法の、これは有
なり、これは無
なる道理あきらめをはりぬ。
おほよそ聞法は、ただ耳根耳識の境界のみにあらず、父母未生已前、威音以前、乃至盡未來際、無盡未來際にいたるまでの擧力擧心、擧體擧道をもて聞法するなり。身先心後の聞法あるなり。これらの聞法、ともに得
あり。心識に
ぜざれば聞法の
あらずといふことなかれ。心滅身沒のもの、聞法得
すべし。無心無身のもの、聞法得
すべし。
佛
、かならずかくのごとくの時節を經歴して、作佛し、成
するなり。法力の身心に接する、凡慮いかにしてか覺知しつくさん。身心の際限、みづからあきらめつくすことをえざるなり。聞法功
の、身心の田地に下種する、くつる時節あらず。つひに生長ときとともにして、果成必然なるものなり。
愚人おもはくは、たとひ聞法おこたらずとも、解路に進歩なく、記持に不敢ならんは、その
あるべからず。人天の身心を擧して、博記多聞ならん、これ至要なるべし。
座に忘記し、退席に茫然とあらん、なにの
かあらんとおもひ、なにの學功かあらんといふは、正師にあはず、その人をみざるゆゑなり。正傳の面授あらざるを、正師にあらずとはいふ。佛佛正傳しきたれるは正師なり。愚人のいふ心識に記持せられて、しばらくわすれざるは、聞法の功、いささか心識にも蓋心蓋識する時節なり。
この正當恁麼時は、蓋身蓋身先、蓋心蓋心先、蓋心後、蓋因
報業相性體力、蓋佛蓋
、蓋自他、蓋皮肉骨髓等の功
あり。蓋言
、蓋坐臥等の功
現成して、彌綸彌天なるなり。
まことにかくのごとくある聞法の功
、たやすくしるべきにあらざれども、佛
の大會に會して、皮肉骨髓を參究せん、
法の功力ひかざる時節あらず、聞法の法力かうぶらしめざるところあるべからず。かくのごとくして時節劫波を頓漸ならしめて、結果の現成をみるなり。かの多聞博記も、あながちになげすつべきにあらざれども、その一隅をのみ要機とするにはあらざるなり。參學これをしるべし、高
これを體達せしなり。
曩
道、我
法汝尚不聞、何況無
法也。
これは高
たちまちに證上になほ證契を證しもてゆく現成を、曩
ちなみに開襟して、父
の骨髓を印證するなり。
なんぢなほ我
に不聞なり、これ凡流の然にあらず。無
法たとひ萬端なりとも、爲慮あるべからずと證明するなり。このときの嗣續、まことに秘要なり。凡聖の境界、たやすくおよびうかがふべきにあらず。
高
ときに偈を理して雲巖曩
に呈するにいはく、無
法不思議は、也太奇、也太奇なり。
しかあれば、無
および無
法、ともに思議すべきことかたし。いはくの無
、なにものなりとかせん。凡聖にあらず、
無
にあらずと參學すべし。凡聖、
無
は、
不
、ともに思議の境界およびぬべし。いま不思議にして太奇なり、また太奇ならん凡夫賢聖の智慧心識、およぶべからず。天衆人間の籌量にかかはるにあらざるべし。
若將耳聽終難會は、たとひ天耳なりとも、たとひ彌界彌時の法耳なりとも、將耳聽を擬するには、終難會なり。壁上耳、棒頭耳ありとも、無
法を會すべからず。聲塵にあらざるがゆゑに。若將耳聽はなきにあらず、百千劫の功夫をつひやすとも、終難會なり。すでに聲色のほかの一道の威儀なり、凡聖のほとりの
窟にあらず。
眼處聞聲方得知。
この道取を、箇箇おもはくは、いま人眼の所見する草木花鳥の往來を、眼處の聞聲といふならんとおもふ。この見處は、さらにあやまりぬ。またく佛法にあらず。佛法はかくのごとくいふ道理なし。
高
道の眼處聞聲の參學するには、聞無
法聲のところ、これ眼處なり。現無
法聲のところ、これ眼處なり。眼處さらにひろく參究すべし。眼處の聞聲は耳處の聞聲にひとしかるべきがゆゑに、眼處の聞聲は耳處の聞聲にひとしからざるなり。眼處に耳根ありと參學すべからず。眼
耳と參學すべからず。眼裏聲現と參學すべからず。
古云、盡十方界是沙門一隻眼。
この眼處に聞聲せば、高
道の眼處聞聲ならんと擬議商量すべからず。たとひ古人道の盡十方界一隻眼の道を學すとも、盡十方はこれ壹隻眼なり。さらに千手頭眼あり、千正法眼あり。千耳眼あり、千舌頭眼あり。千心頭眼あり。千通心眼あり、千通身眼あり。千棒頭眼あり、千身先眼あり、千心先眼あり。千死中死眼あり、千活中活眼あり。千自眼あり、千他眼あり。千眼頭眼あり、千參學眼あり。千豎眼あり、千横眼あり。
しかあれば、盡眼を盡界と學すとも、なほ眼處に體究あらず。ただ聞無
法を眼處に參究せんことを急務すべし。いま高
道の宗旨は、耳處は無
法に難會なり。眼處は聞聲す。さらに通身處の聞聲あり、遍身處の聞聲あり。たとひ眼處聞聲を體究せずとも、無
法、無
得聞を體達すべし、
落すべし。この道理つたはれるゆゑに、
先師天童古佛道、胡蘆藤種纏胡蘆。
これ曩
の正眼のつたはれ、骨髓のつたはれる
法無
なり。一切
法無
なる道理によりて無
法なり、いはゆる典故なり。無
は爲無
法なり、喚什麼作無
。しるべし、聽無
法者是なり。喚什麼作
法。しるべし、不知吾無
者是なり。
舒州投子山慈濟大師[嗣翠微無學禪師、諱大同。明覺云、投子古佛](舒州投子山慈濟大師[翠微無學禪師に嗣す、諱は大同。明覺云く、投子古佛])、因
問、如何是無
法(如何にあらんか是れ無
法)。
師曰、莫惡口(惡口すること莫れ)。
いまこの投子の道取するところ、まさしくこれ古佛の法謨なり、
宗の治象なり。無
法ならびに
法無
等、おほよそ莫惡口なり。しるべし、無
法は、佛
の總章これなり。臨濟
山のともがらしるべからず、ひとり佛
なるのみ參究す。
正法眼藏無
法第四十六
爾時
元元年癸卯十月二日在越州吉田縣吉峰古寺示衆
同癸卯十月十五日書寫之 懷弉