第四十三 法實相

の現成は究盡の實相なり。實相は法なり。法は如是相なり、如是性なり。如是身なり、如是心なり。如是世界なり、如是雲雨なり。如是行住坐臥なり、如是憂喜動靜なり。如是杖拂子なり、如是拈花破顔なり。如是嗣法授記なり。如是參學辨道なり。如是松操竹節なり。
牟尼佛言、唯佛與佛、乃能究盡、法實相。所謂法、如是相、如是性、如是體、如是力、如是作、如是因、如是、如是果、如是報、如是本末究竟等。
いはゆる如來道の本末究竟等は、法實相の自道取なり。闍梨自道取なり。一等の參學なり、參學は一等なるがゆゑに、唯佛與佛は法實相なり。法實相は唯佛與佛なり。唯佛は實相なり、與佛は法なり。法の道を聞取して、一と參じ、多と參ずべからず。實相の道を聞取して、にあらずと學し、性にあらずと學すべからず。實は唯佛なり、相は與佛なり。乃能は唯佛なり、究盡は與佛なり。法は唯佛なり、實相は與佛なり。法のまさに法なるを唯佛と稱ず。法のいまし實相なるを與佛と稱ず。
しかあれば、法のみづから法なる、如是相あり、如是性あり。實相のまさしく實相なる、如是相あり、如是性あり。唯佛與佛と出現於世するは、法實相の取なり、行取なり、證取なり。その取は、乃能究盡なり。究盡なりといへども、乃能なるべし。初中後にあらざるゆゑに、如是相なり、如是性なり。このゆゑに初中後善といふ。
乃能究盡といふは法實相なり。法實相は如是相なり。如是相は乃能究盡如是性なり。如是性は乃能究盡如是體なり。如是體は乃能究盡如是力なり。如是力は乃能究盡如是作なり。如是作は乃能究盡如是因なり。如是因は乃能究盡如是なり。如是は乃能究盡如是果なり。如是果は乃能究盡如是報なり。如是報は乃能究盡本末究竟等なり。
本末究竟等の道取、まさに現成の如是なり。かるがゆゑに、果果の果は因果の果にあらず。このゆゑに、因果の果はすなはち果果の果なるべし。この果すなはち相性體力をあひ礙するがゆゑに、法の相性體力等、いく無量無邊も實相なり。この果すなはち相性體力を礙せざるがゆゑに、法の相性體力等、ともに實相なり。この相性體力等を、果報因等のあひ礙するに一任するとき、八九成の道あり。この相性體力等を、果報因等のあひ礙せざるに一任するとき、十成の道あり。
いはゆるの如是相は一相にあらず。如是相は一如是にあらず。無量無邊、不可道不可測の如是なり。百千の量を量とすべからず、法の量を量とすべし、實相の量を量とすべし。そのゆゑは、唯佛與佛乃能究盡法實相なり、唯佛與佛乃能究盡法實性なり、唯佛與佛乃能究盡法實體なり、唯佛與佛乃能究盡法實力なり、唯佛與佛乃能究盡法實作なり、唯佛與佛乃能究盡法實因なり、唯佛與佛乃能究盡法實なり、唯佛與佛乃能究盡法實果なり、唯佛與佛乃能究盡法實報なり、唯佛與佛乃能究盡法實本末究竟等なり。
かくのごとくの道理あるがゆゑに、十方佛土は唯佛與佛のみなり、さらに一箇半箇の唯佛與佛にあらざるなし。唯と與とは、たとへば體に體を具し、相の相を證せるなり。また性を體として性を存せるがごとし。このゆゑにいはく、
我及十方佛、乃能知是事。
しかあれば、乃能究盡の正當恁麼時と、乃能知是の正當恁麼時と、おなじくこれ面面の有時なり。我もし十方佛に同異せば、いかでか及十方佛の道取を現成せしめん。這頭に十方なきがゆゑに、十方は這頭なり。ここをもて、實相の法に相見すといふは、春は花にいり、人ははるにあふ。月はつきをてらし、人はおのれにあふ。あるいは人の水をみる、おなじくこれ相見底の道理なり。
このゆゑに、實相の實相に參學するを佛の佛に嗣法するとす。これ法の法に授記するなり。唯佛の唯佛のために傳法し、與佛の與佛のために嗣法するなり。
このゆゑに生死去來あり。このゆゑに發心修行菩提涅槃あり。發心修行菩提涅槃を擧して、生死去來眞實人體を參究し接取するに、把定し放行す。これを命脈として花開結果す。これを骨髓として葉阿難あり。
風雨水火の如是相すなはち究盡なり。黄赤白の如是性すなはち究盡なり。この體力によりて轉凡入聖す、この果報によりて超佛越す。この因によりて、握土成金あり、この果報によりて傳法附衣あり。

如來道、爲實相印。
いはゆるをいふべし、爲行實相印。爲聽實性印。爲證實體印。かくのごとく參究し、かくのごとく究盡すべきなり。その宗旨、たとへば珠の盤をはしるがごとく、盤の珠をはしるがごとし。

日月燈明佛言、法實相義、已爲汝等(已に汝等が爲にけり)。
この道取を參學して、佛はかならず實相義を一大事とせりと參究すべし。佛は十八界ともに實相義を開す。身心先、身心後、正當身心時、實相性體力等なり。實相を究盡せず、實相をとかず、實相を會せず、實相を不會せざらんは、佛にあらざるなり。魔黨畜生なり。

牟尼佛道、一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆屬此經。此經開方便門、示眞實相(一切菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆此の經に屬す。此の經は方便門を開き、眞實相を示す)。
いはゆる一切菩薩は一切佛なり。佛と菩薩と異類にあらず。老少なし、勝劣なし。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自他にあらず。過現當來箇にあらざれども、作佛は行菩薩道の法儀なり。初發心に成佛し、妙覺地に成佛す。無量百千萬億度作佛せる菩薩あり。作佛よりのちは、行を癈してさらに所作あるべからずといふは、いまだ佛の道をしらざる凡夫なり。
いはゆる一切菩薩は一切菩薩の本なり。一切佛は一切菩薩の本師なり。この佛の無上菩提、たとひ過去に修證するも、現在に修證するも、未來に修證するも、身先に修證するも、心後に修證するも、初中後ともにこの經なり。能屬所屬、おなじくこの經なり。この正當恁麼時、これ此經の一切菩薩を證するなり。
經は有にあらず、經は無にあらず。經は有爲にあらず、經は無爲にあらず。しかあれども、菩提を證し、人を證し、實相を證し、此經を證するとき、開方便門するなり。方便門は佛果の無上功なり。法住法位なり、世相常住なり。方便門は暫時の伎倆にあらず、盡十方界の參學なり。法實相を拈じ參學するなり。この方便門あらはれて、盡十方界に蓋十方界すといへども、一切菩薩にあらざればその境界にあらず。
雪峰いはく、盡大地是解門、曳人不肯入(盡大地は是れ解門なり、人を曳けども肯て入らず)。
しかあればしるべし、盡地盡界たとひ門なりとも、出入たやすかるべきにあらず。出入箇のおほきにあらず。曳入するにいらず、いでず。不曳にいらず、いでず。進歩のもの、あやまりぬべし。退歩のもの、とどこほりぬべし。又且いかん。人を擧して門に出入せしむれば、いよいよ門ととほざかる。門を擧して人にいるるには、出入の分あり。
開方便門といふは、示眞實相なり。示眞實相は蓋時にして、初中後際斷なり。その開方便門の正當開の道理は、盡十方界に開方便門するなり。この正當時、まさしく盡十方界を見すれば、未曾見の樣子あり。いはゆる盡十方界を一枚二枚、三箇四箇拈來して、開方便門ならしむるなり。これによりて、一等に開方便門とみゆといへども、如許多の盡十方界は、開方便門の少許を得分して、現成の面目とせりとみゆるなり。かくのごとくの風流、しかしながら屬經のちからなり。
示眞實相といふは、法實相の言句を盡界に風聞するなり、盡界に成道するなり。實相法の道理を盡人に領覽せしむるなり、盡法に現出せしむるなり。
しかあればすなはち、四十佛四十の無上菩提、みな此經に屬せり。屬此經なり、此經屬なり。蒲團禪板の阿耨菩提なる、みな此に屬せり。拈花破顔、禮拜得髓、ともに皆屬此經なり、此經之屬なり。開方便門、示眞實相なり。

しかあるを、近來大宋國杜撰のともがら、落處をしらず、寶所をみず。實相の言をのごとくし、さらに老子莊子の言句を擧す。これをもて、佛の大道に一齊なりといふ。また三は一致なるべしといふ。あるいは三は鼎の三脚のごとし、ひとつもなければくつがへるべしといふ。愚癡のはなはだしき、たとへをとるに物あらず。
かくのごときのことばあるともがらも佛法をきけりと、ゆるすべからず。ゆゑいかんとなれば、佛法は西天を本とせり。在世八十年、法五十年、さかりに人天を化す。化一切衆生、皆令入佛道なり。それよりこのかた、二十八正傳せり。これをさかりなるとし、微妙最尊なるとせり。もろもろの外道天魔、ことごとく降伏せられをはりぬ。成佛作佛する人天、かずをしらず。しかあれども、いまだ儒を震旦國にとぶらはざれば、佛道の不足といはず。もし決定して三一致ならば、佛法出現せんとき、西天に儒宗道等も同時に出現すべし。しかあれども、佛法は天上天下唯我獨尊なり。かのときの事、おもひやるべし、わすれあやまるべからず。三一致のことば、小兒子の言音におよばず、壞佛法のともがらなり。かくのごとくのともがらのみおほきなり。あるいは人天の導師なるよしを現じ、あるいは帝王の師匠となれり。大宋佛法衰薄の時節なり。先師古佛、ふかくこのことをいましめき。
かくのごときのともがら、二乘外道の種子なり。しかのごときの種類は、實相のあるべしとだにもしらずして、すでに二三百年をへたり。佛の正法を參學しては、流轉生死を出離すべしとのみいふ。あるいは佛の正法を參學するは、いかなるべし、ともしらざるおほし。ただ住院の稽古と思へり。あはれむべし、師道癈せることを。有道の尊宿、おほきになげくところなり。しかのごときのともがら所出の言句、きくべからず、あはれむべし。

圜悟禪師いはく、生死去來、眞實人體。
この道取を拈擧して、みづからをしり佛法を商量すべし。
長沙いはく、盡十方界、眞實人體。盡十方界、自己光明裏。
かくのごとくの道取、いまの大宋國の方長老等、およそ參學すべき道理となほしらず、いはんや參學せんや。もし擧しきたりしかば、ただ赤面無言するのみなり。

先師古佛いはく、いま方長老は、照古なし、照今なし。佛法道理不曾有なり。盡十方界等恁麼擧、那得知。他那裏也未曾聽相似。
これをききてのち、方長老に問著するに、眞箇聽來せるすくなし。あはれむべし、にして職をけがせることを。

應庵曇華禪師、ちなみに徽大にしめしていはく、若要易會、祗向十二時中起心動念處、但此動念、直下頓豁了不可得如大空、亦無空形段、表裏一如智境雙泯、玄解倶亡、三際平等。到此田地、謂之絶學無爲閑道人也(若し會し易からんことを要せば、十二時中の起心動念の處に祗向して、但だこの動念にして、直下頓に不可得なること大空の如く、亦空に形段無きことを豁了せば、表裏一如にして智境雙泯、玄解倶に亡じ、三際平等ならん。この田地に到る、之を絶學無爲の閑道人と謂ふ)。
これは應庵老人盡力道得底句なり。これただ影をおうて休歇をしらざるがごとし。表裏一如ならんときは、佛法あるべからざるか。なにかこれ表裏。また空有形段を佛の道取とす。なにをか空とする。おもひやるに、應庵いまだ空をしらざるなり、空をみざるなり。空をとらざるなり、空をうたざるなり。
起心動念といふ、心はいまだ動ぜざる道理あり。いかでか十二時中に起心あらん。十二時中には、心きたりいるべからず。十二心中に十二時きたらず、いはんや起心あらんや。動念とはいかん。念は動不動するか、動不動せざるか。作麼生なるか動、また作麼生なるか不動。なにをよんでか念とする。念は十二時中にあるか、念裏に十二時あるか、兩頭にあらざらんときあるべきか。
十二時中に祗向せば易會ならんといふ、なにごとを易會すべきぞ。易會といふ、もし佛の道をいふか。しかあらば、佛道は易會難會にあらざるゆゑに、南嶽江西ひさしく師にしたがひて辨道するなり。
頓豁了不可得といふ、佛道未夢見なり。恁麼の力量、いかでか要易會の所堪ならん。はかりしりぬ、佛の大道をいまだ參究しきたらずといふことを。佛法もしかくのごとくならば、いかでか今日にいたらん。
應庵なほかくのごとし。いま現在せる山の長老のなかに、應庵のごとくなるものをもとめんに、歴劫にもあふべからず。まなこはうげなんとすとも、應庵とひとしき長老をばみるべからざるなり。ちかくの人はおほく應庵をゆるす。しかあれども、應庵に佛法およべりとゆるしがたし。ただ叢席の晩進なり、尋常なりといふべし。ゆゑはいかん。應庵は人しりぬべき氣力あるゆゑなり。いまあるともがらは人をしるべからず、みづからをしらざるゆゑに。應庵は未達なりといへども學道あり、いまの長老等は學道あらず。應庵はよきことばをきくといへども、みみにいらず、みみにみず。まなこにいらず、まなこにきかざるのみなり。應庵そのかみは恁麼なりとも、いまは自悟在なるらん。
いまの大宋山の長老等は、應庵の内外をうかがはず、音容すべて境界にあらざるなり。しかのごとくのともがら、佛の道取せる實相は、佛の道なり、佛の道にあらずともしるべからず。このゆゑに、二三百年來の長老杜撰のともがら、すべて不見道來實相なり。

先師天童古佛、ある夜間に方丈にして普するにいはく、
天童今夜有牛兒、
黄面瞿曇拈實相。
要買那堪無定價、
一聲杜宇孤雲上。
(天童今夜牛兒有り、黄面の瞿曇實相を拈ず。買はんと要するに那ぞ定價無かるべき、一聲の杜宇孤雲の上。)
かくのごとくあれば、尊宿の佛道に長ぜるは實相をいふ。佛法をしらず、佛道の參學なきは實相をいはざるなり。
この道取は、大宋寶慶二年丙戌春三月のころ、夜間やや四更になりなんとするに、上方に鼓聲三下きこゆ。坐具をとり、搭袈裟して、雲堂の前門よりいづれば、入室牌かかれり。まづ衆にしたがうて法堂上にいたる。法堂の西壁をへて、寂光堂の西階をのぼる。寂光堂の西壁のまへをすぎて、大光明藏の西階をのぼる。大光明藏は方丈なり。西屏風のみなみより、香臺のほとりにいたりて燒香禮拜す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一もみえず。妙高臺は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。ときに西川の坤維那、きたりておなじく燒香禮拜しをはりて、妙高臺をひそかにのぞめば、滿衆たちかさなり、東邊西邊をいはず。ときに普あり、ひそかに衆のうしろにいりたちて聽取す。
大梅の法常禪師住山の因擧せらる。衣荷食松のところに、衆家おほくなみだをながす。靈山釋牟尼佛の安居の因、くはしく擧せらる。きくものなみだをながすおほし。
天童山安居ちかきにあり、如今春間、不寒不熱、好坐禪時節也。兄弟如何不坐禪(如今春間、不寒不熱、好坐禪の時節なり。兄弟如何ぞ坐禪せざる)。
かくのごとく普して、いまの頌あり。頌をはりて、右手にて禪椅のみぎのほとりをうつこと一下していはく、入室すべし。
入室話にいはく、杜鵑啼、山竹裂。
かくのごとく入室語あり、別の話なし。衆家おほしといへども下語せず、ただ惶恐せるのみなり。
この入室の儀は、方にいまだあらず。ただ先師天童古佛のみこの儀を儀せり。普の時節は、椅子屏風を周匝して、大衆雲立せり。そのままにて、雲立しながら、便宜の家より入室すれば、入室をはりぬる人は、例のごとく方丈門をいでぬ。のこれる人は、ただもとのごとくたてれば、入室する人の威儀進止、ならびに堂頭和尚の容儀、および入室話、ともにみな見聞するなり。この儀いまだ他那裏の方にあらず。他長老は儀不得なるべし。他時の入室には、人よりはさきに入室せんとす。この入室には、人よりものちに入室せんとす。この人心道別、わすれざるべし。
それよりこのかた、日本元元年癸卯にいたるに、始終一十八年、すみやかに風光のなかにすぎぬ。天童よりこのやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の實相なる、身心骨髓に銘じきたれり。かのときの普入室は、衆家おほくわすれがたしとおもえり。この夜は、微月わづかに樓閣よりもりきたり、杜鵑しきりになくといへども、靜間の夜なりき。

玄沙院宗一大師、參次聞燕根聲云(參次に燕子の聲を聞くに云く)、深談實相、善法要。下座。
尋後有曰(尋いで後に、有りして曰く)、某甲不會。
師云、去、無人信汝(去れ、人の汝を信ずること無し)。
いはゆる深談實相といふは、燕子ひとり實相を深談すると、玄沙の道ききぬべし。しかあれども、しかにはあらざるなり。參次に聞燕子聲あり。燕子の實相を深談するにあらず、玄沙の實相を深談するにあらず。兩頭にわたらざれども、正當恁麼、すなはち深談實相なり。
しばらくこの一段の因を參究すべし。參次あり、聞燕子聲あり、深談實相、善法要の道取あり、下座あり。尋後有曰、某甲不會あり。師云、去、無人信汝あり。
某甲不會、かならずしも實相なるべからざれども、これ佛の命脈なり、正法眼藏の骨髓なり。
しるべし、このたとひして某甲會得と道取すとも、某甲得と道取すとも、玄沙はかならず去、無人信汝と爲道すべきなり。會せるを不會とするゆゑに、去、無人信汝といふのにはあらざるなり。まことに、このにあらざらん張三李四なりとも、法實相なりとも、佛の命脈の正直に通ずる時處には、實相の參學、かくのごとく現成するなり。原の會下に、これすでに現成せり。
しるべし、實相は嫡嫡相承の正脈なり。法は究盡參究の唯佛與佛なり、唯佛與佛は如是相好なり。

正法眼藏第四十三

爾時元元年癸卯九月日在于日本越州吉峰寺示衆