第四十一 三界唯心

大師道、
三界唯一心、心外無別法。
心佛及衆生、是三無差別。
一句の道著は一代の擧力なり、一代の擧力は盡力の全擧なり。たとひ強爲の爲なりとも、云爲の爲なるべし。このゆゑに、いま如來道の三界唯心は、全如來の全現成なり。全一代は全一句なり、三界は全界なり。三界はすなはち心といふにあらず。そのゆゑは、三界はいく玲瓏八面も、なほ三界なり。三界にあらざらんと誤著すといふとも、不著なり。内外中間、初中後際、みな三界なり。三界は三界の所見のごとし。三界にあらざるものの所見は、三界を見不正なり。三界には三界の所見を舊とし、三界の所見を新條とす。舊也三界見、新條也三界見なり。このゆゑに、

大師道、不如三界、見於三界。
この所見、すなはち三界なり、この三界は所見のごとくなり。三界は本有にあらず、三界は今有にあらず。三界は新成にあらず、三界は因生にあらず。三界は初中後にあらず。出離三界あり、今此三界あり。これ機關の機關と相見するなり、葛藤の葛藤を生長するなり。今此三界は、三界の所見なり。いはゆる所見は、見於三界なり。見於三界は、見成三界なり、三界見成なり、見成公案なり。よく三界をして發心修行菩提涅槃ならしむ。これすなはち皆是我有なり。このゆゑに、

大師道、今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子。
いまこの三界は、如來の我有なるがゆゑに、盡界みな三界なり。三界は盡界なるがゆゑに、今此は過現當來なり。過現當來の現成は、今此を礙せざるなり。今此の現成は、過現當來を礙するなり。
我有は、盡十方界眞實人體なり、盡十方界沙門一隻眼なり。衆生は盡十方界眞實體なり。一一衆生の生衆なるゆゑに衆生なり。
悉是吾子は、子也全機現の道理なり。しかあれども、吾子ならず身體髪膚を慈父にうけて、毀破せず、虧闕せざるを、子現成とす。而今は父前子後にあらず、子先父後にあらず。父子あひならべるにあらざるを吾子の道理といふなり。與授にあらざれどもこれをうく、奪取にあらざれどもこれをえたり。去來の相にあらず、大小の量にあらず、老少の論にあらず、老少を佛老少のごとく保任すべし。父少子老あり、父老子少あり。父老子老あり、父少子少あり。ちちの老を學するは子にあらず、子の少をへざらんはちちにあらざらん。子の老少と、父の老少と、かならず審細に功夫參究すべし、倉卒なるべからず。父子同時に生現する父子あり、父子同時に現滅する父子あり。父子不同時に現生する父子あり、父子不同時に現滅する父子あり。慈父を礙せざれども吾子と現成せり、吾子を礙せずして慈父現成せり。有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。かくのごとく、吾子、子吾、ことごとく釋慈父の令嗣なり。十方盡界にあらゆる過現當來の衆生は、十方盡界の過現當の佛なり。佛の吾子は衆生なり、衆生の慈父は佛なり。しかあればすなはち、百草の花果は佛の我有なり、巖石の大小は佛の我有なり。安處は林野なり、林野は已離なり。
しかもかくのごとくなりといふとも、如來道の宗旨は吾子の道のみなり、其父の道いまだあらざるなり、參究すべし。

牟尼佛道、佛應化法身、亦不出三界。三界外無衆生、佛何所化。是故我言、三界外別有一衆生界藏者、外道大有經中、非七佛之所佛應化の法身も、また三界を出でず。三界の外に衆生無し、佛何の化する所かあらん。是の故に我れ言ふ、三界の外に別に一衆生界藏有りといふは、外道大有經中のなり、七佛の所に非ずと)。
あきらかに參究すべし、佛應化法身は、みなこれ三界なり、無外なり。たとへば如來の無外なるがごとし、牆壁の無外なるがごとし。三界の無外なるがごとく、衆生無外なり。無衆生のところ、佛何所化なり。佛所化はかならず衆生なり。
しるべし、三界外に一衆生界藏を有せしむるは、外道大有經なり、七佛經にあらざるなり。唯心は一二にあらず、三界にあらず。出三界にあらず、無有錯謬なり。有慮知念覺なり、無慮知念覺なり。牆壁瓦礫なり、山河大地なり。心これ皮肉骨髓なり、心これ拈花破顔なり。有心あり、無心あり。有身の心あり、無身の心あり。身先の心あり、身後の心あり。身を生ずるに胎卵濕化の種品あり、心を生ずるに胎卵濕化の種品あり。黄赤白これ心なり、長短方圓これ心なり。生死去來これ心なり、年月日時これ心なり。夢幻空花これ心なり、水沫泡焔これ心なり。春花秋月これ心なり、造次顛沛これ心なり。しかあれども毀破すべからず、かるがゆゑに法實相心なり、唯佛與佛心なり。

玄沙院宗一大師、問地藏院眞應大師云(玄沙院宗一大師、地藏院眞應大師に問うて云く)、三界唯心、汝作麼生會。
眞應指椅子曰、和尚喚遮箇作什麼(眞應、椅子を指して曰く、和尚遮箇を喚んで什麼とか作す)。
大師云、椅子。
眞應曰、和尚不會三界唯心(和尚三界唯心を會せず)。
大師云、我喚遮箇作竹木、汝喚作什麼(我れ遮箇を喚んで竹木と作す、汝喚んで什麼とか作す)。
眞應曰、桂亦喚作竹木(桂も亦た喚んで竹木と作す)。
大師云、盡大地覓一箇會佛法人不可得(盡大地一箇の會佛法人を覓むるに不可得なり)。
いま大師の問取する三界唯心、汝作麼生會は、作麼生會、未作麼生會、おなじく三界唯心なり。このゆゑに未三界唯心なるべし。
眞應このゆゑに椅子をさしていはく、和尚喚遮箇作什麼。しるべし、汝作麼生會は、喚遮箇作什麼なり。
大師道の椅子は、且道すべし、これ會三界語なりや、不會三界語なりや。三界語なりや、非三界語なりや。椅子道なりや、大師道なりや。かくのごとく試道看の道究すべし。試會看の會取あり、試參看の參究あるべし。
眞應いはく、和尚不會三界唯心。
この道、たとへば道趙州するなかの東門南門なりといへども、さらに西門北門あるべし。さらに東趙州南趙州あり。たとひ會三界唯心ありとも、さらに不會三界唯心を參究すべきなり。さらにまた會不會にあらざる三界唯心あり。
大師道、我喚遮箇作竹木。
この道取、かならず聲前句後に光前絶後の節目を參徹すべし。いはゆる我喚遮箇作竹木、いまの喚作よりさきは、いかなる喚作なりとかせん。從來の八面玲瓏に、初中後ともに竹木なりとやせん。いまの喚作竹木は、道三界唯心なりとやせん、不道三界唯心なりとやせん。しるべし、あしたに三界唯心を道取するには、たとひ椅子なりとも、たとひ唯心なりとも、たとひ三界なりとも、ゆふべに三界唯心を道取するには、我喚遮箇作竹木と道取せらるるなり。
眞應道の桂亦喚作竹木、しるべし、師資の對面道なりといふとも、同參の頭正尾正なるべし。しかありといへども、大師道の喚遮箇作竹木と、眞應道の亦喚作竹木と、同なりや不同なりや、是なりや不是なりやと參究すべきなり。
大師云、盡大地覓一箇會佛法人不可得。
この道取をも審細に辨肯すべし。
しるべし、大師もただ喚作竹木なり、眞應もただ喚作竹木なり。さらにいまだ三界唯心を會取せず、三界唯心を不會取せず。三界唯心を道取せず、三界唯心を不道取せず。
しかもかくのごとくなりといへども、宗一大師に問著すべし、覓一箇會佛法人不可得はたとひ道著すとも、試道看、なにを喚作してか盡大地とする。
おほよそ恁麼參究功夫すべきなり。

爾時元元年癸卯閏七月初一日在越宇禪師峰頭示衆
同年月廿五日書寫于院主坊 懷弉

正法眼藏三界唯心第四十一