第二十八 禮拜得髓

修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうることもともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。古今人にあらず、野狐にして善知識ならん。これ得髓の面目なり、導利なるべし。不昧因果なり、我渠なるべし。
すでに導師に相逢せんよりこのかたは、萬をなげすてて、寸陰をすごさず進辨道すべし。有心にても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。
しかあるを、頭燃をはらひ、翹足を學すべし。かくのごとくすれば、謗の魔黨にをかされず、斷臂得髓の、さらに他にあらず、落身心の師、すでに自なりき。
髓をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。誠心ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。その法をおもくする志氣、ひとつにあらず。他の訓をまたずといへども、しばらく一二を擧拈すべし。
いはく、法をおもくするは、たとひ露柱なりとも、たとひ燈籠なりとも、たとひ佛なりとも、たとひ野干なりとも、鬼なりとも、男女なりとも、大法を保任し、吾髓を汝得せるあらば、身心を牀座にして、無量劫にも奉事するなり。身心はうることやすし、世界に稻竹葦のごとし、法はあふことまれなり。
牟尼佛のいはく、無上菩提を演する師にあはんには、種姓を觀ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆゑに、日日に百千兩の金を食せしむべし、天食をおくりて供養すべし、天花を散じて供養すべし。日日三時、禮拜し恭敬して、さらに患惱の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ發心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。
しかあれば、若樹若石もとかましとねがひ、若田若里もとかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても參究すべし。むかし、野干を師として禮拜問法する天帝釋あり、大菩薩の稱つたはれり、依業の尊卑によらず。
しかあるに、不聞佛法の愚癡のたぐひおもはくは、われは大比丘なり、年少の得法を拜すべからず、われは久修練行なり、得法の晩學を拜すべからず、われは師號に署せり、師號なきを拜すべからず、われは法務司なり、得法の餘を拜すべからず、われは正司なり、得法の俗男俗女を拜すべからず、われは三賢十聖なり、得法せりとも、比丘尼等を禮拜すべからず、われは帝胤なり、得法なりとも、臣家相門を拜すべからずといふ。かくのごとくの癡人、いたづらに父國をはなれて他國の道路にするによりて、佛道を見聞せざるなり。

むかし、唐朝趙州眞際大師、こころをおこして發足行脚せしちなみにいふ、たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われ、かれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われ、かれををしふべし。
七歳に問法せんとき、老漢禮拜すべきなり。奇夷の志氣なり、古佛の心なり。得道得法の比丘尼出世せるとき、求法參學の比丘、その會に投じて禮拜問法するは、參學勝躅なり。たとへば、渇に飮にあふがごとくなるべし。

震旦國の志閑禪師は臨濟下の尊宿なり。臨濟ちなみに師のきたるをみて、とりとどむるに、師いはく、領也。
臨濟はなちていはく、旦放一頓。
これより臨濟の子となれり。
臨濟をはなれて末山にいたるに、末山とふ、近離甚處。
師いはく、路口。
末山いはく、なんぢなんぞ蓋却しきたらざる。
師無語。すなはち禮拜して師資の禮をまうく。
師、かへりて末山にとふ、いかならんかこれ末山。
末山いはく、不露頂。
師いはく、いかならんかこれ山中人。
末山いはく、非男女等相。
師いはく、なんぢなんぞ變ぜざる。
末山いはく、これ野狐にあらず、なにをか變ぜん。
師、禮拜す。
つひに發心して園頭をつとむること始終三年なり。のちに出世せりし時、衆にしめしていはく、われ臨濟爺爺のところにして半杓を得しき、末山孃孃のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて喫しおはりて、直至如今餉餉なり。
いまこの道をききて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の足なり、命脈ちからありて志閑の孃となる。臨濟は黄檗運師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。爺とはちちといふなり、孃とは母といふなり。志閑禪師の末山尼了然を禮拜求法する、志氣の勝躅なり、晩學の慣節なり。撃關破節といふべし。

妙信尼は仰山の弟子なり。仰山ときに廨院主を選するに、仰山、あまねく勤舊前資等にとふ、たれ人かその仁なる。
問答往來するに、仰山つひにいはく、信淮子これ女流なりといへども大丈夫の志氣あり。まさに廨院主とするにたへたり。
衆みな應諾す。
妙信つひに廨院主に充す。ときに仰山の會下にある龍象うらみず。まことに非細の職にあらざれども、選にあたらん自己としては自愛しつべし。
充職して廨院にあるとき、蜀十七人ありて、儻をむすびて尋師訪道するに、仰山にのぼらんとして薄暮に廨院に宿す。歇息する夜話に、曹谿高の風幡話を擧す。十七人おのおのいふこと、みな道不是なり。ときに廨院主、かべのほかにありてききていはく、十七頭瞎驢、をしむべし、いくばくの草鞋をかつひやす。佛法也未夢見在。
ときに行者ありて、廨院主のを不肯するをききて十七にかたるに、十七ともに廨院主の不肯するをうらみず。おのれが道不得をはぢて、すなはち威儀を具し、燒香禮拜して問す。
廨院主いはく、近前來。
十七、近前するあゆみいまだやまざるに、廨院主いはく、不是風動、不是幡動、不是心動。
かくのごとく爲道するに、十七ともに有省なり。禮謝して師資の儀をなす。すみやかに西蜀にかへる。つひに仰山にのぼらず。まことにこれ三賢十聖のおよぶところにあらず、佛嫡嫡の道業なり。

しかあれば、いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんをすべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なにの要かあらん。爲衆の主人、かならず明眼によるべし。
しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや佛法には、いふにたらず。又女人および姉姑等の、傳法の師を拜不肯ならんと擬するもありぬべし。これはしることなく、學せざるゆゑに、畜生にはちかく、佛にはとほきなり。
一向に佛法に身心を投ぜんことを、ふかくたくはふるこころとせるは、佛法かならず人をあはれむことあるなり。おろかなる人天、なほまことを感ずるおもひあり。佛の正法、いかでかまことに感應するあはれみなからん。土石沙礫にも誠感の至はあるなり。

見在大宋國の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の聲あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、寺にて上堂す。住持以下衆、みな上參して立地聽法するに、問話も比丘なり、これ古來の規矩なり。
得法せらんはすなはち一箇の眞箇なる古佛にてあれば、むかしのたれにて相見すべからず。かれわれをみるに、新條の特地に相接す。われかれをみるに、今日須入今日の相待なるべし。たとへば、正法眼藏を傳持せらん比丘尼は、四果支佛および三賢十聖もきたりて禮拜問法せんに、比丘尼この禮拜をうくべし。男兒なにをもてか貴ならん。空は空なり、四大は四大なり、五蘊は五蘊なり。女流も又かくのごとし、得道はいづれも得道す。ただし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ佛道極妙の法則なり。
又、宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦そなはれるもあり、又孤獨潔白なるもあり。なほ塵勞稠林といひぬべし。しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂あつまりて禮拜すること、出家の宗匠におなじ。たとひ女人なりとも、畜生なりとも、又しかあるべし。
佛法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまふべからず。ただ賓主の禮のみなり。佛法を修行し、佛法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成佛のごとし。供養恭敬せんこと、佛如來にひとしかるべし。これすなはち佛道の古儀なり。しらず、單傳せざらんは、あはれむべし。

延應庚子明日記觀音導利興聖寶林寺

又、和漢の古今に、帝位にして女人あり。その國土、みなこの帝王の所領なり、人みなひの臣となる。これは、人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼も又その人をうやまふことは、むかしよりなし。ひとへに得法をうやまふなり。
又、阿羅漢となれる比丘尼あるには、四果にしたがふ功みなきたる。功なほしたがふ、人天たれか四果の功よりもすぐれん。三界の天みなおよぶところにあらず、しかしながらすつるものとなる。天みなうやまふところなり。況や如來の正法を傳來し、菩薩の大心をおこさん、たれのうやまはざるかあらん。これをうやまはざらんは、おのれがをかしなり。おのれが無上菩提をうやまはざれば、謗法の愚癡なり。
又わが國には、帝者のむすめ或は大臣のむすめの、后宮に準ずるあり、又皇后の院號せるあり。これら、かみをそれるあり、かみをそらざるあり。しかあるに、貪名愛利の比丘に似たる侶、この家門にわしるに、かうべをはきものにうたずと云ことなし。なほ主徒よりも劣なり、況やまた奴僕となりてとしをふるもおほし。あはれなるかな、小國邊地にうまれぬるに、如是の邪風ともしらざることは。天竺唐土にはいまだなし、我國にのみあり。悲しむべし、あながちに鬢髪をそりて如來の正法をやぶる、深重の罪業と云べし。これひとへに夢幻空花の世途をわするるによりて、女人の奴僕と繋縛せられたること、かなしむべし。いたづらなる世途のため、なほかくの如す。無上菩提のため、なんぞ得法のうやまふべきをうやまはざらん。これは法をおもくするこころざしあさく、法をもとむるこころざしあまねからざるゆゑなり。すでにたからをむさぼるとき、女人のたからにてあればうべからずとおもはず。法をもとめんときは、このこころざしにはすぐるべし。もししかあらば、草木牆壁も正法をほどこし、天地萬法も正法をあたふるなり。かならずしるべき道理なり。眞善知識にあふといへども、いまだこの志氣をたてて法をもとめざるときは、法水のうるほひかうぶらざるなり。審細に功夫すべし。
又、いま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所對の境界にてありとおもふこころをあらためずしてこれをみる。佛子如是あるべからず。婬所對の境となりぬべしとていむことあらば、一切男子も又いむべきか。染汚の因となることは、男も境となる、女も境となる。非男非女も境となる、夢幻空花も境となる。あるいは水影をとして非梵行あることありき、あるいは天日をとして非梵行ありき。も境となる、鬼も境となる。そのかぞへつくすべからず。八萬四千の境界ありと云ふ、これみなすつべきか、みるべからざるか。
律云、男二所、女三所、おなじくこれ波羅夷不共住。
しかあれば、婬所對の境になりぬべしとてきらはば、一切の男子と女人と、たがひにあひきらうて、さらに得度の期あるべからず。この道理、子細に點すべし。
又、外道も妻なきあり。妻なしといへども、佛法に入らざれば邪見の外道なり。佛弟子も、在家の二衆は夫婦あり。夫婦あれども、佛弟子なれば、人中天上にも、肩をひとしくする餘類なし。
又、唐國にも愚癡ありて願志を立するに云く、生生世世ながく女人をみることなからん。この願、なにの法にかよる。世法によるか、佛法によるか、外道の法によるか、天魔の法によるか。女人なにのとがかある、男子なにのかある。惡人は男子も惡人なるあり、善人は女人も善人なるあり。聞法をねがひ出離をもとむること、かならず男子女人によらず。もし未斷惑のときは、男子女人おなじく未斷惑なり。斷惑證理のときは、男子女人、簡別さらにあらず。又ながく女人をみじと願せば、衆生無邊誓願度のときも、女人をばすつべきか。てば菩薩にあらず、佛慈悲と云はんや。ただこれ聲聞の酒にゑふことふかきによりて、醉狂の言語なり。人天これをまことと信ずべからず。
又、むかし犯罪ありしとてきらはば、一切發心の菩薩をもきらふべし。もしのちに犯罪ありぬべしとてきらはば、一切發心の菩薩をもきらふべし。如此きらはば、一切みなすてん。なにによりてか佛法現成せん。如是のことばは、佛法をしらざる癡人の狂言なり。かなしむべし、もしなんぢが願の如くにあらば、釋尊および在世の菩薩、みな犯罪ありけるか、又なんぢよりも菩提心あさかりけるか。しづかに觀察すべし、附法藏の師および佛在世の菩薩この願なくは、佛法にならふべき處やあると參學すべきなり。もし汝が願のごとくにあらば、女人を濟度せざるのみにあらず、得法の女人世にいでて、人天のために法せんときも、來りてきくべからざるか。もし來りてきかずは、菩薩にあらず、すなはち外道なり。

今大宋國をみるに、久修練行に似たる侶の、いたづらに海沙をかぞへて、生死海に流浪せるあり。女人にてあるとも、參尋知識し、辨道功夫して、人天の導師にてあるなり。餠をうらず、餠をすてし老婆等あり。あはれむべし、男子の比丘にてあれども、いたづらに海のいさごをかぞへて、佛法はゆめにもいまだみざることを。
およそ境をみては、あきらむることをならふべし。おぢてにぐるとのみならふは、小乘聲聞の行なり。東をすてて西にかくれんとすれば、西にも境界なきにあらず。たとへにげぬるとおもふとあきらめざるにも、遠にても境なり、近にても境なり。なほこれ解の分にあらず。遠境はいよいよ深かるべし。
又、日本國にひとつのわらひごとあり。いはゆる或は結界の地と稱じ、あるいは大乘の道場と稱じて、比丘尼女人等を來入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、人わきまふることなし。稽古の人あらためず、博達の士もかんがふることなし。或は權者の所爲と稱じ、あるいは古先の遺風と號して、更に論ずることなき、笑はば人の腸も斷じぬべし。權者とはなに者ぞ。賢人か聖人か、か鬼か、十聖か三賢か、等覺か妙覺か。又、ふるきをあらためざるべくは、生死流轉をばすつべからざるか。
いはんや大師釋尊、これ無上正等覺なり。あきらむべきは、ことごとくあきらむ。おこなふべきは、ことごとくこれをおこなふ。解すべきはみな解せり。いまのたれか、ほとりにもおよばん。しかあるに、在世の佛會に、みな比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷等の四衆あり。八部あり、三十七部あり、八萬四千部あり。みなこれ佛界を結せること、あらたなる佛會なり。いづれの會か比丘尼なき、女人なき、八部なき。如來在世の佛會よりもすぐれて淨ならん結界をば、われらねがふべきにあらず、天魔界なるがゆゑに。佛會の法儀は、自界他方、三世千佛、ことなることなし。ことなる法あらんは、佛會にあらずとしるべし。
いはゆる四果は極位なり。大乘にても小乘にても、極位の功は差別せず。然あるに、比丘尼の四果を證するおほし。三界のうちにも十方の佛土にも、いづれの界にかいたらざらん。たれかこの行履をふさぐことあらん。
又、妙覺は無上位なり。女人すでに作佛す、方いづれのものか究盡せられざらん。たれかこれをふさぎて、いたらしめざらんと擬せん。すでに遍照於十方の功あり、界畔いかがせん。
又、天女をもふさぎていたらしめざるか、女もふさぎていたらしめざるか。天女女もいまだ斷惑の類にあらず、なほこれ流轉の衆生なり。犯罪あるときはあり、なきときはなし。人女畜女も、罪あるときはあり、罪なきときはなし。天のみち、のみち、ふさがん人はたれぞ。すでに三世の佛會に參詣す、佛所に參學す。佛所佛會にことならん、たれか佛法と信受せん。ただこれ誑惑世間人の至愚也。野干の、窟穴を人にうばはれざらんとをしむよりもおろかなり。
又、佛弟子の位は、菩薩にもあれ、たとひ聲聞にもあれ、第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷、かくのごとし。この位、天上人間ともにしれり。ひさしくきこえたり。しかあるを、佛弟子第二の位は、轉輪聖王よりもすぐれ、釋提桓因よりもすぐるべし、いたらざる處あるべからず。いはんや小國邊土の國王大臣の位にならぶべきにあらず。いま比丘尼いるべからずと云道場をみるに、田夫野人農夫樵翁みだれ入る。況や國王、大臣、百官、宰相たれか入らざるあらん。田夫等と比丘尼と、學道を論じ、得位を論ぜんに、勝劣つひにいかん。たとひ世法にて論ずとも、たとひ佛法にて論ずとも、比丘尼のいたらん處へ、田夫野人あへていたるべからず。錯亂のはなはだしき、小國はじめてこのあとをのこす。あはれむべし、三界慈父の長子、小國にきたりて、ふさぎていたらしめざる處ありき。
又、かの結界と稱ずる處にすめるやから、十惡おそるることなし、十重つぶさにをかす。ただ造罪界として不造罪人をきらふか。況や逆罪をおもきこととす。結界の地にすめるもの、逆罪もつくりぬべし。かくのごとくの魔界は、まさにやぶるべし。佛化を學すべし、佛界にいるべし。まさに佛恩を報ずるにてあらん。如是の古先、なんぢ結界の旨趣をしれりやいなや。たれよりか相承せりし、たれが印をかかうぶれる。
いはゆるこの佛所結の大界にいるものは、佛も衆生も、大地も空も、繋縛を解し、佛の妙法に歸源するなり。しかあればち、この界をひとたびふむ衆生、しかしながら佛功をかうぶるなり。不違越の功あり、得淨の功あり。一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ、一重を結するとき、法界みな結せらるるなり。あるいは水をもて結する界あり、或は心をもて結界することあり、或は空をもて結界することあり。かならず相承相傳ありて知るべきこと在り。
況や結界のとき、灑甘露の後ち、歸命の禮をはり、乃至淨界等の後ち、頌に云、茲界遍法界、無爲結淨。
この旨趣、いまひごろ結界と稱ずる古先老人知れりやいなや。おもふに、なんだち、結の中に遍法界の結せらるること、しるべからざるなり。しりぬ、なんぢ聲聞の酒にゑうて、小界を大事とおもふなり。願くはひごろの迷醉すみやかにさめて、佛の大界の遍界に違越すべからざる、濟度攝受に一切衆生みな化をかうぶらん、功を禮拜恭敬すべし。たれかこれを得道髓といはざらん。

正法眼藏禮拜得髓

仁治元年庚子冬節前日書于興聖寺