第二十六 佛向上事

州洞山悟本大師は、潭州雲巖山無住大師の親嫡嗣なり。如來より三十八位の向上なり、自己より向上三十八位のなり。
大師、有時示衆云、體得佛向上事、方有些子語話分(佛向上の事を體得して、方に些子語話の分有り)。
便問、如何是語話(如何ならんか是れ語話)。
大師云、語話時闍梨不聞(語話の時、闍梨不聞なり)。
曰、和尚還聞否(和尚また聞くや否や)。
大師云、待我不語話時聞(我が不語話の時を待つて、ち聞くべし)。
いまいふところの佛向上事の道、大師その本なり。自餘の佛は、大師の道を參學しきたり、佛向上事を體得するなり。まさにしるべし、佛向上事は、在因にあらず、果滿にあらず。しかあれども、語話時の不聞を體得し參徹することあるなり。佛向上にいたらざれば佛向上を體得することなし、語話にあらざれば佛向上事を體得せず。相顯にあらず、相隱にあらず。相與にあらず、相奪にあらず。このゆゑに、語話現成のとき、これ佛向上事なり。佛向上事現成のとき、闍梨不聞なり。闍梨不聞といふは、佛向上事自不聞なり。すでに語話時闍梨不聞なり。しるべし、語話それ聞に染汚せず、不聞に染汚せず。このゆゑに聞不聞に不相干なり。
不聞裏藏闍梨なり、語話裡藏闍梨なりとも、逢人不逢人、恁麼不恁麼なり。闍梨語話時、すなはち闍梨不聞なり。その不聞たらくの宗旨は、舌骨に礙せられて不聞なり、耳裡に礙せられて不聞なり。眼睛に照穿せられて不聞なり、身心に塞却せられて不聞なり。しかあるゆゑに不聞なり。これらを拈じてさらに語話とすべからず。不聞すなはち語話なるにあらず、語話時不聞なるのみなり。高道の語話時闍梨不聞は、語話の道頭道尾は、如藤倚藤なりとも、語話纏語話なるべし、語話に礙せらる。
いはく、和尚還聞否。
いはゆるは、和尚を擧して聞語話と擬するにあらず、擧聞さらに和尚にあらず、語話にあらざるがゆゑに。しかあれども、いまの疑議するところは、語話時に聞を參學すべしやいなやと咨參するなり。たとへば、語話すなはち語話なりやと聞取せんと擬し、還聞これ還聞なりやと聞取せんと擬するなり。しかもかくのごとくいふとも、なんぢが舌頭にあらず。
洞山高道の待我不語話時聞、あきらかに參究すべし。いはゆる正當語話のとき、さらに聞あらず。聞の現成は、不語話のときなるべし。いたづらに不語話のときをさしおきて、不語話をまつにはあらざるなり。聞のとき、語話を傍觀とするにあらず、眞箇に傍觀なるがゆゑに。聞のとき、語話さりて一邊の那裡に存取せるにあらず、語話のとき、聞したしく語話の眼睛裏に藏身して霹靂するにあらず。しかあればすなはち、たとひ闍梨にても、語話時は不聞なり。たとひ我にても、不語話時聞なる、これ方有些子語話分なり、これ體得佛向上事なり。たとへば、語話時聞を體得するなり。このゆゑに、待我不語話時聞なり。しかありといへども、佛向上事は、七佛已前事にあらず、七佛向上事なり。

悟本大師示衆云、須知有佛向上人(須らく佛向上人有ることを知るべし)。
時有問、如何是佛向上人(如何ならんか是れ佛向上人)。
大師云、非佛。
雲門云、名不得、状不得、所以言非(名づくること得ず、状どること得ず、所以に非と言ふ)。
云、佛非。
法眼云、方便呼爲佛(方便に呼んで佛と爲す)。
おほよそ佛の向上に佛なるは、高洞山なり。そのゆゑは、餘外の佛面面おほしといへども、いまだ佛向上の道は夢也未見なり。山臨濟等には爲すとも承當すべからず。巖頭雪峰等は粉碎其身すとも喫拳すべからず。高道の體得佛向上事、方有些子語話分、および須知有佛向上人等は、ただ一二三四五の三阿祇、百大劫の修證のみにては、證究すべからず。まさに玄路の參學あるもの、その分あるべし。
すべからく佛向上人ありとしるべし。いはゆるは、弄魂の活計なり。しかありといへども、古佛を擧してしり、拳頭を擧起してしる。すでに恁麼見得するがごときは、有佛向上人をしり、無佛向上人をしる。而今の示衆は佛向上人となるべしとにあらず、佛向上人と相見すべしとにあらず。ただしばらく佛向上人ありとしるべしとなり。この關子を使得するがごときは、まさに有佛向上人を不知するなり、無佛向上人を不知するなり。その佛向上人、これ非佛なり。いかならんか非佛と疑著せられんとき、思量すべし、佛より以前なるゆゑに非佛といはず、佛よりのちなるゆゑに非佛といはず、佛をこゆるゆゑに非佛なるにあらず。ただひとへに佛向上なるゆゑに非佛なり。その非佛といふは、落佛面目なるゆゑにいふ、落佛身心なるゆゑにいふ。

東京淨因枯木禪師[嗣芙蓉、諱法成]、示衆云、知有佛向上事、方有話分。、且道、那箇是佛向上事。有箇人家兒子、六根不具、七識不全、是大闡提、無佛種性。逢佛殺佛、逢。天堂收不得、地獄攝無門。大衆還識此人麼。良久曰、對面不仙陀、睡多饒寐語(東京淨因枯木禪師[芙蓉に嗣す、諱は法成]、示衆に云く、佛向上の事有ることを知らば、方に話の分有り。、且道すべし、那箇か是れ佛向上の事なる。箇の人家の兒子有り、六根不具、七識不全、是れ大闡提、無佛種性なり。佛に逢ひては佛を殺し、に逢ひてはを殺す。天堂も收むること得ず、地獄も攝するに門無し。大衆還た此の人を識るや。良久して曰く、對面仙陀にあらず、睡多くして寐語饒なり)。
いはゆる六根不具といふは、眼睛被人換却木子了也、鼻孔被人換却竹筒了也、髑髏被人借作屎杓了也、作麼生是換却底道理(眼睛人に木子と換却せられ了りぬ、鼻孔人に竹筒と換却せられ了りぬ、髑髏人に借りて屎杓と作され了りぬ。作麼生ならんか是れ換却底の道理)。
このゆゑに六根不具なり。不具六根なるがゆゑに爐鞴裏を透過して金佛となれり、大海裏を透過して泥佛となれり、火焔裡を透過して木佛となれり。
七識不全といふは、破木杓なり。殺佛すといへども逢佛す。逢佛せるゆゑに殺佛す。天堂にいらんと擬すれば天堂すなはち崩壞す、地獄にむかへば地獄たちまちに破裂す。このゆゑに、對面すれば破顔す、さらに仙陀なし。睡多なるにもなほ寐語おほし。しるべし、この道理は、擧山匝地兩知己、玉石全身百雜碎なり。枯木禪師の示衆、しづかに參究功夫すべし、卒爾にすることなかれ。

雲居山弘覺大師、參高洞山。山問、闍梨、名什麼(雲居山弘覺大師、高洞山に參ず。山問ふ、闍梨、名は什麼ぞ)。
雲居曰、道膺。
又問、向上更道(向上更に道ふべし)。
雲居曰、向上道不名道膺(向上に道はば、ち道膺と名づけず)。
洞山道、吾在雲巖時祗對無異也(吾れ雲巖に在りし時祗對せしに異なること無し)。
いま師資の道、かならず審細にすべし。いはゆる向上不名道膺は、道膺の向上なり。適來の道膺に向上の不名道膺あることを參學すべし。向上不名道膺の道理現成するよりこのかた、眞箇道膺なり。しかあれども、向上にも道膺なるべしといふことなかれ。たとひ高道の向上更道をきかんとき、領話を呈するに向上更名道膺と道著すとも、すなはち向上道なるべし。なにとしてかしかいふ。いはく、道膺たちまちに頂に跳入して藏身するなり。藏身すといへども露影なり。

曹山本寂禪師、參高洞山。山問、闍梨、名什麼(曹山本寂禪師、高洞山に參ず。山問ふ、闍梨、名は什麼ぞ)。
曹山云、本寂。
云、向上更道(向上更に道ふべし)。
曹山云、不道(道はじ)。
云、爲甚麼不道(甚麼と爲てか道はざる)。
師云、不名本寂(本寂と名づけず)。
然之(高然之す)。
いはく、向上に道なきにあらず、これ不道なり。爲甚麼不道、いはゆる不名本寂なり。しかあれば、向上の道は不道なり、向上の不道は不名なり。不名の本寂は向上の道なり。このゆゑに、本寂不名なり。しかあれば、非本寂あり、落の不名あり、落の本寂あり。

盤山寶積禪師云、向上一路、千聖不傳。
いはくの向上一路は、ひとり盤山の道なり。向上事といはず、向上人といはず、向上一路といふなり。その宗旨は、千聖競頭して出來すといへども、向上一路は不傳なり。不傳といふは、千聖は不傳の分を保護するなり。かくのごとくも學すべし。さらに又いふべきところあり、いはゆる千聖千賢はなきにあらず、たとひ賢聖なりとも、向上一路は賢聖の境界にあらずと。

智門山光祚禪師、因問、如何是佛向上事(智門山光祚禪師、因みに問ふ、如何ならんか是れ佛向上事)。
師云、杖頭上挑日月(杖頭上日月を挑ぐ)。
いはく、杖の日月に礙せらるる、これ佛向上事なり。日月の杖を參學するとき、盡乾坤くらし。これ佛向上事なり。日月是杖とにはあらず、杖頭上とは、全杖上なり。

石頭無際大師の會に、天皇寺の道悟禪師とふ、如何是佛法大意(如何ならんか是れ佛法大意)。
師云、不得不知。
道悟云、向上更有轉處也無(向上更に轉處有りや無や)。
師云、長空不礙白雲飛(長空白雲の飛ぶを礙へず)。
いはく、石頭は曹谿の二世なり。天皇寺の道悟和尚は藥山の師弟なり。あるときとふ、いかならんか佛法大意。この問は、初心晩學の所堪にあらざるなり。大意をきかば、大意を會取しつべき時節にいふなり。
石頭いはく、不得不知。しるべし、佛法は初一念にも大意あり、究竟位にも大意あり。その大意は不得なり。發心修行取證はなきにあらず、不得なり。その大意は不知なり。修證は無にあらず、修證は有にあらず、不知なり、不得なり。またその大意は、不得不知なり。聖諦修證なきにあらず、不得不知なり。聖諦修證あるにあらず、不得不知なり。
道悟いはく、向上更有轉處也無。いはゆるは、轉處もし現成することあらば、向上現成す。轉處といふは方便なり、方便といふは佛なり、なり。これを道取するに、更有なるべし。たとひ更有なりとも、更無をもらすべきにあらず、道取あるべし。
長空不礙白雲飛は、石頭の道なり。長空さらに長空を不礙なり。長空これ長空飛を不礙なりといへども、さらに白雲みづから白雲を不礙なり。白雲飛不礙なり、白雲飛さらに長空飛を礙せず。他に不礙なるは自にも不礙なり、面面の不礙を要するにはあらず、各各の不礙を存するにあらず。このゆゑに不礙なり。長空不礙白雲飛の性相を擧拈するなり。正當恁麼時、この參學眼を揚眉して、佛來をも見し、來をも相見す。自來をも相見し、他來をも相見す。これを問一答十の道理とせり。いまいふ問一答十は、問一もその人なるべし、答十もその人なるべし。

黄檗云、夫出家人、須知有從上來事分。且如四下牛頭法融大師、横、猶未知向上關子。有此眼腦、方辨得邪正宗黨(黄檗云く、夫れ出家人は、須らく從上來事の分有ることを知るべし。且く四下の牛頭法融大師の如きは、横すれども、猶ほ未だ向上の關子を知らず。此の眼腦有つて、方に邪正の宗黨を辨得すべし)。
黄檗恁麼道の從上來事は、從上佛佛、正傳しきたる事なり。これを正法眼藏涅槃妙心といふ。自己にありといふとも須知なるべし、自己にありといへども猶未知なり。佛佛正傳せざるは夢也未見なり。黄檗は百丈の法子として百丈よりもすぐれ、馬の法孫として馬よりもすぐれたり。おほよそ宗三四世のあひだ、黄檗に齊肩なるなし。ひとり黄檗のみありて牛頭の兩角なきことをあきらめたり。自餘の佛、いまだしらざるなり。
牛頭山の法融禪師は、四下の尊宿なり。横、まことに經師論師に比するには、西天東地のあひだ、不爲不足なりといへども、うらむらくはいまだ向上の關子をしらざることを、向上の關子を道取せざることを。もし從上來の關子をしらざらんは、いかでか佛法の邪正を辨會することあらん。ただこれ學言語の漢なるのみなり。しかあれば、向上の關子をしること、向上の關子を修行すること、向上の關子を證すること、庸流のおよぶところにあらざるなり。眞箇の功夫あるところには、かならず現成するなり。
いはゆる佛向上事といふは、佛にいたりて、すすみてさらに佛をみるなり。衆生の佛をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見佛もし衆生の見佛とひとしきは、見佛にあらず。見佛もし衆生の見佛のごとくなるは、見佛錯なり。いはんや佛向上事ならんや。しるべし、黄檗道の向上事は、いまの杜撰のともがら、領覽におよばざらん。ただまさに法道もし法融におよばざるあり、法道おのづから法融にひとしきありとも、法融に法兄弟なるべし。いかでか向上の關子をしらん。自餘の十聖三賢等、いかにも向上の關子をしらざるなり。いはんや向上の關子を開閉せんや。この宗旨は、參學の眼目なり。もし向上の關子をしるを、佛向上人とするなり、佛向上事を體得せるなり。

正法眼藏佛向上事第二十六

爾時仁治三年壬寅三月二十三日在觀音導利興聖寶林寺示衆
正元元年己未夏安居日以未再治御草本在永平寺書寫之 懷弉