第二十五 谿聲山色

阿耨菩提に傳道受業の佛おほし、粉骨の先蹤不無なり。斷臂の宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各各の殼うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も不見なり。人慮あに測度せんや。
大宋國に、東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の眞龍なりぬべし、佛海の龍象を學す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す。あるとき、廬山にいたりしちなみに、溪水の夜流する聲をきくに悟道す。偈をつくりて、常總禪師に呈するにいはく、
谿聲便是廣長舌、
山色無非淨身。
夜來八萬四千偈、
他日如何擧似人。
(谿聲便ち是れ廣長舌、山色淨身に非ざること無し、夜來八萬四千偈、他日如何が人に擧似せん。)
この偈を總禪師に呈するに、總禪師、然之す。總は照覺常總禪師なり、總は黄龍慧南禪師の法嗣なり、南は慈明楚圓禪師の法嗣なり。
居士、あるとき佛印禪師了元和尚と相見するに、佛印、さづくるに法衣佛戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、佛印にたてまつるに無價の玉帶をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。
しかあれば、聞谿悟道の因、さらにこれ佛流の潤なからんや。あはれむべし、いくめぐりか現身法の化儀にもれたるがごとくなる。なにとしてかさらに山色をみ、谿聲をきく、一句なりとやせん、半句なりとやせん、八萬四千偈なりとやせん。うらむべし、山水にかくれたる聲色あること。又よろこぶべし、山水にあらはるる時節因あること。舌相も懈倦なし、身色あに存沒あらんや。しかあれども、あらはるるときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。一枚なりとやせん、半枚なりとやせん。從來の春秋は山水を見聞せざりけり、夜來の時節は山水を見聞することわづかなり。いま、學道の菩薩も、山流水不流より學入の門を開すべし。
この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、總禪師と無法話を參問せしなり。禪師の言下に身の儀いまだしといへども、谿聲のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあれば、いま谿聲の居士をおどろかす、谿聲なりとやせん、照覺の流瀉なりとやせん。うたがふらくは照覺の無法話、ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの聲にみだれいる。たれかこれ一升なりと辨肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相、淨身を急着眼せざらん。

又香嚴智閑禪師、かつて大大圓禪師の會に學道せしとき、大いはく、なんぢ聰明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。
香嚴、いはんことをもとむること數番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年來たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年來のあつむる書をやきていはく、畫にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に佛法を會せんことをのぞまじ、ただ行粥とならんといひて、行粥して年月をふるなり。行粥といふは、衆に粥を行するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大にまうす、智閑は身心昏昧にして道不得なり、和尚わがためにいふべし。
のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辭せず。おそらくはのちになんぢわれをうらみん。
かくて年月をふるに、大證國師の蹤跡をたづねて武當山にいりて、國師の庵のあとにくさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併淨するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、瞎然として大悟す。沐浴し、潔齋して、大山にむかひて燒香禮拜して、大にむかひてまうす、大大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、
一撃亡所知、
更不自修治。
動容揚古路、
不墮悄然機。
處處無蹤跡、
聲色外威儀。
方達道者、
咸言上上機。
(一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず。動容古路を揚ぐ、悄然の機に墮せず。處處蹤跡無し、聲色外の威儀なり。方達道の者、咸く上上の機と言はん。)
この偈を大に呈す。
いはく、此子徹也(此の子、徹せり)。

又、靈雲志勤禪師は三十年の辨道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見す。ときに春なり。桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す。偈をつくりて大に呈するにいはく、
三十年來尋劍客、
幾囘葉落又抽枝。
自從一見桃花後、
直至如今更不疑。
(三十年來尋劍の客、幾囘か葉落ち又枝を抽んづる。一たび桃花を見てより後、直に如今に至るまで更に疑はず)。
いはく、從入者、永不退失(より入る者は、永く退失せじ)。
すなはち許可するなり。いづれの入者か從せざらん、いづれの入者か退失あらん。ひとり勤をいふにあらず。つひに大に嗣法す。山色の淨身にあらざらん、いかでか恁麼ならん。

長沙景岑禪師に、あるとふ、いかにしてか山河大地を轉じて自己に歸せしめん。
師いはく、いかにしてか自己を轉じて山河大地に歸せしめん。
いまの道取は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所歸に礙すべきにあらず。

の廣照大師慧覺和尚は、南嶽の遠孫なり。あるとき、家の講師子とふ、淨本然、云何忽生山河大地(云何が忽ちに山河大地を生ずる)。
かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、淨本然、云何忽生山河大地。
ここにしりぬ、淨本然なる山河大地を山河大地とあやまるべきにあらず。しかあるを、經師かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。

しるべし山色谿聲にあらざれば、拈花も開演せず、得髓も依位せざるべし。谿聲山色の功によりて、大地有同時成道し、見明星悟道する佛あるなり。かくのごとくなる皮袋、これ求法の志氣甚深なりし先哲なり。その先蹤、いまの人、かならず參取すべし。いまも名利にかかはらざらん眞實の參學は、かくのごときの志氣をたつべきなり。遠方の近來は、まことに佛法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家兒となり、離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰ををしまず、むなしく黒暗業に賣買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。たとひ正師にあふとも、眞龍を愛せざらん。かくのごとくのたぐひ、先佛これを可憐憫者といふ。その先世に惡因あるによりてしかあるなり。生をうくるに爲法求法のこころざしなきによりて、眞法をみるとき眞龍をあやしみ、正法にあふとき正法にいとはるるなり。この身心骨肉、かつて從法而生ならざるによりて、法と不相應なり、法と不受用なり。宗師資、かくのごとく相承してひさしくなりぬ。菩提心はむかしのゆめをとくがごとし。あはれむべし、寶山にうまれながら寶財をしらず、寶財をみず、いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因、みな菩提の行願となるなり。
しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて發願すべし。
ねがわくはわれと一切衆生と、今生より乃至生生をつくして、正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法にあはんとき、世法をすてて佛法を受持せん、つひに大地有ともに成道することをえん。
かくのごとく發願せば、おのづから正發心の因ならん。この心、懈倦することなかれ。
又この日本國は、海外の遠方なり、人のこころ至愚なり。むかしよりいまだ聖人むまれず、生知むまれず、いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがらに、道心ををしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、他人をうらむ。
おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口稱ぜんや。いまの人は、實をもとむることまれなるによりて、身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛すべし。
學道のとき見聞することかたきは、正法の心なり。その心は、佛佛相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも、佛心とも相傳するなり。如來在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを學道の用心とするににたるともがらおほかり。しかありしも、正師のをしへにあひて、ひるがへして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま學道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始學にもあれ、久修練行にもあれ、傳道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり。慕古してならふ機あるべし、謗してならはざる魔もあらん。兩頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへなからん、うらみざらん。
いはく、三毒を三毒としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。いはんやはじめて佛道を欣求せしときのこころざしをわすれざるべし。いはく、はじめて發心するときは、他人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、ただひとすぢに得道をこころざす。かつて國王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因あり、本期にあらず、所求にあらず、人天の繋縛にかかはらんことを期せざるところなり。しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、佛法の功いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなれば、わがみちの見成とおもへり。これは學道の一魔なり、あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。
みずや、ほとけののたまはく、如來現在、猶多怨嫉(如來の現在にすら猶怨嫉多し)の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖をあたむこと、理かくのごとし。又、西天の師、おほく外道二乘國王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、師に遠慮なきにあらず。
西來よりのち、嵩山に掛錫するに、梁武もしらず、魏主もしらず。ときに兩箇のいぬあり、いはゆる菩提流支三藏と光統律師となり。名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、佛法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。引導の發願すべし、汝是畜生、發菩提心と施設すべし。先哲いはく、これはこれ人面畜生なり。
又、歸依供養する魔類もあるべきなり。
前佛いはく、不親近國王、王子、大臣、官長、婆羅門、居士(國王、王子、大臣、官長、婆羅門、居士に親近せざれ)。
まことに佛道を學せん人、わすれざるべき行儀なり。菩薩初學の功、すすむにしたがうてかさなるべし。
又むかしより、天帝きたりて行者の志氣を試驗し、あるいは魔波旬きたりて、行者の修道をさまたぐることあり。これみな名利の志氣はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲のふかく、廣度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり。
修行の力量おのづから國土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辨肯すべきなり。かれに睡することなかれ。愚人これをよろこぶ、たとへば癡犬の枯骨をねぶるがごとし。賢聖これをいとふ、たとへば世人の糞穢をおづるににたり。

おほよそ初心の量は、佛道をはからふことあたはず、測量すといへどもあたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟に究盡なきにあらず。徹地の堂奥は初心の淺識にあらず。ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづ、ね知識をねがふには、從天降下なり、從地湧出なり。
その接渠のところに、有に道取せしめ、無に道取せしむるに、身處にきき、心處にきく。若將耳聽は家常の茶なりといへども、眼處聞聲これ何必不必なり。見佛にも、自佛他佛をもみ、大佛小佛をみる。大佛にもおどろきおそれざれ、小佛にもあやしみわづらはざれ。いはゆる大佛小佛を、しばらく山色谿聲と認ずるものなり。これに廣長舌あり、八萬偈あり。擧似迥なり、見徹獨拔なり。このゆゑに俗いはく、彌高彌堅なり、先佛いはく、彌天彌綸なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、是なるのみなり。
善知識この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに爲人の儀を存ぜん、人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん、なにの草料かあらん、いかが根源を截斷せん。

又、心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして前佛に懺悔すべし。恁麼するとき前佛懺悔の功力、われをすくひて淨ならしむ。この功、よく無礙の淨信進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自他おなじく轉ぜらるるなり。その利、あまねくにかうぶらしむ。その大旨は、
願はわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因ありとも、佛道によりて得道せりし、われをあはれみて、業累を解せしめ、學道さはりなからしめ、その功法門、あまねく無盡法界に充滿彌綸せらんあはれみをわれに分布すべし。
の往昔は吾等なり、吾等が當來は佛ならん。佛を仰觀すれば一佛なり、發心を觀想するにも一發心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり。このゆゑに龍牙のいはく、
昔生未了今須了、
此生度取累生身。
古佛未悟同今者、
悟了今人古人。
(昔生に未だ了ぜずは今須らく了ずべし、此生に累生身を度取す。古佛も未悟なれば今者に同じ、悟了せば今人ち古人なり。)
しづかにこの因を參究すべし、これ證佛の承當なり。
かくのごとく懺悔すれば、かならず佛の冥助あるなり。心念身儀發露白佛すべし、發露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。
正修行のとき、谿聲谿色、山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿聲山色八萬四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは夜來なりとも、谿山の谿山を擧似する盡力未便ならんは、たれかなんぢを谿聲山色と見聞せん。

正法眼藏谿聲山色第二十五

爾時延應庚子結制後五日在觀音導利興聖寶林寺示衆
元癸卯結制前佛誕生日在同寺侍司書寫之 懷弉