第二十一 授記
佛單傳の大道は授記なり。佛の參學なきものは、夢也未見なり。その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。無佛性に授記す、有佛性に授記す。有身に授記し、無身に授記す。佛に授記す。佛は佛の授記を保任するなり。得授記ののちに作佛すと參學すべからず、作佛ののちに得授記すと參學すべからず。授記時に作佛あり、授記時に修行あり。このゆゑに、佛に授記あり、佛向上に授記あり。自己に授記す、身心に授記す。授記に學措大なるとき、佛道に學措大なり。身前に授記あり、身後に授記あり。自己にしらるる授記あり、自己にしられざる授記あり。他をしてしらしむる授記あり、他をしてしらしめざる授記あり。
まさにしるべし、授記は自己を現成せり。授記これ現成の自己なり。このゆゑに、佛佛、嫡嫡相承せるは、これただ授記のみなり。さらに一法としても授記にあらざるなし。いかにいはんや山河大地、須彌巨海あらんや。さらに一箇半箇の張三李四なきなり。かくのごとく參究する授記は、道得一句なり、聞得一句なり。不會一句なり、會取一句なり。行取なり、取なり。退歩を令せしめ、進歩を令せしむ。いま得坐披衣、これ古來の得授記にあらざれば現成せざるなり。合掌頂戴なるがゆゑに現成は授記なり。
佛言、それ授記に多般あれども、しばらく要略するに八種あり。いはゆる、
瓔珞第九、八種授記あり。
一者 自己知、他不知。
己知他不知者、發心自誓未廣及人、未得四無所畏、未得善權故(己知他不知とは、發心自誓未だ廣く人に及ばず、未だ四無所畏を得ず、未だ善權を得ざるが故に)。
二者 衆人盡知、自己不知。
衆人盡知、己不知者、發心廣大得無畏善權故(衆人盡知、己不知とは、發心廣大にして無畏善權を得るが故に)。
三者 自己衆人、倶知。
皆知者、位在七地、無畏善權、得空觀故(皆知とは、位七地に在りて、無畏善權、空觀を得るが故に)。
四者 自己衆人、倶不知。
皆不知者、未入七地、未得無著行(皆不知とは、未だ七地に入らず、未だ無著の行を得ず)。
五者 近覺、遠不覺。
遠者不覺者、彌勒是也。根具足、不如來無著行故(遠者不覺とは彌勒是れなり。根具足し如來無著の行をせざるが故に)。
六者、遠覺、近不覺。
近者不覺者、此人未能演賢聖之行、師子膺是也(近者不覺とは、此の人未だ賢聖の行を演すること能はず、師子膺是れなり)。
七者、倶覺。
近遠倶覺者、根具足、不無著之行、柔順菩薩是也(近遠倶覺とは、根具足するも無著の行をてず、柔順菩薩是れなり)。
八者、倶不覺。
近遠倶不覺者、未得善權、不能悉知如來藏、等行菩薩是也(近遠倶不覺とは、未だ善權を得ず、如來藏を悉く知ること能はず、等行菩薩是れなり)。
餘經又云、
近知者。
從現佛得記也、如彌勒等(現佛に從ひて記を得るなり、彌勒等の如し)。
遠知者。
不從今佛、從當佛得記。如佛語弊魔、彌勒當四汝記(今佛に從はず、當佛に從ひて記を得。佛、弊魔に、彌勒當に汝に記を與ふべしと語りたまふが如し)。
遠近倶知者。
今當佛倶與記也(今當の佛、倶に記を與へたまふなり)。
近遠倶不知者。
今當佛倶不記也(今當の佛、倶に記したまはざるなり)。
かくのごとく授記あり。
しかあれば、いまこの臭皮袋の魂に識度せられざるには授記あるべからずと活計することなかれ、未悟の人面にたやすく授記すべからずといふことなかれ。よのつねにおもふには、修行功滿じて作佛決定する時授記すべしと學しきたるといへども、佛道はしかにはあらず。或從知識して一句をきき、或從經卷して一句をきくことあるは、すなはち得授記なり。これ佛の本行なるがゆゑに、百草の善根なるがゆゑに。もし授記を道取するには、得記人みな究竟人なるべし。しるべし、一塵なほ無上なり、一塵なほ向上なり。授記なんぞ一塵ならざらん、授記なんぞ一法ならざらん、授記なんぞ萬法ならざらん、授記なんぞ修證ならざらん、授記なんぞ佛ならざらん、授記なんぞ功夫辨道ならざらん、授記なんぞ大悟大迷ならざらん。授記はこれ吾宗到汝、大興于世なり、授記はこれ汝亦如是、吾亦如是なり。授記これ標榜なり、授記これ何必なり。授記これ破顔微笑なり、授記これ生死去來なり。授記これ盡十方界なり、授記これ界不曾藏なり。
玄沙院宗一大師、侍雪峰行次、雪峰指面前地云、這一片田地、好造箇無縫塔(玄沙院宗一大師、雪峰に侍して行く次でに、雪峰、面前の地を指して云く、這の一片の田地、好し、箇の無縫塔を造らんに)。
玄沙曰、高多少(高さ多少ぞ)。
雪峰乃上下顧視(雪峰乃ち上下に顧視す)。
玄沙云、人天報不無、和尚靈山授記、未夢見在(人天の報はち無きにあらず、和尚靈山の授記、未夢見在なり)。
雪峰云、作麼生。
玄沙曰、七尺八尺。
いま玄沙のいふ和尚靈山授記、未夢見在は、雪峰に靈山の授記なしといふにあらず、雪峰に靈山の授記ありといふにあらず、和尚靈山授記、未夢見在といふなり。
靈山の授記は、高著眼なり。吾有正法眼藏涅槃妙心、附囑摩訶葉なり。しるべし、原の石頭に授記せしときの同參は、摩訶葉も原の授記をうく、原も釋の授記をさづくるがゆゑに、佛佛の面面に、正法眼藏附囑有在なることあきらかなり。ここをもて、曹谿すでに原に授記す、原すでに六の授記をうくるとき、授記に保任せる原なり。このとき、六の參學、正直に原の授記によりて行取しきたれるなり。これを明明百草頭、明明佛意といふ。
しかあればすなはち、佛いづれか百草にあらざらん、百草なんぞ吾汝にあらざらん。至愚にしておもふことなかれ、みづからに具足する法は、みづからかならずしるべしと、みるべしと。恁麼にあらざるなり。自己の知する法、かならずしも自己の有にあらず。自己の有、かならずしも自己のみるところならず、自己のしるところならず。しかあれば、いまの知見思量分にあたはざれば自己にあるべからずと疑著することなかれ。いはんや靈山の授記といふは、釋牟尼佛の授記なり。この授記は、釋牟尼佛の釋牟尼佛に授記しきたれるなり。授記の未合なるには授記せざる道理なるべし。その宗旨は、すでに授記あるに授記するに礙なし、授記なきに授記するに剩法せざる道理なり。虧闕なく、剩法にあらざる、これ佛の佛に授記しきたれる道理なり。
このゆゑに古佛いはく、
古今擧拂示東西、
大意幽微肯易參。
此理若無師授、
欲將何見語玄談。
(古今擧拂して東西に示す、大意幽微にして肯つて參ずること易からんや。此の理若し師の授無くんば、何れの見を將てか玄談を語らんとするや。)
いまの玄沙の宗旨を參究するに、無縫塔の高多少を量するに、高多少の道得あるべし。さらに五百由旬にあらず、八萬由旬にあらず。これによりて、上下を顧視するをきらふにあらず。ただこれ人天の報は不無なりとも、無縫塔高を顧視するは、釋牟尼佛の授記にはあらざるのみなり。釋牟尼佛の授記をうるは、七尺八尺の道得あるなり。眞箇の釋牟尼佛の授記を點することは七尺八尺の道得をもて點すべきなり。しかあればすなはち、七尺八尺の道得を是不是せんことはしばらくおく、授記はさだめて雪峰の授記あるべし、玄沙の授記あるべきなり。いはんや授記を擧して無縫塔高の多少を道得すべきなり。授記にあらざらんを擧して佛法を道得するは、道得にはあらざるべきなり。
自己の眞箇に自己なるを會取し聞取し道取すれば、さだめて授記の現成する公案あるなり。授記の當陽に、授記と同參する功夫きたるなり。授記を究竟せんために、如許多の佛は現成正覺しきたれり。授記の功夫するちから、佛を推出するなり。このゆゑに、唯以一大事因故出現といふなり。その宗旨は、向上には非自己かならず非自己の授記をうるなり。このゆゑに、佛は佛の授記をうるなり。
おほよそ授記は、一手を擧して授記し、兩手を擧して授記し、千手眼を擧して授記し、授記せらる。あるいは優曇花を擧して授記す、あるいは金襴衣を拈じて授記する、ともにこれ強爲にあらず、授記の云爲なり。内よりうる授記あるべし、外よりうる授記あるべし。内外を參究せん道理は、授記に參學すべし。授記の學道は萬里一條鐵なり。授記の兀坐は一念萬年なり。
古佛いはく、相繼得成佛、轉次而授記(相繼いで成佛することを得て、轉次に而も授記せん)。
いはくの成佛は、かならず相繼するなり。相繼する少許を成佛するなり。これを授記の轉次するなり。轉次は轉得轉なり、轉次は次得次なり。たとへば造次なり。造次は施爲なり。その施爲は、局量の造身にあらず、局量の造境にあらず、度量の造作にあらず、造心にあらざるなり。まさに造境不造境、ともに轉次の道理に一任して究辨すべし。造作不造作、ともに轉次の道理に一任して究辨すべし。いま佛の現成するは施爲に轉次せらるるなり。師の西來する施爲に轉次せらるるなり。いはんや運水般柴は、轉次しきたるなり。心是佛の現生する轉次なり。心是佛の滅度する、一滅度二滅度をめづらしくするにあらず、如許多の滅度を滅度すべし、如許多の成道を成道すべし、如許多の相好を相好すべし。これすなはち相繼得成佛なり、相繼得滅度等なり。相繼得授記なり、相繼得轉次なり。轉次は本來にあらず、ただ七通八達なり。いま佛面面の面面に相見し、面面に相逢するは相繼なり。佛授記授記の轉次する、廻避のところ、間隙にあらず。
古佛いはく、我今從佛聞、授記莊嚴事、及轉次受決、身心遍歡喜(我れ今佛に從ひたてまつりて、授記莊嚴の事、及び轉次に決を受けんことを聞きて、身心遍く歡喜せり)。
いふところは、授記莊嚴事、かならず我今從佛聞なり。我今從佛聞の及轉次受決するといふは、身心遍歡喜なり。及轉次は我今なるべし。過現當の自他にかかはるべからず、從佛聞なるべし。從他聞にあらず。迷悟にあらず、衆生にあらず、草木國土にあらず、從佛聞なるべし。授記莊嚴事なり、及轉次受決なり。轉次の道理、しばらくも一隅にとどまりぬることなし。身心遍歡喜しもてゆくなり。歡喜なる及轉次受決、かならず身と同參して遍參し、心と同參して遍參す。さらに又、身はかならず心に遍ず、心はかならず身に遍ずるゆゑに身心遍といふ。すなはちこれ界方、身心なり。これすなはち特地一條の歡喜なり。その歡喜、あらはに寐寤を歡喜せしめ、迷悟を歡喜せしむるに、おのおのと親切なりといへども、おのおのと不染汚なり。かるがゆゑに、轉次而受決なる、授記莊嚴事なり。
釋牟尼佛、因藥王菩薩告八萬大士、藥王、汝見是大衆中、無量天、龍王、乾闥婆、阿修羅、樓羅、緊那羅、摩羅伽、人與非人、及比丘比丘尼、優婆塞優婆夷、求聲聞者、求辟支佛者、求佛道者、如是等類、咸於佛前、聞妙法華經一偈一句、乃至一念隨喜者、我皆與授記。當得阿耨多羅三藐三菩提(釋牟尼佛、藥王菩薩に因りて八萬大士に告げたまはく、藥王、汝、是の大衆の中の無量の天、龍王、乾闥婆、阿修羅、樓羅、緊那羅、摩羅伽、人と非人と、及び比丘比丘尼、優婆塞優婆夷、聲聞を求むる者、辟支佛を求むる者、佛道を求むる者を見るに、是の如き等の類、咸く佛の前に於て、妙法華經の一偈一句を聞きて、乃至一念も隨喜せん者に、我れ皆授記を與ふべし。當に阿耨多羅三藐三菩提を得べし)。
しかあればすなはち、いまの無量なる衆會、あるいは天王龍王、四部、八部、所求所解ことなりといへども、たれか妙法にあらざらん一句一偈をきかしめん。いかならんなんぢが乃至一念も、他法を隨喜せしめん。如是等類といふは、これ法華類なり。咸於佛前といふは、咸於佛中なり。人與非人の萬像に錯認するありとも、百草に下種せるありとも、如是等類なるべし。如是等類は、我皆與授記なり。我皆與授記の頭正尾正なる、すなはち當阿耨多羅三藐三菩提なり。
釋牟尼佛告藥王、又如來滅度之後、若有人聞妙法華經、乃至一偈一句、一念隨喜者、我亦與授阿耨多羅三藐三菩提記(釋牟尼、佛藥王に告げたまはく、又、如來滅度の後、若し人有つて妙法華經を聞きて、乃至一偈一句に、一念も隨喜せん者に、我れ亦た阿耨多羅三藐三菩提の記を與授すべし)。
いまいふ如來滅度之後は、いづれの時節到來なるべきぞ。四十九年なるか、八十年中なるか。しばらく八十年中なるべし。若有人聞妙法華經、乃至一偈一句、一念隨喜といふは、有智の所聞なるか、無智の所聞なるか。あやまりてきくか、あやまらずしてきくか。爲他道せば、若有人の所聞なるべし。さらに有智無智等の類なりとすることなかれ。いふべし、聞法華經はたとひ甚深無量なるいく佛智慧なりとも、きくにはかならず一句なり、きくにかならず一偈なり、きくにかならず一念隨喜なり。このとき、我亦與授阿耨多羅三藐三菩提記なるべし。亦與授記あり、皆與授記あり。蹉過の張三に一任せしむることなかれ、審細の功夫に同參すべし。句偈隨喜を若有人聞なるべし。皮肉骨髓を頭上安頭するにいとまあらず。見授阿耨多羅三藐三菩提記は、我願滿なり、如許皮袋なるべし、衆望亦足なり、如許若有人聞ならん。念松枝の授記あり、念優曇華の授記あり。念瞬目の授記あり、念破顔の授記あり、鞋を轉授せし蹤跡あり。そこばくの是法非思量分別之所能解(是の法は思量分別の能く解する所に非ず)なるべし。我身是也の授記あり、汝身是也の授記あり。この道理、よく過去現在未來を授記するなり。授記中の過去現在未來なるがゆゑに、自授記に現成し、他授記に現成するなり。
維摩詰、謂彌勒言、彌勒、世尊授仁者記、一生當得阿耨多羅三藐三菩提、爲用何生得受記乎。過去耶、未來耶、現在耶。若過去生、過去生已滅。若未來生、未來生未至。若現在生、現在生無住。如佛所、比丘、汝今時、亦生亦老亦滅。若以無生得受記者、無生是正位。於正位中、亦無受記、亦無得阿耨多羅三藐三菩提。云何彌勒受一生記乎。爲從如生得受記耶、爲從如滅得受記耶。若以如生得受記者、如無有生。若以如滅得受記者、如無有滅。一切衆生皆如也、一切法亦如也。衆聖賢亦如也。至於彌勒亦如也。若彌勒得受記者、一切衆生亦應受記。所以者何、夫如者不二不異。若彌勒得阿耨多羅三藐三菩提者、一切衆生皆亦應得。所以者何、一切衆生菩提相(維摩詰、彌勒に謂て言く、彌勒、世尊の仁者に記を授け、一生に當に阿耨多羅三藐三菩提を得べしとは、何れの生を用て受記を得るとやせん。過去なりや、未來なりや、現在なりや。若し過去生といはば、過去生は已に滅す。若し未來生といはば、未來生は未至なり。若し現在生といはば、現在生は住すること無し。佛の所の如くならば、比丘、汝今の時は、亦生亦老亦滅なり。若し無生を以て受記を得といはば、無生はち是れ正位なり。正位中に於て、また受記無し。また阿耨多羅三藐三菩提を得べきこと無し。云何ぞ彌勒一生の記を受くるや。如生より受記を得とせんるや、如滅より受記を得とせんや。若し如生を以て受記を得といはば、如は生有ること無し。若し如滅を以て受記を得といはば、如は滅有ること無し。一切衆生、皆な如なり、一切の法も亦た如なり。衆の聖賢も亦た如なり。彌勒に至るまでも亦た如なり。若し彌勒受記を得るとなれば、一切衆生も亦た應に受記すべし。所以何となれば、夫れ、如は不二、不異なり。若し彌勒阿耨多羅三藐三菩提を得ば、一切衆生も皆亦た應に得べし。所以何となれば、一切衆生はち菩提の相なり)。
維摩詰の道取するところ、如來これを不是といはず。しかあるに、彌勒の得受記、すでに決定せり。かるがゆゑに、一切衆生の得受記、おなじく決定すべし。衆生の受決あらずは、彌勒の受記あるべからず。すでに一切衆生、菩提相なり。菩提の、菩提の授記をうるなり。受記は今日生佛の慧命なり。しかあれば、一切衆生は彌勒と同發心するゆゑに同受記なり、同成道なるべし。ただし、維摩道の於正位中、亦無受記は、正位授記をしらざるがごとし、正位菩提といはざるがごとし。また過去生已滅、未來生未至、現在生無住とらいふ。過去かならずしも已滅にあらず、未來かならずしも未至にあらず、現在かならずしも無住にあらず、無住未至已滅等を過未現と學すといふとも、未至のすなはち過現來なる道理、かならず道取すべし。
しかあれば、生滅ともに得記する道理あるべし、生滅ともに得菩提の道理あるなり。一切衆生の授記をうるとき、彌勒も授記をうるなり。
しばらくなんぢ維摩にとふ、彌勒は衆生と同なりや異なりや。試道看。
すでに若彌勒得記せば、一切衆生も得記せんといふ、彌勒、衆生にあらずといはば、衆生は衆生にあらず、彌勒も彌勒にあらざるべし。いかん。正當恁麼時、また維摩にあらざるべし。維摩にあらずは、この道得用不著ならん。
しかあればいふべし、授記の一切衆生をあらしむるとき、一切衆生および彌勒はあるなり。授記よく一切をあらしむべし。
正法眼藏授記第二十一
仁治三年壬寅孟夏四月二十五日記于觀音導利興聖寶林寺
元二年甲辰正月廿日書寫之在于越州吉峰寺侍者寮