第二十 有時

古佛言、
有時高高峰頂立、
有時深深海底行。
有時三頭八臂、
有時丈六八尺。
有時杖拂子、
有時露柱燈籠。
有時張三李四、
有時大地空。
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の莊嚴光明あり。いまの十二時に學すべし。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。去來の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず、疑著せざれどもしれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎事を疑著すること一定せざるがゆゑに、疑著する前程、かならずしもいまの疑著に符合することなし。ただ疑著しばらく時なるのみなり。
われを排列しおきて盡界とせり、この盡界の頭頭物物を時時なりと見すべし。物物の相礙せざるは、時時の相礙せざるがごとし。このゆゑに同時發心あり、同心發時あり。および修行成道もかくのごとし。われを排列してわれこれをみるなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。
恁麼の道理なるゆゑに、盡地に萬象百草あり、一草一象おのおの盡地にあることを參學すべし。かくのごとくの往來は、修行の發足なり。到恁麼の田地のとき、すなはち一草一象なり、會象不會象なり、會草不會草なり。正當恁麼時のみなるがゆゑに、有時みな盡時なり、有草有象ともに時なり。時時の時に盡有盡界あるなり。しばらくいまの時にもれたる盡有盡界ありやなしやと觀想すべし。
しかあるを、佛法をならはざる凡夫の時節にあらゆる見解は、有時のことばをきくにおもはく、あるときは三頭八臂となれりき、あるときは丈六金身となれりき。たとへば、河をすぎ、山をすぎしがごとくなりと。いまはその山河、たとひあるらめども、われすぎきたりて、いまは玉殿朱樓に處せり、山河とわれと、天と地となりとおもふ。
しかあれども、道理この一條のみにあらず。いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。時もし去來の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去來の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山渡河の時、この玉殿朱樓の時を呑却せざらんや、吐却せざらんや。
三頭八臂はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰萬峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂もすなはちわが有時にて一經す、彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺も、すなはちわが有時にて一經す、彼處にあるににたれども而今なり。
しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解會すべからず、飛去は時の能とのみは學すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。有時の道を經聞せざるは、すぎぬるとのみ學するによりてなり。要をとりていはば、盡界にあらゆる盡有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。

有時に經歴の功あり。いはゆる今日より明日に經歴す、今日より昨日に經歴す、昨日より今日に經歴す。今日より今日に經歴す、明日より明日に經歴す。經歴はそれ時の功なるがゆゑに。
古今の時、かさなれるにあらず、ならびつもれるにあらざれども、原も時なり、黄檗も時なり、江西も石頭も時なり。自他すでに時なるがゆゑに、修證は時なり。入泥入水おなじく時なり。いまの凡夫の見、をよび見の因、これ凡夫のみるところなりといへども、凡夫の法にあらず、法しばらく凡夫を因せるのみなり。この時、この有は、法にあらずと學するがゆゑに、丈六金身はわれにあらずと認ずるなり。われを丈六金身にあらずとのがれんとする、またすなはち有時の片片なり、未證據者の看看なり。
いま世界に排列せるむまひつじをあらしむるも、住法位の恁麼なる昇降上下なり。ねずみも時なり、とらも時なり、生も時なり、佛も時なり。この時、三頭八臂にて盡界を證し、丈六金身にて盡界を證す。それ盡界をもて盡界を界盡するを、究盡するとはいふなり。丈六金身をもて丈六金身するを、發心修行菩提涅槃と現成する、すなはち有なり、時なり。盡時を盡有と究盡するのみ。さらに剩法なし、剩法これ剩法なるがゆゑに。たとひ半究盡の有時も、半有時の究盡なり。たとひ蹉過すとみゆる形段も有なり。さらにかれにまかすれば、蹉過の現成する前後ながら、有時の住位なり。住法位の活地なる、これ有時なり。無と動著すべからず、有と強爲すべからず。時は一向にすぐるとのみ計功して、未到と解會せず。解會は時なりといへども、他にひかるるなし。去來と認じて、住位の有時と見徹せる皮袋なし。いはんや透關の時あらんや。たとひ住位を認ずとも、たれか得恁麼の保任を道得せん。たとひ恁麼と道得せることひさしきを、いまだ面目現前を模せざるなし。凡夫の有時なるに一任すれば、菩提涅槃もわづかに去來の相のみなる有時なり。
おほよそ籠とどまらず有時現成なり。いま右界に現成し左方に現成する天王天衆、いまもわが盡力する有時なり。その餘外にある水陸の衆有時、これわがいま盡力して現成するなり。冥陽に有時なる頭、みなわが盡力現成なり、盡力經歴なり。わがいま盡力經歴にあらざれば、一法一物も現成することなし、經歴することなしと參學すべし。
經歴といふは、風雨の東西するがごとく學しきたるべからず。盡界は不動轉なるにあらず、不進退なるにあらず、經歴なり。經歴は、たとへば春のごとし。春に許多般の樣子あり、これを經歴といふ。外物なきに經歴すると參學すべし。たとへば、春の經歴はかならず春を經歴するなり。經歴は春にあらざれども、春の經歴なるがゆゑに、經歴いま春の時に成道せり。審細に參來參去すべし。經歴をいふに、境は外頭にして、能經歴の法は東にむきて百千世界をゆきすぎて、百千劫をふるとおもふは、佛道の參學、これのみを專一にせざるなり。

藥山弘道大師、ちなみに無際大師の指示によりて江西大寂禪師に參問す、三乘十二分、某甲ほぼその宗旨をあきらむ。如何是師西來意(如何ならんか是れ師西來意)。
かくのごとくとふに大寂禪師いはく、
有時伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむ)、
有時不伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしめず)。
有時伊揚眉瞬目者是(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむる者是)、
有時伊揚眉瞬目者不是(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむる者不是なり)。
藥山ききて大悟し、大寂にまうす、某甲かつて石頭にありし、蚊子の鐵牛にのぼれるがごとし。
大寂の道取するところ、餘者とおなじからず。眉目は山海なるべし、山海は眉目なるゆゑに。その伊揚は山をみるべし、その伊瞬は海を宗すべし。是は伊に慣せり、伊はに誘引せらる。不是は不伊にあらず、不伊は不是にあらず、これらともに有時なり。
山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壞すれば山海も壞す、時もし不壞なれば山海も不壞なり。この道理に、明星出現す、如來出現す、眼睛出現す、拈花出現す。これ時なり。時にあらざれば不恁麼なり。

葉縣の歸省禪師は臨濟の法孫なり、首山の嫡嗣なり。あるとき大衆にしめしていはく、
有時意到句不到(有る時は意到りて句到らず)、
有時句到意不到(有る時は句到りて意到らず)。
有時意句兩倶到(有る時は意句兩つ倶に到る)、
有時意句倶不到(有る時は意句倶到らず)。
意句ともに有時なり、到不到ともに有時なり。到時未了なりといへども不到時來なり。意は驢なり、句は馬なり。馬を句とし、驢を意とせり。到それ來にあらず、不到これ未にあらず。有時かくのごとくなり。到は到に礙せられて不到に礙せられず。不到は不到に礙せられて到に礙せられず。意は意をさへ、意をみる。句は句をさへ、句をみる。礙は礙をさへ、礙をみる。礙は礙を礙するなり、これ時なり。礙は他法に使得せらるるといへども、他法を礙する礙いまだあらざるなり。我逢人なり、人逢人なり、我逢我なり、出逢出なり。これらもし時をえざるには、恁麼ならざるなり。
又、意は現成公案の時なり、句は向上關の時なり。到は體の時なり、不到は此離此の時なり。かくのごとく辨肯すべし、有時すべし。

向來の尊宿ともに恁麼いふとも、さらに道取すべきところなからんや。いふべし
意句半到也有時、
意句半不到也有時。
かくのごとく參究あるべきなり。
伊揚眉瞬目也半有時、
伊揚眉瞬目也錯有時、
伊揚眉瞬目也錯錯有時。
恁麼のごとく參來參去、參到參不到する、有時の時なり。

正法眼藏有時第二十

仁治元年庚子開冬日書于興聖寶林寺
元癸卯夏安居書寫 懷弉