第十七 恁麼

雲居山弘覺大師は、洞山の嫡子なり。釋牟尼佛より三十九世の法孫なり、洞山宗の嫡なり。
一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人。是恁麼人、何愁恁麼事。
いはゆるは、恁麼事をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人なるべし。すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん。この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。この無上菩提のていたらくは、すなはち盡十方界も無上菩提の少許なり。さらに菩提の盡界よりもあまるべし。われらもかの盡十方界のなかにあらゆる調度なり。なにによりてか恁麼あるとしる。いはゆる身心ともに盡界にあらはれて、われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。
身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされてしばらくもとどめがたし。紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。つらつら觀ずるところに、往事のふたたびあふべからざるおほし。赤心もとどまらず、片片として往來す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとどこほるものにあらず。恁麼なるに、無端に發心するものあり。この心おこるより、向來もてあそぶところをなげすてて、所未聞をきかんとねがひ、所未證を證せんともとむる、ひとへにわたくしの所爲にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。なにをもつてか恁麼人にてありとしる、すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。又恁麼事の恁麼あるにも、おどろくべからず。たとひおどろきあやしまるる恁麼ありとも、さらにこれ恁麼なり。おどろくべからずといふ恁麼あるなり。これただ佛量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、盡界量にて量ずべからず。ただまさに是恁麼人、何愁恁麼事なるべし。このゆゑに、聲色の恁麼は恁麼なるべし、身心の恁麼は恁麼なるべし、佛の恁麼は恁麼なるべきなり。たとへば、因地倒者(地に因りて倒るる者)のときを恁麼なりと恁麼會なるに、必因地起(必ず地に因りて起く)の恁麼のとき、因地倒をあやしまざるなり。

古昔よりいひきたり、西天よりいひきたり、天上よりいひきたれる道あり。いはゆる若因地倒、還因地起、離地求起、終無其理(若し地に因りて倒るるは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終に其の理無けん)。
いはゆる道は、地によりてたふるるものはかならず地によりておく、地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを擧拈して、大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑに、もし、いかなるか佛成道の道理なると問著するにも、地にたふるるものの地によりておくるがごとしといふ。これを參究して向來をも透すべし、末上をも透すべし、正當恁麼時をも透すべし。大悟不悟、却迷失迷、被悟礙、被迷礙。ともにこれ地にたふるるものの、地によりておくる道理なり。これ天上天下の道得なり、西天東地の道得なり、古往今來の道得なり、古佛新佛の道得なり。この道得、さらに道未盡あらず、道虧闕あらざるなり。
しかあれども、恁麼會のみにして、さらに不恁麼會なきは、このことばを參究せざるがごとし。たとひ古佛の道得は恁麼つたはれりといふとも、さらに古佛として古佛の道を聞著せんとき、向上の聞著あるべし。いまだ西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる地によりてたふるるもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量劫をふるに、さらにおくべからず。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる地によりてたふるるものは、かならず空によりておき、空によりてたふるるものは、かならず地によりておくるなり。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず。、みなかくのごとくありしなり。
もし人ありて恁麼とはん、空と地と、あひさることいくそばくぞ。
恁麼問著せんに、かれにむかひて恁麼いふべし、空と地と、あひさること十萬八千里なり。若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理、若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理(地に因りて倒るるがごときは、必ず空に因りて起く。空を離れて起きんと求むるは終に其の理無けん。空に因りて倒るるがごときは、必ず地に因りて起く。地を離れて起きんと求むるは終に其の理無けん)。
もしいまだかくのごとく道取せざらんは、佛道の地空の量、いまだしらざるなり、いまだみざるなり。

第十七代の師、伽難提尊者、ちなみに伽耶舍多、これ法嗣なり。あるとき、殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをききて、伽耶舍多にとふ、風のなるとやせん、鈴のなるとやせん。
伽耶舍多まうさく、風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。
伽難提尊者いはく、心はまたなにぞや。
伽耶舍多まうさく、ともに寂靜なるがゆゑに。
伽難提尊者いはく、善哉善哉、わが道を次べきこと、子にあらずよりはたれぞや。
つひに正法眼藏を傳付す。
これは風の鳴にあらざるところに、我心鳴を學す。鈴のなるにあらざるとき、我心鳴を學す。我心鳴はたとひ恁麼なりといへども、倶寂靜なり。
西天より東地につたはれ、古代より今日にいたるまで、この因を學道の標準とせるに、あやまるたぐひおほし。
伽耶舍多の道取する風のなるにあらず、鈴のなるにあらず、心のなるなりといふは、能聞の恁麼時の正當に念起あり、この念起を心といふ。この心念もしなくは、いかでか鳴響をぜん。この念によりて聞を成ずるによりて、聞の根本といひぬべきによりて、心のなるといふなり。これは邪解なり。正師のちからをえざるによりてかくのごとし。たとへば、依主隣近の論師の釋のごとし。かくのごとくなるは佛道の玄學にあらず。
しかあるを、佛道の嫡嗣に學しきたれるには、無上菩提正法眼藏、これを寂靜といひ、無爲といひ、三昧といひ、陀羅尼といふ道理は、一法わづかに寂靜なれば、萬法ともに寂靜なり。風吹寂靜なれば鈴鳴寂靜なり。このゆゑに倶寂靜といふなり。心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取するなり。親切の恁麼なるを究辨せんよりは、さらにただいふべし、風鳴なり、鈴鳴なり、吹鳴なり、鳴鳴なりともいふべし。何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず、何關恁麼事なるによりて恁麼なるなり。

第三十三大鑑禪師、未剃髪のとき、廣州法性寺に宿するに、二ありて相論するに、一いはく、幡の動ずるなり。
いはく、風の動ずるなり。
かくのごとく相論往來して休歇せざるに、六いはく、風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動なり。
ききてすみやかに信受す。
この二は西天よりきたれりけるなり。しかあればすなはち、この道著は風も幡も動も、ともに心にてあると、六は道取するなり。まさにいま六の道をきくといへども、六の道をしらず。いはんや六の道得を道取することをえんや。爲甚麼恁麼道(甚麼としてか恁麼道ふ)。
いはゆる仁者心動の道をききて、すなはち仁者心動といはんとしては、仁者心動と道取するは、六をみず、六をしらず、六の法孫にあらざるなり。いま六の兒孫として、六の道を道取し、六の身體髪膚をえて道取するには、恁麼いふべきなり。いはゆる仁者心動はさもあらばあれ、さらに仁者動といふべし。爲甚麼恁麼道。
いはゆる動者動なるがゆゑに、仁者仁者なるによりてなり。是恁麼人なるがゆゑに恁麼道なり。
のむかしは新州の樵夫なり。山をもきはめ、水をもきはむ。たとひ松の下に功夫して根源を截斷せりとも、なにとしてか明窓のうちに從容して、照心の古ありとしらん。澡雪たれにかならふ。いちにありて經をきく、これみづからまちしところにあらず、他のすすむるにあらず。いとけなくして父を喪し、長じては母をやしなふ。しらず、このころもにかかれりける一顆珠の乾坤を照破することを。たちまちに發明せしより、老母をすてて知識をたづぬ、人のまれなる儀なり。恩愛のたれかかろからん。法をおもくして恩愛をかろくするによりて棄恩せしなり。これすなはち有智若聞、能信解(智有るもの若し聞かば、ち能く信解す)の道理なり。
いはゆる智は、人に學せず、みづからおこすにあらず。智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。五百の蝙蝠は智おのづから身をつくる。さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば解するなり。きたるにあらず、入にあらず。たとへば、東君の春にあふがごとし。智は有念にあらず、智は無念にあらず。智は有心にあらず、智は無心にあらず。いはんや大小にかかはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。いふところは、佛法はいかにあることともしらず、さきより聞取するにあらざれば、したふにあらず、ねがふにあらざれども、聞法するに、恩をかろくし身をわするるは、有智の身心すでに自己にあらざるがゆゑにしかあらしむるなり。これを能信解といふ。しらず、いくめぐりの生死にか、この智をもちながら、いたづらなる塵勞にめぐる。なほし石の玉をつつめるが、玉も石につつまれりともしらず、石も玉をつつめりともしらざるがごとし。人これをしる、人これを採。これすなはち玉の期せざるところ、石のまたざるところ、石の知見によらず、玉の思量にあらざるなり。すなはち人と智とあひしらざれども、道かならず智にきかるるがごとし。
無智疑怪、爲永失(智無きは疑怪す、ち爲めに永く失ふ)といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松なる有あり、秋菊なる無あり。この無智のとき、三菩提みな疑怪となる、盡法みな疑怪なり。このとき永失爲なり。所聞すべき道、所證なるべき法、しかしながら疑怪なり。われにあらず、界かくるるところなし。たれにあらず、萬里一條鐵なり。たとひ恁麼して抽枝なりとも、十方佛土中、唯有一乘法なり。たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり。是恁麼事なるによりて、有智と無智と、日面と月面となり。
恁麼人なるがゆゑに、六も發明せり。つひにすなはち黄梅山に參じて大滿禪師を拜するに、行堂に投下せしむ。晝夜に米を碓こと、わづかに八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大滿みづからひそかに碓房にいたりて六にとふ、米白也未(米白まれりや未だしや)と。
いはく、白也未有篩在(白けれども未だ篩ること有らず)。
大滿つゑして臼をうつこと三下するに、六、箕にいれる米をみたび簸る。このときを、師資の道あひかなふといふ。みづからもしらず、他も不會なりといへども、傳法傳衣、まさしく恁麼の正當時節なり。

南嶽山無際大師、ちなみに藥山とふ、三乘十二分某甲粗知。嘗聞南方直指人心、見性成佛、實未明了。伏望和尚、慈悲指示(三乘十二分は某甲粗知れり。嘗て聞く、南方の直指人心、見性成佛、實に未だ明了ならず。伏望すらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを)。
これ藥山の問なり。藥山は本爲講者なり。三乘十二分は通利せりけるなり。しかあれば、佛法さらに昧然なきがごとし。むかしは別宗いまだおこらず、ただ三乘十二分をあきらむるを學の家風とせり。いまの人おほく鈍致にして、各各の宗旨をたてて佛法を度量する、佛道の法度にあらず。
大師いはく、恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼總不得、汝作麼生(恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼不恁麼に不得なり。汝作麼生)。
これすなはち大師の藥山のためにする道なり。まことにそれ恁麼不恁麼不得なるゆゑに、恁麼不得なり、不恁麼不得なり。恁麼は恁麼をいふなり。有限の道用にあらず、無限の道用にあらず、恁麼は不得に參學すべし、不得は恁麼に問取すべし。這箇の恁麼および不得、ひとへに佛量のみにかかはれるにあらざるなり。會不得なり、悟不得なり。

曹谿山大鑑禪師、ちなみに南嶽大慧禪師にしめすにいはく、是什麼物恁麼來。
この道は、恁麼はこれ不疑なり、不會なるがゆゑに、是什麼物なるがゆゑに、萬物まことにかならず什麼物なると參究すべし。一物まことにかならず什麼物なると參究すべし。什麼物は疑著にはあらざるなり、恁麼來なり。

正法眼藏恁麼第十七

爾時仁治三年壬寅三月二十日在于觀音導利興聖寶林寺示衆
元元年癸卯四月十四日書寫之侍者寮 懷弉