第十六 行持 上

の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強爲にあらず、他の強爲にあらず、不曾染汚の行持なり。
この行持の功、われを保任し、他を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天みなその功をかうむる。他もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。このゆゑに、の行持によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて佛の行持見成し、佛の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功あり。これによりて、佛佛、佛住し、佛非し、佛心し、佛成じて斷絶せざるなり。この行持によりて日月星辰あり、行持によりて大地空あり、行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり。行持これ世人の愛處にあらざれども、人の實歸なるべし。過去現在未來の佛の行持によりて、過去現在未來の佛は現成するなり。その行持の功、ときにかくれず、かるがゆゑに發心修行す。その功、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覺知せず。あらはれざれども、かくれずと參學すべし。隱顯存沒に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの當隱に、これいかなる起の法ありて行持すると不會なるは、行持の會取、さらに新條の特地にあらざるによりてなり。起は行持なり、行持は起せざるがゆゑにと、功夫參學を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。行持のいまは自己の本有元住にあらず、行持のいまは自己に去來出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。
しかあればすなはち、一日の行持、これ佛の種子なり、佛の行持なり。この行持に佛見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、佛をいとひ、佛を供養せず、行持をいとひ、佛と同生同死せず、同學同參せざるなり。いまの花開葉落、これ行持の見成なり。磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。このゆゑに行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこころざすににたれども、眞父の家に寶財をなげすてて、さらに他國の窮子となる。のときの風水、たとひ身命を喪失せしめずといふとも、眞父の寶財なげすつべきにあらず。眞父の法財なほ失誤するなり。このゆゑに、行持はしばらくも懈倦なき法なり。

慈父大師釋牟尼佛、十九歳の佛壽より、深山に行持して、三十歳の佛壽にいたりて、大地有同時成道の行持あり。八旬の佛壽にいたるまで、なほ山林に行持し、藍に行持す。王宮にかへらず、國利を領ぜず、布伽梨を衣持し、在世に一經するに互換せず、一盂在世に互換せず。一時一日も獨處することなし。人天の閑供養を辭せず、外道の謗を忍辱す。おほよそ一化は行持なり、淨衣乞食の佛儀、しかしながら行持にあらずといふことなし。

第八摩訶葉尊者は、釋尊の嫡嗣なり。生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。十二頭陀といふは、
一者不受人、日行乞食。亦不受比丘食分錢財(一つには人のを受けず、日に乞食を行ず。亦比丘の一食分の錢財を受けず)。
二者止宿山上、不宿人舍郡縣聚落(二つには山上に止宿して、人舍郡縣聚落に宿せず)。
三者不得從人乞衣被、人與衣被亦不受。但取丘間死人所棄衣、補治衣之(三つには人に從つて衣被を乞ふことを得ず、人の與ふる衣被をも亦受けず。但丘間の、死人の棄つる所の衣を取つて、補治して之を衣る)。
四者止宿野田中樹下(四つには野田の中の樹下に止宿す)。
五者一日一食。一名泥(五つには一日に一食す。一は泥と名づく)。
六者晝夜不臥、但坐睡經行。一名泥沙者傴(六つには晝夜不臥なり、但坐睡經行す。一は泥沙者傴と名づく)。
七者有三領衣、無有餘衣。亦不臥被中(七つには三領衣を有ちて、餘衣を有すること無し。亦被中に臥せず)。
八者在間、不在佛寺中、亦不在人間。目視死人骸骨、坐禪求道(八つには間に在んで、佛寺の中に在まず、亦人間に在まず。目に死人骸骨を視て、坐禪求道す)。
九者但欲獨處。不欲見人、亦不欲與人共臥(九つには但獨處を欲ふ。人を見んと欲はず、亦人と共に臥せんと欲はず)。
十者先食果、却食。食已不得復食果(十には先に果を食し、却りてを食す。食し已りて復果を食することを得ず)。
十一者但欲露臥、不在樹下屋宿(十一には但だ露臥を欲ふ、樹下屋宿に在まず)。
十二者不食肉、亦不食醍醐。油不塗身(十二には肉を食せず、亦醍醐を食せず。油身に塗らず)。
これを十二頭陀といふ。摩訶葉尊者、よく一生に不退不轉なり。如來の正法眼藏を正傳すといへども、この頭陀を退することなし。
あるとき佛言すらく、なんぢすでに年老なり、食を食すべし。
摩訶葉尊者いはく、われもし如來の出世にあはずは、辟支佛となるべし、生前に山林に居すべし。さいはひに如來の出世にあふ、法のうるひあり。しかりといふとも、つひに食を食すべからず。
如來稱讃しまします。
あるいは葉、頭陀行持のゆゑに、形體憔悴せり。衆みて輕忽するがごとし。ときに如來、ねんごろに葉をめして、半座をゆづりまします。葉尊者、如來の座に坐す。しるべし、摩訶葉は佛會の上座なり。生前の行持、ことごとくあぐべからず。

第十波栗濕縛尊者は、一生脇不至席なり。これ八旬老年の辨道なりといへども、當時すみやかに大法を單傳す。これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、わづかに三箇年の功夫なりといへども、三菩提の正眼を單傳す。尊者の在胎六十年なり、出胎白髪なり。
誓不屍臥、名脇尊者。乃至暗中手放光明、以取經法(誓つて屍臥せず、脇尊者と名づく。乃至暗中に手より光明を放つて、以て經法を取る)。
これ生得の奇相なり。
脇尊者、生年八十、垂家染衣。城中少年、便誚之曰、愚夫朽老、一何淺智。夫出家者、有二業焉。一則定、二乃誦經。而今衰耄、無所進取。濫迹流、徒知食(脇尊者、生年八十にして、家染衣せんと垂。城中の少年、便ち之を誚めて曰く、愚夫朽老なり、一に何ぞ淺智なる。夫れ出家は、二業有り。一には則ち定、二には乃ち誦經なり。而今衰耄せり、進取する所無けん。濫に流に迹し、徒に食することを知らんのみ)。
時脇尊者、聞譏議、因謝時人、而自誓曰、我若不通三藏理、不斷三界欲、不得六通、不具八解、終不以脇至於席(時に脇尊者、の譏議を聞いて、因みに時の人に謝して、而も自ら誓て曰く、我れ若し三藏の理を通ぜず、三界の欲を斷ぜず、六通を得ず、八解を具せずは、終に脇を以て席に至けじ)。
自爾之後、唯日不足、經行宴坐、住立思惟。晝則研、夜乃靜慮凝。綿歴三歳、學通三藏、斷三界欲、得三明智。時人敬仰、因號脇尊者(爾より後、唯日も足らず、經行宴坐し、住立思惟す。晝は則ち理を研し、夜は乃ち靜慮凝す。三藏を綿歴するに、學三藏を通じ、三界の欲を斷じ、三明の智を得。時の人敬仰して、因に脇尊者と號す)。
しかあれば、脇尊者處胎六十年はじめて出胎せり。胎内に功夫なからんや。出胎よりのち八十にならんとするに、はじめて出家學道をもとむ。託胎よりのち一百四十年なり。まことに不群なりといへども、朽老は阿誰よりも朽老ならん。處胎にて老年あり、出胎にても老年なり。しかあれども、時人の譏嫌をかへりみず、誓願の一志不退なれば、わづかに三歳をふるに、辨道現成するなり。たれか見賢思齊をゆるくせむ、年老耄及をうらむることなかれ。
この生しりがたし、生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。四見すでにおなじからず、類の見おなじからず。ただ志氣を專修にして、辨道功夫すべきなり。辨道に生死をみるに相似せりと參學すべし、生死に辨道するにはあらず。いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辨道をさしおかんとするは至愚なり。生來たとひいくばくの年月と覺知すとも、これはしばらく人間の魂の活計なり、學道の消息にあらず。壯齡耄及をかへりみることなかれ、學道究辨を一志すべし。脇尊者に齊肩なるべきなり。
間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。無主の形骸いたづらに野せんとき、眼睛をつくるがごとく正觀すべし。

は新州の樵夫なり、有識と稱じがたし。いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。樵夫の業を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞經よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。これ奇代の大器なり、拔群の辨道なり。斷臂たとひ容易なりとも、この割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。黄梅の會に投じて八箇月、ねぶらず、やすまず、晝夜に米をつく。夜半に衣鉢を正傳す。得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。出世度人法するにも、この石臼をさしおかず、希世の行持なり。

江西馬の坐禪することは二十年なり。これ南嶽の密印を稟受するなり。傳法濟人のとき、坐禪をさしおくと道取せず。參學のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。普作務のところに、かならず先赴す。老にいたりて懈倦せず。いまの臨濟は江西の流なり。

雲巖和尚と道悟と、おなじく藥山に參學して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味參究す。法を洞山の悟本大師に傳付す。
洞山いはく、われ、欲打成一片、坐禪辨道已二十年(一片に打成せんと欲して、坐禪辨道すること已に二十年なり)。
いまその道、あまねく傳付せり。

雲居山弘覺大師、そのかみ三峰庵に住せしとき、天廚送食す。大師あるとき洞山に參じて、大道を決擇して、さらに庵にかへる。天使また食を再送して師を尋見するに、三日をへて師をみることをえず。天廚をまつことなし、大道を所宗とす。辨肯の志氣、おもひやるべし。

百丈山大智禪師、そのかみ馬の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、一日も爲衆爲人の勤仕なき日あらず。かたじけなく一日不作、一日不食のあとをのこすといふは、百丈禪師すでに年老臘高なり。なほ普作務のところに、壯齡と同じく勵力す。衆、これをいたむ。人、これをあはれむ。師、やまざるなり。つひに作務のとき、作務の具をかくして師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。衆の作務にくははらざることをうらむる意旨なり。これを百丈の一日不作、一日不食のあとといふ。いま大宋國に流傳せる臨濟の玄風ならびに方叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。

和尚住院のとき、土地かつて師顔をみることをえず、たよりをえざるによりてなり。
三平山義忠禪師、そのかみ天廚送食す。大巓をみてのちに、天また師をもとむるに、みることあたはず。

後大和尚いはく、我二十年在山、喫、不參山道。只牧得一頭水牛、終日露廻廻也(我れ二十年山に在て、山のを喫し、山のし、山道に參ぜず。只一頭の水牛を牧得して、終日露廻廻なり)。
しるべし、一頭の水牛は二十年在山の行持より牧得せり。この師、かつて百丈の會下に參學しきたれり。しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするる時なかれ。たとひ參山道する人ありとも、不參山道の行持はまれなるべし。

趙州觀音院眞際大師從和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて發心求道をこころざす。瓶錫をたづさへて行脚し、遍歴方するに、つねにみづからいはく、七歳童兒、若勝我者、我問伊。百歳老翁、不及我者、我他(七歳の童兒なりとも、若し我れよりも勝れば、我ち伊に問ふべし。百歳の老翁も、我に及ばざれば、我ち他をふべし)。
かくのごとくして南泉の道を學得する功夫、すなはち二十年なり。年至八十のとき、はじめて趙州城東觀音院に住して、人天を化導すること四十年來なり。いまだかつて一封の書をもて檀那につけず。堂おほきならず、前架なし、後架なし。あるとき、牀脚をれき。一隻の燒斷の燼木を、繩をもてこれをゆひつけて、年月を經歴し修行するに、知事この牀脚をかへんとずるに、趙州ゆるさず。古佛の家風、きくべし。
趙州の趙州に住することは八旬よりのちなり、傳法よりこのかたなり。正法正傳せり、人これを古佛といふ。いまだ正法正傳せざらん餘人は師よりもかろかるべし、いまだ八旬にいたらざらん餘人は師よりも強健なるべし。壯年にして輕爾ならんわれら、なんぞ老年の崇重なるとひとしからん。はげみて辨道行持すべきなり。
四十年のあひだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。あるいは栗子椎子をひろふて食物にあつ、あるいは旋轉食す。まことに上古龍象の家風なり、戀慕すべき操行なり。
あるとき衆にしめしていはく、若一生不離叢林、不語十年五載、無人換作唖漢、已後佛也不奈何(若し一生叢林を離れず、不語なること十年五載ならんには、人のを喚んで唖漢と作る無し、已後には佛も也不奈何ならん)。これ行持をしめすなり。
しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似せりといへども、不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。佛道かくのごとし。佛道聲をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。不離叢林は落なる全語なり。至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。阿誰か遮障せざれども、しらせざるなり。不唖漢なるを得恁麼なりときかず、得恁麼なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。不離叢林の行持、しづかに行持すべし。東西の風に東西することなかれ。十年五載の春風秋月、しらざれども聲色透の道あり。その道得、われに不知なり、われに不會なり。行持の寸陰を可惜許なりと參學すべし。不語を空然なるとあやしむことなかれ。入之一叢林なり、出之一叢林なり。鳥路一叢林なり、界一叢林なり。

大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禪師その本元なり。禪師は襄陽人なり。かつて馬の會に參じてとふ、如何是佛と。
云く、心是佛と。
法常このことばをききて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に獨居す。松實を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷おほし。坐禪辨道すること三十餘年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。
師の坐禪には、八寸の鐵塔一基を頂上におく、如載寶冠なり。この塔を落地却せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下に交割す。かくのごとく辨道すること、死にいたりて懈倦なし。
かくのごとくして年月を經歴するに、鹽官の會より一きたりて、山にいりて杖をもとむるちなみに、迷山路して、はからざるに師の庵所にいたる。不期のなかに師をみる、すなはちとふ、和尚、この山に住してよりこのかた、多少時也。
師いはく、只見四山又黄(只四山の又黄なるを見るのみ)。
このまたとふ、出山路、向什麼處去(出山の路、什麼の處に向ひてか去かん)。
師いはく、隨流去(流れに隨ひて去くべし)。
このあやしむこころあり。かへりて鹽官に擧似するに、鹽官いはく、そのかみ江西にありしとき、一を曾見す。それよりのち消息をしらず。莫是此否(是れ此のに莫ずや否や)。
つひにに命じて、師をずるに出山せず。偈をつくりて答するにいはく、
摧殘枯木倚寒林、
幾度逢春不變心。
樵客遇之猶不顧、
郢人那得苦追尋。
(摧殘の枯木寒林に倚る、幾度か春に逢うて心を變ぜず。樵客之に遇うて猶顧みず、郢人那ぞ苦に追尋することを得ん。)
つひにおもむかず。これよりのちに、なほ山奥へいらんとせしちなみに、有頌するにいはく、
一池荷葉衣無盡、
數樹松花食有餘。
剛被世人知住處、
更移茅舍入深居。
(一池の荷葉衣るに盡くること無し、數樹の松花食するに餘有り。剛世人に住處を知らる、更に茅舍を移して深居に入る。)
つひに庵を山奥にうつす。
あるとき、馬ことさらをつかはしてとはしむ、和尚そのかみ馬を參見せしに、得何道理、便住此山(何の道理を得てか便ち此山に住する)なる。
師いはく、馬、われにむかひていふ、心是佛。すなはちこの山に住す。
いはく、近日は佛法また別なり。
師いはく、作麼生別なる。
いはく、馬いはく、非心非佛とあり。
師いはく、這老漢、ひとを惑亂すること了期あるべからず。任他非心非佛、我祗管心是佛(さもあらばあれ非心非佛、我れは祗管に心是佛なり)。
この道をもちて馬に擧似す。
いはく、梅子熟也(梅子熟せり)。
この因は、人天みなしれるところなり。天龍は師の足なり、倶胝は師の法孫なり。高麗の智は、師の法を傳持して本國の初なり。いま高麗の師は師の遠孫なり。
生前には一虎一象、よのつねに給侍す、あひあらそはず。師の圓寂ののち、虎象いしをはこび、泥をはこびて師の塔をつくる。その塔いま護聖寺に現存せり。
師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。劣慧のものはほむべしとしらず。貪名愛利のなかに佛法あらましと強爲するは小量の愚見なり。

山の法演禪師いはく、師翁はじめて楊岐に住せしとき、老屋敗椽して、風雨之敝はなはだし。ときに冬暮なり、殿堂ことごとく舊損せり。そのなかに堂ことにやぶれ、雪霰滿牀、居不遑處(雪霰牀に滿ちて、居、處るに遑あらず)なり。雪頂の耆宿なほ澡雪し、厖眉の尊年、皺眉のうれへあるがごとし。衆やすく坐禪することなし。衲子、投誠して修造せんことをぜしに、師翁却之いはく、我佛有言、時當減劫、高岸深谷、遷變不常。安得圓滿如意、自求稱足(我佛言へること有り、時、減劫に當つて、高岸深谷、遷變して常ならず。安くんぞ圓滿如意にして、自ら稱足なるを求むることを得ん)ならん。古往の聖人、おほく樹下露地に經行す。古來の勝躅なり、履空の玄風なり。なんだち出家學道する、做手脚なほいまだおだやかならず。わづかにこれ四五十歳なり、たれかいたづらなるいとまありて豐屋をこととせん。つひに不從なり。
翌日に上堂して、衆にしめしていはく、
楊岐乍住屋壁疎、
滿牀盡撒雪珍珠。
縮却項、暗嗟嘘、
憶古人樹下居。
(楊岐乍めて住す屋壁疎かなり、滿牀盡く雪の珍珠を撒らす。項を縮却て、暗に嗟嘘す、つて憶ふ、古人樹下に居せしことを。)
つひにゆるさず。
しかあれども、四海五湖の雲衲霞袂、この會に掛錫するを、ねがふところとせり。耽道の人おほきことをよろこぶべし。この道、こころにそむべし、この語、みに銘すべし。
演和尚、あるときしめしていはく、行無越思、思無越行(行は思を越ゆることなく、思は行を越ゆることなし)。
この語、おもくすべし。日夜思之、朝夕行之(日夜に之を思ひ、朝夕に之を行ふ)、いたづらに東西南北の風にふかるるがごとくなるべからず。いはんやこの日本國は、王臣の宮殿なほその豐屋にあらず、わづかにおろそかなる白屋なり。出家學道の、いかでか豐屋に幽棲するあらん。もし豐屋をえたるは、邪命にあらざるなし、淨なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめてさらに經營することなかれ。草庵白屋は、古聖の所住なり、古聖の所愛なり。晩學したひ參學すべし、たがゆることなかれ。黄帝尭舜等は、俗なりといへども草屋に居す、世界の勝躅なり。
尸子曰、欲觀黄帝之行、於合宮。欲觀尭舜之行、於總章。黄帝明堂以草蓋之、名曰合宮。舜之明堂以草蓋之、名曰總章(尸子曰く、黄帝の行を觀んと欲はば、合宮に於てすべし。尭舜の行を觀んと欲はば、總章に於てすべし。黄帝の明堂は草を以て之を蓋く、名づけて合宮と曰ふ。舜の明堂は草を以て之を蓋く、名づけて總章と曰ふ)。
しるべし、合宮總章はともに草をふくなり。いま黄帝尭舜をもてわれらにならべんとするに、なほ天地の論にあらず。これなほ草蓋を明堂とせり。俗なほ草屋に居す、出家人いかでか高堂大觀を所居に擬せん。慚愧すべきなり。古人の樹下に居し、林間にすむ、在家出家ともに愛する所住なり。黄帝は道人廣成の弟子なり、廣成はといふ巖のなかにすむ。いま大宋國の國王大臣、おほくこの玄風をつたふるなり。
しかあればすなはち、塵勞中人なほかくのごとし。出家人いかでか塵勞中人より劣ならん、塵勞中人よりもにごれらん。向來の佛のなかに、天の供養をうくるおほし。しかあれども、すでに得道のとき、天眼およばず、鬼たよりなし。そのむね、あきらむべし。天衆道もし佛の行履をふむときは、佛にちかづくみちあり。佛あまねく天衆道を超證するには、天衆道はるかに見上のたよりなし、佛のほとりにちかづきがたきなり。
南泉いはく、老修行のちからなくして鬼見せらる。しるべし、無修の鬼見せらるるは、修行のちからなきなり。

太白山宏智禪師正覺和尚の會に、護伽藍いはく、われきく、覺和尚この山に住すること十餘年なり。つねに寢堂にいたりてみんとするに、不能前なり、未之識なり。
まことに有道の先蹤にあひあふなり。この天童山は、もとは小院なり。覺和尚の住裡に、道士觀、尼寺、院等を掃除して、いまの景寺となせり。
師、遷化ののち、左朝奉大夫侍御史王伯庠、因に師の行業記を記するに、ある人いはく、かの道士觀、尼寺、院をうばひて、いまの天童寺となせることを記すべし。御史いはく不可也。此事非矣(不可なり、此の事、に非ず)。ときの人、おほく侍御史をほむ。
しるべし、かくのごとくの事は俗の能なり、にあらず。おほよそ佛道に登入する最初より、はるかに三界の人天をこゆるなり。三界の所使にあらず、三界の所見にあらざること、審細に咨問すべし。身口意および依正をきたして功夫參究すべし。佛行持の功、もとより人天を濟度する巨ありとも、人天さらに佛の行持にたすけらるると覺知せざるなり。
いま佛の大道を行持せんには、大隱小隱を論ずることなく、聰明鈍癡をいとふことなかれ。ただながく名利をなげすてて、萬に繋縛せらるることなかれ。光陰をすごさず、頭燃をはらふべし。大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶なり。不悟をねがふことなかれ、不悟は髻中の寶珠なり。ただまさに家あらんは家をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんも又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理あきらかなり。それすなはち一條の行事なり。生前に名利をなげすてて一事を行持せん、佛壽長遠の行事なり。いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。

大慈寰中禪師いはく、得一丈、不如行取一尺。得一尺、不如行取一寸(一丈を得せんよりは、一尺を行取せんに如かず。一尺を得せんよりは、一寸を行取せんに如かず)。
これは、時人の行持おろそかにして佛道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈のは不是とにはあらず、一尺の行は一丈よりも大功なりといふなり。なんぞただ丈尺の度量のみならん、はるかに須彌と芥子との論功もあるべきなり。須彌に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節、これかくのごとし。いまの道得は寰中の自爲道にあらず、寰中の自爲道なり。

洞山悟本大師道、取行不得底、行取不得底(行不得底を取し、不得底を行取す)。
これ高の道なり。その宗旨は、行はに通ずるみちをあきらめ、の行に通ずるみちあり。しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、不得底を取するなり。
雲居山弘覺大師、この道を七通八達するにいはく、時無行路、行時無路。
この道得は、行なきにあらず、その時は、一生不離叢林なり。その行時は、洗頭到雪峰前なり。時無行路、行時無路、さしおくべからず、みだらざるべし。

古來の佛いひきたれることあり、いはゆる若人生百歳、不會佛機、未若生一日、而能決了之(若し人、生きて百歳あらんも、佛の機を會せずは、未だ生きて一日にして、能く之を決了せんには若かじ)。
これは一佛二佛のいふところにあらず、佛の道取しきたれるところ、佛の行取しきたれるところなり。百千萬劫の囘生囘死のなかに、行持ある一日は、髻中の明珠なり、同生同死の古鏡なり。よろこぶべき一日なり、行持力みづからよろこばるるなり。行持のちからいまだいたらず、佛の骨髓うけざるがごときは、佛の身心ををしまず、佛の面目をよろこばざるなり。佛の面目骨髓、これ不去なり、如去なり、如來なり、不來なりといへども、かならず一日の行持に稟受するなり。しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は聲色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。この一日の身命はたふとぶべき身命なり。たふとぶべき形骸なり。かるがゆゑに、いけらんこと一日ならんは、佛の機を會せば、この一日を曠劫多生にもすぐれたりとするなり。このゆゑに、いまだ決了せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重寶なり。尺璧の價直に擬すべからず、驪珠にかふることなかれ。古賢をしむこと身命よりもすぎたり。
しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたたびうることなからん。いづれの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり。もしいたづらにすごさざるは、日月を皮袋に包含して、もらさざるなり。しかあるを、古聖先賢は、日月ををしみ光陰ををしむこと、眼睛よりもをしむ、國土よりもをしむ。そのいたづらに蹉過するといふは、名利の浮世に濁亂しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは、道にありながら道のためにするなり。
すでに決了することをえたらん、又一日をいたづらにせざるべし。ひとへに道のために行取し、道のために取すべし。このゆゑにしりぬ、古來の佛いたづらに一日の功夫をつひやさざる儀、よのつねに觀想すべし。遲遲花日も明窓に坐しておもふべし、蕭蕭雨夜も白屋に坐してわするることなかれ。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家ぞ。うらむべし、わが不修のしかあらしむるなるべし。われ、われとしたしからず、われ、われをうらむるなり。佛も恩愛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。佛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。たとひをしむとも、自他の因をしまるべきにあらざるがゆゑに。われもし恩愛をなげすてずは、恩愛かへりてわれをなげすつべき云爲あるなり。恩愛をあはれむべくは恩愛をあはれむべし。恩愛をあはれむといふは、恩愛をなげすつるなり。

南嶽大慧禪師懷讓和尚、そのかみ曹谿に參じて、執侍すること十五秋なり。しかうして傳道授業すること、一器水瀉一器(一器の水を一器に寫す)なることをえたり。古先の行履、もとも慕古すべし。十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども純一に究辨す、これ晩進の龜鏡なり。寒爐に炭なく、ひとり堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解なくとも、無爲の絶學なり。これ行持なるべし。
おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日日に行持の積功のみなり。このむね、わするることなかれ。似一物不中は、八箇年の行持なり。古今まれなりとするところ、賢不肖ともにこひねがふ行持なり。

香嚴の智閑禪師は、大に耕道せしとき、一句を道得せんとするに數番つひに道不得なり。これをかなしみて、書籍を火にやきて、行粥となりて年月を經歴しき。のちに武當山にいりて、大證の舊跡をたづねて結草爲庵し、放下幽棲す。一日わづかに道路を併淨するに、礫のほどばしりて竹にあたりて聲をなすによりて、忽然として悟道す。のちに香嚴寺に住して、一盂一衲を平生に不換なり。奇巖泉をしめて、一生偃息の幽棲とせり。行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。

臨濟院慧照大師は、黄檗の嫡嗣なり。黄檗の會にありて三年なり。純一に辨道するに、睦州陳尊宿の訓によりて、佛法の大意を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫す。なほ勵志たゆむことなし。大愚にいたりて大悟することも、すなはち黄檗睦州兩尊宿の訓なり。席の英雄は臨濟山といふ。しかあれども、山いかにしてか臨濟におよばん。まことに臨濟のごときは群に群せざるなり。そのときの群は、近代の拔群よりも拔群なり。行業純一にして行持拔群せりといふ、幾枚幾般の行持なりとおもひ、擬せんとするに、あたるべからざるものなり。
師在黄檗、與黄檗栽杉松次、黄檗問師曰、深山裏、栽許多樹作麼(師、黄檗に在りしとき、黄檗と與に杉松を栽うる次でに、黄檗、師に問うて曰く、深山の裏に、許多の樹を栽ゑて作麼)。
師曰、一與山門爲境致、二與後人作標榜、乃將鍬拍地兩下(師曰く、一には山門の與に境致と爲し、二には後人の與に標榜と作す、乃ち鍬を將て地を拍つこと兩下す)。
黄檗拈起杖曰、雖然如是、汝已喫我三十棒了也(黄檗杖を拈起して曰く、然も是の如くなりと雖も、汝已に我が三十棒を喫し了れり)。
師作嘘嘘聲(師、嘘嘘聲をなす)。
黄檗曰、吾宗到汝大興於世(黄檗曰く、吾が宗汝に到つて大きに世に興らん)。
しかあればすなはち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄をたづさへけるとしるべし。吾宗到汝大興於世、これによるべきものならん。栽松道者の古蹤、まさに單傳直指なるべし。黄檗も臨濟とともに栽樹するなり。黄檗のむかしは、衆して、大安舍の勞侶に混迹して、殿堂を掃洒する行持あり。佛殿を掃洒し、法堂を掃洒す。心を掃洒すると行持をまたず、ひかりを掃洒すると行持をまたず。裴相國と相見せし、この時節なり。

唐宣宗皇帝は、憲宗皇帝第二の子なり。少而より敏黠なり。よのつねに結跏趺坐を愛す。宮にありてつねに坐禪す。穆宗は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷に、宣宗すなはち戲而して、龍牀にのぼりて、揖群臣勢をなす。大臣これをみて心風なりとす。すなはち穆宗に奏す。穆宗みて宣宗を撫而していはく、我弟乃吾宗之英冑也(我が弟は乃ち吾が宗の英冑なり)。ときに宣宗、としはじめて十三なり。
穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。敬宗父位をつぎて、三年に崩ず。文宗繼位するに、一年といふに、内臣謀而、これを易す。武宗位するに、宣宗いまだ位せずして、をひのくににあり。武宗つねに宣宗をよぶに癡叔といふ。武宗は會昌の天子なり。佛法を癈せし人なり。武宗あるとき宣宗をめして、昔日ちちのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺して、後花園のなかにおきて、不淨を潅するに復生す。
つひに父王の邦をはなれて、ひそかに香嚴禪師の會に參して、剃頭して沙彌となりぬ。しかあれど、いまだ不具戒なり。志閑禪師をともとして遊方するに、盧山にいたる。因に志閑みづから瀑布を題していはく、
穿崖透石不辭勞、
遠地方知出處高。
(崖を穿ち石を透して勞を辭せず、遠地方に知るぬ出處の高きことを。)
この兩句をもて、沙彌を釣他して、これいかなる人ぞとみんとするなり。沙彌これを續していはく、
谿澗豈能留得住、
終歸大海作波涛。
(谿澗豈能く留め得て住めんや、終に大海に歸して波涛と作る。)
この兩句をみて、沙彌はこれつねの人にあらずとしりぬ。
のちに杭州鹽官齊安國師の會にいたりて書記に充するに、黄檗禪師、ときに鹽官の首座に充す。ゆゑに黄檗と連單なり。黄檗、ときに佛殿にいたりて禮佛するに、書記いたりてとふ、不著佛求、不著法求、不著求、長老用禮何爲(佛に著いて求めず、法に著いて求めず、に著いて求めず、長老禮を用ゐて何にかせん)。
かくのごとく問著するに、黄檗便掌して、沙彌書記にむかひて道す、不著佛求、不著法求、不著求、常禮如是事(佛に著て求めず、法に著て求めず、に著て求めず、常に如是の事を禮す)。
かくのごとく道しをはりて、又掌すること一掌す。
書記いはく、太麁生なり。
黄檗いはく、遮裏是什麼所在、更什麼麁細(遮裏は是れ什麼なる所在なればか、更に什麼の麁細をかく)。
また書記を掌すること一掌す。
書記ちなみに休去す。
武宗ののち、書記つひに還俗して位す。武宗の癈佛法を癈して、宣宗すなはち佛法を中興す。宣宗は位在位のあひだ、つねに坐禪をこのむ。未位のとき、父王のくにをはなれて、遠地の谿澗に遊方せしとき、純一に辨道す。位ののち、晝夜に坐禪すといふ。まことに父王すでに崩御す、兄帝また晏駕す、をひのために打殺せらる。あはれむべき窮子なるがごとし。しかあれども、勵志うつらず辨道功夫す、奇代の勝躅なり、天眞の行持なるべし。

雪峰眞覺大師義存和尚、かつて發心よりこのかた、掛錫の叢林および行程の接待、みちはるかなりといへども、ところをきらはず、日夜の坐禪おこたることなし。雪峰草創の露堂堂にいたるまで、おこたらずして坐禪と同死す。咨參のそのかみは九上洞山、三到投子する、奇世の辨道なり。行持の嚴をすすむるには、いまの人おほく雪峰高行といふ。雪峰の昏昧は人とひとしといへども、雪峰の伶俐は、人のおよぶところにあらず。これ行持のしかあるなり。いまの道人、かならず雪峰の澡雪をまなぶべし。しづかに雪峰の方に參學せし筋力をかへりみれば、まことに宿有靈骨の功なるべし。
いま有道の宗匠の會をのぞむに、眞實參せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。ただ二十、三十箇の皮袋にあらず、百千人の面面なり。おのおの實歸をもとむ、授手の日くれなんとす、打春の夜あけなんとす。あるいは師の普するときは、わが耳目なくしていたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。耆宿尊年の老古錐すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑを接するたよりなほまれなるがごとし。堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。光陰は矢よりもすみやかなり、露命は身よりももろし。師はあれどもわれ參不得なるうらみあり、參ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたりに見聞せしなり。
大善知識かならず人をしるあれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし、參學せざらんはかなしむべし。

正法眼藏行持第十六 上

仁治癸卯正月十八日書寫了
同三月八日校點了 懷弉