第八 心不可得
釋牟尼佛言、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。
これ佛の參究なり。不可得裏に過去現在未來の窟籠を來せり。しかれども、自家の宿籠をもちゐきたれり。いはゆる自家といふは、心不可得なり。而今の思量分別は、心不可得なり。使得十二時の渾身、これ心不可得なり。佛の入室よりこのかた、心不可得を會取す。いまだ佛の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著なし、見聞せざるなり。經師論師のやから、聲聞覺のたぐひ、夢也未見在なり。
その驗ちかきにあり、いはゆる山宣鑑禪師、そのかみ金剛般若經をあきらめたりと自稱す、あるいは周金剛王と自稱す。ことに龍疏をよくせりと稱ず。さらに十二擔の書籍を撰集せり、齊肩の講者なきがごとし。しかあれども、文字法師の末流なり。あるとき、南方に嫡嫡相承の無上佛法あることをききて、いきどほりにたへず、經疏をたづさへて山川をわたりゆく。ちなみに龍潭の信禪師の會にあへり。かの會に投ぜんとおもむく、中路に歇息せり。ときに老婆子きたりあひて、路側に歇息せり。
ときに鑑講師とふ。なんぢはこれなに人ぞ。
婆子いはく、われは買餠の老婆子なり。
山いはく、わがためにもちひをうるべし。
婆子いはく、和尚もちひをかうてなにかせん。
山いはく、もちひをかうて點心にすべし。
婆子いはく、和尚のそこばくたづさへてあるは、それなにものぞ。
山いはく、なんぢきかずや、われはこれ周金剛王なり。金剛經に長ぜり、通達せずといふところなし。わがいまたづさへたるは、金剛經の解釋なり。
かくいふをききて、婆子いはく、老婆に一問あり、和尚これをゆるすやいなや。
山いはく、われいまゆるす。なんぢ、こころにまかせてとふべし。
婆子いはく、われかつて金剛經をきくにいはく、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。いまいづれの心をか、もちひをしていかに點ぜんとかする。和尚もし道得ならんには、もちひをうるべし。和尚もし道不得ならんには、もちひをうるべからず。
山ときに茫然として祇對すべきところをおぼえざりき。婆子すなはち拂袖していでぬ。つひにもちひを山にうらず。
うらむべし、數百軸の釋主、數十年の講者、わづかに弊婆の一問をうるに、たちまちに負處に墮して、祇對におよばざること。正師をみると正師に師承せると、正法をきけると、いまだ正法をきかず正法をみざると、はるかにこのなるによりて、かくのごとし。
山このときはじめていはく、畫にかけるもちひ、うゑをやむるにあたはずと。
いまは龍潭に嗣法すと稱ず。
つらつらこの婆子と山と相見する因をおもへば、山のむかしあきらめざることは、いまきこゆるところなり。龍潭をみしよりのちも、なほ婆子を怕却しつべし。なほこれ參學の晩進なり、超證の古佛にあらず。婆子そのとき山を杜口せしむとも、實にその人なること、いまださだめがたし。そのゆゑは、心不可得のことばをききては、心、うべからず、心、あるべからずとのみおもひて、かくのごとくとふ。山もし丈夫なりせば、婆子を勘破するちからあらまし。すでに勘破せましかば、婆子まことにその人なる道理もあらはるべし。山いまだ山ならざれば、婆子その人なることもいまだあらはれず。
現在大宋國にある雲衲霞袂、いたづらに山の對不得をわらひ、婆子が靈利なることをほむるは、いとはかなかるべし、おろかなるなり。そのゆゑは、婆子を疑著する、ゆゑなきにあらず。いはゆるそのちなみ、山道不得ならんに、婆子なんぞ山にむかうていはざる、和尚いま道不得なり、さらに老婆にとふべし、老婆かへりて和尚のためにいふべし。
かくのごとくいひて、山の問をえて、山にむかうていふこと道是ならば、婆子まことにその人なりといふことあらはるべし。問著たとひありとも、いまだ道處あらず。むかしよりいまだ一語をも道著せざるをその人といふこと、いまだあらず。いたづらなる自稱の始終、そのなき、山のむかしにてみるべし。いまだ道處なきものをゆるすべからざること、婆子にてしるべし。
こころみに山にかはりていふべし、婆子まさしく恁麼問著せんに、山すなはち婆子にむかひていふべし、恁麼則莫與吾賣餠(恁麼ならば則ち吾が與に餠を賣ること莫れ)。
もし山かくのごとくいはましかば、伶利の參學ならん。
婆子もし山とはん、現在心不可得、過去心不可得、未來心不可得。いまもちひをしていづれの心をか點ぜんとかする。
かくのごとくとはんに、婆子すなはち山にむかふていふべし、和尚はただもちひの心を點ずべからずとのみしりて、心のもちひを點ずることをしらず、心の心を點ずることをもしらず。
恁麼いはんに、山さだめて擬議すべし。當恁麼時、もちひ三枚を拈じて山に度與すべし。山とらんと擬せんとき、婆子いふべし、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。
もし又山展手擬取せずば、一餠を拈じて山をうちていふべし、無魂屍子、莫茫然(無魂の屍子、茫然なること莫れ)。
かくのごとくいはんに、山いふことあらばよし、いふことなからんには、婆子さらに山のためにいふべし。ただ拂袖してさる、そでのなかに蜂ありともおぼえず。山も、われはいふことあたはず、老婆わがためにいふべしともいはず。
しかあれば、いふべきをいはざるのみにあらず、とふべきをもとはず。あはれむべし、婆子山、過去心、未來心、現在心、問著道著、未來心不可得なるのみなり。
おほよそ山それよりのちも、させる發明ありともみえず、ただあらあらしき造次のみなり。ひさしく龍潭にとぶらひせば、頭角觸折することもあらまし、頷珠を正傳する時節にもあはまし。わづかに吹滅紙燭をみる、傳燈に不足なり。
しかあれば、參學の雲水、かならず勤學なるべし、容易にせしは不是なり、勤學なりしは佛なり。おほよそ心不可得とは、畫餠一枚を買弄して、一口に咬著嚼著するをいふ。
正法眼藏第八
爾時仁治二年辛丑夏安居于雍州宇治郡觀音導利興聖寶林寺示衆