第六 行佛威儀
佛かならず威儀を行足す、これ行佛なり。行佛それ報佛にあらず、化佛にあらず、自性身佛にあらず、他性身佛にあらず。始覺本覺にあらず、性覺無覺にあらず。如是等佛、たえて行佛に齊肩することうべからず。
しるべし、佛の佛道にある、覺をまたざるなり。佛向上の道に行履を通達せること、唯行佛のみなり。自性佛等、夢也未見在なるところなり。この行佛は、頭頭に威儀現成するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄すること、亙時なり、亙方なり、亙佛なり亙行なり。行佛にあらざれば、佛縛法縛いまだ解せず、佛魔法魔に黨類せらるるなり。
佛縛といふは、菩提を菩提と知見解會する、知見、解會に縛せられぬるなり。一念を經歴するに、なほいまだ解の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相應の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無繩自縛なり。縛縛綿綿として樹倒藤枯にあらず。いたづらに佛邊の窟に活計せるのみなり。法身のやまふをしらず、報身の窮をしらず。
家經師論師等の佛道を遠聞せる、なほしいはく、於法性、起法性見、是無明(法性にして法性の見を起す、ち是れ無明なり)。この家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、發菩提心の種子となりぬべし。いま行佛、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。
かるがゆゑに我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上數(我れ本より菩薩道を行じて、成る所の壽命、今なほ未だ盡きず、また上の數に倍せり)なり。
しるべし、菩薩の壽命いまに連綿とあるにあらず、佛壽命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上數は、全所成なり。いひきたる今猶は、全壽命なり。我本行たとひ萬里一條鐵なりとも、百年抛却任縱横なり。
しかあればすなはち、修證は無にあらず、修證は有にあらず、修證は染汚にあらず。無佛無人の處在に百千萬ありといへども、行佛を染汚せず。ゆゑに行佛の修證に染汚せられざるなり。修證の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。
曹谿いはく、祗此不染汚、是佛之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天亦如是(ただ此の不染汚、是れ佛の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天のもまた是の如し)。
しかあればすなはち汝亦如是のゆゑに佛なり、吾亦如是のゆゑに佛なり。まことにわれにあらず、なんぢにあらず。この不染汚に、如吾是吾、佛所護念、これ行佛威儀なり。如汝是汝、佛所護念、これ行佛威儀なり。吾亦のゆゑに師勝なり、汝亦のゆゑに資強なり。師勝資強、これ行佛の明行足なり。しるべし、是佛之所護念と、吾亦なり、汝亦なり。曹谿古佛の道得、たとひわれにあらずとも、なんぢにあらざらんや。行佛之所護念、行佛之所通達、それかくのごとし。かるがゆゑにしりぬ、修證は性相本末等にあらず。行佛の去就これ果然として佛を行ぜしむるに、佛すなはち行ぜしむ。
ここに爲法身あり、爲身法あり。不惜身命あり、但惜身命あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。は無量なること、わするべからず。佛量を拈來して大道を測量し度量すべからず。佛量は一隅なり、たとへば花開のごとし。心量を擧來して威儀を摸索すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば世界のごとし。一莖草量、あきらかに佛心量なり。これ行佛の蹤跡を認ぜる一片なり。一心量たとひ無量佛量を包含せりと見徹すとも、行佛の容止動靜を量せんと擬するには、もとより過量の面目あり。過量の行履なるがゆゑに、不中なり、使不得なり、量不及なり。
しばらく、行佛威儀に一究あり。佛自と恁麼來せるに、吾亦汝亦の威儀、それ唯我能にかかはれりといふとも、すなはち十方佛然の落、これ同條のみにあらず。かるがゆゑに、
古佛いはく、體取那邊事、却來這裏行履(那邊の事を體取し、這裏に却來して行履せよ)。
すでに恁麼保任するに、法、身、行、佛、これ親切なり。この行法身佛、おのおの承當に礙あるのみなり。承當に礙あるがゆゑに、承當に落あるのみなり。眼礙の明明百草頭なる、不見一法、不見一物と動著することなかれ。這法に若至なり、那法に若至なり。拈來拈去、出入同門に行履する、界不曾藏なるがゆゑに、世尊の密語密證密行密付等あるなり。
出門便是草、入門便是草、萬里無寸草(門を出づれば是れ草、門を入るも是れ草、萬里無寸草無し)なり。入之一字、出之一字、這頭也不用得、那頭也不用得(入の一字、出の一字、這頭も不用得、那頭も不用得)なり。いまの把捉は、放行をまたざれども、これ夢幻空花なり。たれかこれを夢幻空花と將錯就錯せん。進歩也錯、退歩也錯、一歩也錯、兩歩也錯なるがゆゑに錯錯なり。天地懸隔するがゆゑに至道無難なり。威儀儀威、大道體と究竟すべし。
しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。その頭正尾正に、玉轉珠囘の威儀現前するなり。佛威儀の一隅を遣有するは、盡乾坤大地なり、盡生死去來なり。塵刹なり、蓮花なり。これ塵刹蓮花、おのおの一隅なり。
學人おほくおもはく、盡乾坤といふは、この南瞻部洲をいふならんと擬せられ、又この一四洲をいふならんと擬せられ、ただ又丹一國おもひにかかり、日本一國おもひにめぐるがごとし。又、盡大地といふも、ただ三千大千世界とおもふがごとし、わづかに一洲一縣をおもひにかくるがごとし。盡大地盡乾坤の言句を參學せんこと、三次五次もおもひめぐらすべし、ひろきにこそはとてやみぬることなかれ。この得道は、極大同小、極小同大の超佛越なるなり。大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども威儀行佛なり。佛佛の道趣する盡乾坤の威儀、盡大地の威儀、ともに不曾藏を界と參學すべし。界不曾藏なるのみにはあらざるなり。これ行佛一中の威儀なり。
佛道を著するに、胎生化生等は佛道の行履なりといへども、いまだ濕生卵生等を道取せず。いはんやこの胎卵濕化生のほかになほ生あること、夢也未見在なり。いかにいはんや胎卵濕化生のほかに、胎卵濕化生あることを見聞覺知せんや。いま佛佛の大道には、胎卵濕化生のほかの胎卵濕化生あること、不曾藏に正傳せり、親密に正傳せり。この道得、きかずならはず、しらずあきらめざらんは、なにの儻類なりとかせん。すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死萬死あるべきか。この道理わづかに疑著せんも、參學の分なり。
しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。又、死のみ單傳にして、生を單傳せざるありや。單生單死の類の有無、かならず參學すべし。わづかに無生の言句をききてあきらむることなく、身心の功夫をさしおくがごとくするものあり。これ愚鈍のはなはだしきなり。信法頓漸の論にもおよばざる畜類といひぬべし。ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無佛無道無心無滅なるべしや、無無生なるべしや、無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、いたづらに水草の但念なるがゆゑなり。
しるべし、生死は佛道の行履なり、生死は佛家の調度なり。使也要使なり、明也明得なり。ゆゑに佛はこの通塞に明明なり、この要使に得得なり。この生死の際にくらからん、たれかなんぢをなんぢといはん。たれかなんぢを了生達死漢といはん。生死にしづめりときくべからず、生死にありとしるべからず、生死を生死なりと信受すべからず、不會すべからず、不知すべからず。
あるいはいふ、ただ人道のみに佛出世す、さらに餘方餘道には出現せずとおもへり。いふがごとくならば、佛在のところ、みな人道なるべきか。これは人佛の唯我獨尊の道得なり。さらに天佛もあるべし、佛佛もあるべきなり。佛は唯人間のみに出現すといはんは、佛の奥にいらざるなり。
宗いはく、釋牟尼佛、自從葉佛所傳正法、往兜率天、化兜率陀天、于今有在(釋牟尼佛、葉佛の所にして正法を傳へてより、兜率天に往いて、兜率陀天を化して今に有在す)。
まことにしるべし、人間の釋は、このとき滅度現の化をしけりといへども、上天の釋は于今有在にして化天するものなり。學人しるべし、人間の釋の千變萬化の道著あり、行取あり、著あるは、人間一隅の放光現瑞なり。おろかに上天の釋、その化さらに千品萬門ならん、しらざるべからず。佛佛正傳する大道の、斷絶を超越し、無始無終を落せる宗旨、ひとり佛道のみに正傳せり。自餘の類、しらずきかざる功なり。行佛の設化するところには、四生あらざる衆生あり。天上人間法界等にあらざるところあるべし。行佛の威儀を見せんとき、天上人間のまなこをもちゐることなかれ、天上人間の量をもちゐるべからず。これを擧して測量せんと擬することなかれ。十聖三賢なほこれをしらずあきらめず、いはんや人中天上の測量のおよぶことあらんや。人量短小なるには識智も短小なり、壽命短促なるには思慮も短促なり。いかにしてか行佛の威儀を測量せん。
しかあればすなはち、ただ人間を擧して佛法とし、人法を擧して佛法を局量せる家門、かれこれともに佛子と許可することなかれ、これただ業報の衆生なり。いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし。從法生にあらず、從法滅にあらず、從法見にあらず、從法聞にあらず、從法行住坐臥にあらず。かくのごとくの儻類、かつて法の潤なし。行佛は本覺を愛せず、始覺を愛せず、無覺にあらず、有覺にあらずといふ、すなはちこの道理なり。
いま凡夫の活計する有念無念、有覺無覺、始覺本覺等、ひとへに凡夫の活計なり、佛佛相承せるところにあらず。凡夫の有念と佛の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。凡夫の本覺と活計すると、佛の本覺と證せると、天地懸隔なり、比論の所及にあらず。十聖三賢の活計、なほ佛の道におよばず。いたづらなる算沙の凡夫、いかでかはかることあらん。しかあるを、わづかに凡夫外道の本末の邪見を活計して、佛の境界とおもへるやからおほし。
佛いはく、此輩罪根深重なり、可憐愍者なり。
深重の罪根たとひ無端なりとも、此輩の深重擔なり。この深重擔、しばらく放行して著眼看すべし。把定して自己を礙すといふとも、起首にあらず。いま行佛威儀の無礙なる、ほとけに礙せらるるに、泥滯水の活路を通達しきたるゆゑに、無礙なり。上天にしては化天す、人間にしては化人す。花開の功あり、世界起の功あり。かつて間隙なきものなり。このゆゑに自他に迥あり、往來に獨拔あり。往兜率天なり、來兜率天なり、兜率天なり。往安樂なり、來安樂なり、安樂なり。迥兜率なり、迥安樂なり。打破百雜碎安樂兜率なり、把定放行安樂兜率なり、一口呑盡なり。
しるべし、安樂兜率といふは、淨土天堂ともに輪廻することの同般なるとなり。行履なれば、淨土天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行佛の鞋裏の動指なり。あるときは一道の放屁聲なり、放屎香なり。鼻孔あるは得す、耳處身處行履處あるに聽取するなり。又、得吾皮肉骨髓するときあり、さらに行得に他よりえざるものなり。
了生達死の大道すでに豁達するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす。
この宗旨あらはるる、古今のときにあらずといへども行佛の威儀忽爾として行盡するなり。道環として生死身心の宗旨すみやかに辨肯するなり。行盡明盡、これ強爲の爲にあらず、迷頭認影に大似なり。廻光返照に一如なり。その明上又明の明は、行佛に彌綸なり。これ行取に一任せり。この任任の道理、すべからく心を參究すべきなり。その參究の兀爾は、萬囘これ心の明白なり。三界ただ心の大隔なりと知及し會取す。この知及會取、さらに萬法なりといへども、自己の家を行取せり、當人の活計を便是なり。
しかあれば、句中取則し、言外求巧する再三撈、それ把定にあまれる把定あり、放行にあまれる放行あり。その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、いかなるかこれ身心、いかなるかこれ與奪、いかなるかこれ任違。それ同門出入の不相逢なるか、一著落在に藏身露角なるか。大慮而解なるか、老思而知なるか、一顆明珠なるか、一大藏なるか、一條杖なるか、一枚面目なるか。三十年後なるか、一念萬年なるか。子細に點し、點を子細にすべし。點の子細にあたりて、滿眼聞聲、滿耳見色、さらに沙門壹隻眼の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事なり。雍容の破顔あり、瞬目あり。これ行佛の威儀の暫爾なり。被物牽にあらず不牽物なり。起の無生無作にあらず、本性法性にあらず、住法位にあらず、本有然にあらず。如是を是するのみにあらず、ただ威儀行佛なるのみなり。
しかあればすなはち、爲法爲身の消息、よく心にまかす。生死の威儀、しばらくほとけに一任せり。ゆゑに道取あり、萬法唯心、三界唯心。さらに向上に道得するに、唯心の道得あり、いはゆる牆壁瓦礫なり。唯心にあらざるがゆゑに牆壁瓦礫にあらず。これ行佛の威儀なる、任心任法、爲法爲身の道理なり。さらに始覺本覺等の所及にあらず。いはんや外道二乘、三賢十聖の所及ならんや。この威儀、ただこれ面面の不會なり、枚枚の不會なり。たとひ活地も條條なり。一條鐵か、兩頭動か。一條鐵は長短にあらず兩頭動は自他にあらず。この展事投機のちから、功夫をうるに、威掩萬法(威、萬法を掩ふ)なり、眼高一世(眼、一世に高し)なり、收放をさへざる光明あり、堂佛殿廚庫三門。さらに收放にあらざる光明あり、堂佛殿廚庫三門なり。さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。心のまへあり、心のうしろあり。かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功の熾然なるゆゑに、不知有を保任せる三世佛あり、却知有を投機せる貍奴白あり。この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行佛のとき、法の行佛をゆるすなり。
雪峰山眞覺大師、衆に示して云く、三世佛、在火焔裏、轉大法輪(三世佛、火焔裏に在つて大法輪を轉ず)。
玄沙院宗一大師云、火焔爲三世佛法、三世佛立地聽(火焔ゝ三世佛の爲に法するに、三世佛地に立ちて聽く)。
圜悟禪師云、將謂猴白、更有猴黒、互換投機、出鬼沒(將に謂へり猴白と、更に猴黒有り。互換の投機、出鬼沒なり)。
烈焔亙天佛法、
亙天烈焔法佛。
風前剪斷葛藤、
一言勘破維摩詰。
(烈焔亙天は、佛、法をくなり、亙天烈焔は、法、佛をくなり。風前に剪斷す葛藤、一言に勘破す維摩詰。)
いま三世佛といふは、一切佛なり。行佛すなはち三世佛なり。十方佛、ともに三世にあらざるなし。佛道は三世をとくに、かくのごとく盡するなり。いま行佛をたづぬるに、すなはち三世佛なり。たとひ知有なりといへども、たとひ不知有なりといへども、かならず三世佛なる行佛なり。
しかあるに、三位の古佛、おなじく三世佛を道得するに、かくのごとくの道あり。しばらく雪峰のいふ三世佛、在火焔裏、轉大法輪といふ、この道理ならふべし。三世佛の轉法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。火焔裏かならず佛道場なるべし。經師論師きくべからず、外道二乘しるべからず。しるべし、佛の火焔は類の火焔なるべからず。又、類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。三世佛の在火焔裏の化儀、ならふべし。火焔裏に處在する時は、火焔と佛と親切なるか、轉疎なるか。依正一如なるか、依報正報あるか。依正同條なるか、依正同隔なるか。轉大法輪は轉自轉機あるべし。展事投機なり、轉法法轉あるべし。すでに轉法輪といふ、たとひ盡大地これ盡火焔なりとも、轉火輪の法輪あるべし、轉佛の法輪あるべし、轉法輪の法輪あるべし、轉三世の法輪あるべし。
しかあればすなはち、火焔は佛の轉大法輪の大道場なり。これを界量、時量、人量、凡聖量等をもて測量するは、あたらざるなり。これらの量に量ぜられざれば、すなはち三世佛、在火焔裏、轉大法輪なり。すでに三世佛といふ、これ量を超越せるなり。三世佛、轉法輪道場なるがゆゑに火焔あるなり。火焔あるがゆゑに佛の道場あるなり。
玄沙いはく、火焔の三世佛のために法するに、三世佛は立地聽法す。この道をききて、玄沙の道は雪峰の道よりも道得是なりといふ、かならずしもしかあらざるなり。しるべし、雪峰の道は、玄沙の道と別なり。いはゆる雪峰は、三世佛の轉大法輪の處在を道取し、玄沙は、三世佛の聽法を道取するなり。雪峰の道、まさしく轉法を道取すれども、轉法の處在かならずしも聽法不聽を論ずるにあらず。しかあれば、轉法にかならず聽法あるべしときこえず。又、三世佛、爲火焔法といはず、三世佛、爲三世佛、轉大法輪といはず、火焔爲火焔、轉大法輪といはざる宗旨あるべし。轉法輪といひ、轉大法輪といふ、その別あるか。轉法輪は法にあらず、法かならずしも爲他あらんや。
しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。
雪峰の在火焔裏、轉大法輪、かならず委悉に參學すべし。玄沙の道に混亂することなかれ。雪峰の道を通ずるは、佛威儀を威儀するなり。火焔の三世佛を在裏せしむる、一無盡法界、二無盡法界の周遍のみにあらず。一微塵二微塵の通達のみにあらず。轉大法輪を量として、大小廣狹の量に擬することなかれ。轉大法輪は、爲自爲他にあらず、爲爲聽にあらず。
玄沙の道に、火焔爲三世佛法、三世佛立地聽といふ、これは火焔たとひ爲三世佛法すとも、いまだ轉法輪すといはず、また三世佛の法輪を轉ずといはず。三世佛は立地聽すとも、三世佛の法輪、いかでか火焔これを轉ずることあらん。爲三世佛法する火焔、又轉大法輪すやいなや。玄沙もいまだいはず、轉法輪はこのときなりと。轉法輪なしといはず。しかあれども、想料すらくは、玄沙おろかに轉法輪は法輪ならんと會取せるか。もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし。火焔の三世佛のために法のとき、三世佛立地聽法すとはしれりといへども、火焔轉法輪のところに、火焔立地聽法すとしらず。火焔轉法輪のところに、火焔同轉法輪すといはず。三世佛の聽法は、佛の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。火焔を法と認ずることなかれ、火焔を佛と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。まことに師資の道なほざりなるべからず。將謂赤鬚胡のみならんや、さらにこれ胡鬚赤なり。
玄沙の道かくのごとくなりといへども、參學の力量とすべきところあり。いはゆる經師論師の大乘小乘の局量の性相にかかはれず、佛佛正傳せる性相を參學すべし。いはゆる三世佛の聽法なり。これ大小乘の性相にあらざるところなり。佛は機に逗する法ありとのみしりて、佛聽法すといはず、佛修行すといはず、佛成佛すといはず。いま玄沙の道には、すでに三世佛立地聽法といふ、佛聽法する性相あり。かならずしも能をすぐれたりとし、能聽是法者を劣なりといふことなかれ。者尊なれば、聽者も尊なり。
釋牟尼佛のいはく、
若此經、則爲見我、爲一人、是則爲難。
(若し此の經をかんは、則ち我を見ると爲す、一人の爲にくは、是れ則ち難しと爲す。)
しかあれば、能法は見釋牟尼佛なり、則爲見我は釋牟尼なるがゆゑに。
又いはく、
於我滅後、聽受此經、問其義趣、是則爲難。
(我が滅後に於て、此の經を聽受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと爲す。)
しるべし、聽受者もおなじくこれ爲難なり、勝劣あるにあらず。立地聽これ最尊なる佛なりといふとも、立地聽法あるべきなり、立地聽法これ三世佛なるがゆゑに。佛は果上なり、因中の聽法をいふにあらず、すでに三世佛とあるがゆゑに。しるべし、三世佛は火焔の法を立地聽法して佛なり。一道の化儀、たどるべきにあらず。たどらんとするに、箭鋒相せり。火焔は決定して三世佛のために法す。赤心片片として鐵樹花開世界香(鐵樹、花開いて世界香ばし)なるなり。且道すらくは、火焔の法を立地聽しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼。いはゆるは智勝于師(智、師に勝る)なるべし、智等于師(智、師に等し)なるべし。さらに師資の奥に參究して三世佛なるなり。
圜悟いはくの猴白と將謂する、さらに猴黒をさへざる、互換の投機、それ出鬼沒なり。これは玄沙と同條出すれども、玄沙に同條入せざる一路もあるべしといへども、火焔の佛なるか、佛を火焔とせるか。黒白互換のこころ、玄沙の鬼に出沒すといへども、雪峰の聲色、いまだ黒白の際にのこらず。しかもかくのごとくなりといへども、玄沙に道是あり、道不是あり。雪峰に道拈あり、道放あることをしるべし。
いま圜悟さらに玄沙に同ぜず、雪峰に同ぜざる道あり、いはゆる烈焔亙天はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり。
この道は、眞箇これ晩進の光明なり。たとひ烈焔にくらしといふとも、亙天におほはれば、われその分あり、他この分あり。亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。這箇をきらうて用那頭は作麼生なるのみなり。
よろこぶべし、この皮袋子、むまれたるところは去聖方遠なり、いけるいまは去聖時遠なりといへども、亙天の化導なほきこゆるにあへり。いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし。
しかあればすなはち、三世の佛は三世に法をとかれ、三世の法は三世に佛にとかるるなり。葛藤の風前に剪斷する亙天のみあり。一言は、かくるることなく、勘破しきたる、維摩詰をも非維摩詰をも。しかあればすなはち、法佛なり、法行佛なり、法證佛なり。佛法なり、佛行佛なり、佛作佛なり。かくのごとくなる、ともに行佛の威儀なり。亙天亙地、亙古亙今にも、得者不輕微、明者不賤用なり。
正法眼藏行佛威儀第六
仁治二年辛丑十月中旬記于觀音導利興聖寶林寺
沙門道元