第五 心是佛

佛佛、いまだまぬかれず保任しきたれるは心是佛のみなり。しかあるを、西天には心是佛なし、震旦にはじめてきけり。學者おほくあやまるによりて、將錯就錯せず。將錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す。
いはゆる心の話をききて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覺の未發菩提心なるを、すなはち佛とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。
外道のたぐひとなるといふは、西天竺國に外道あり、先尼となづく。かれが見處のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦樂をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す。萬物にさへられず、境にかかはれず。物は去來し境は生滅すれども、靈知はつねにありて不變なり。この靈知、ひろく周遍せり。凡聖含靈の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空花ありといへども、一念相應の知慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、靈知本性ひとり了了として鎭常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、靈知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舍の失火にやくるに、舍主いでてさるがごとし。昭昭靈靈としてある、これを覺者知者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも稱ず。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。萬法境ともかくもあれ、靈知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる境も、靈知の所在によらば、眞實といひぬべし。本性より起せるゆゑには實法なり。たとひしかありとも、靈知のごとくに常住ならず、存沒するがゆゑに。明暗にかかはれず、靈知するがゆゑに。これを靈知といふ。また眞我と稱じ、覺元といひ、本性と稱ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、歸眞の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流轉せず、不生不滅の性海に證入するなり。このほかは眞實にあらず。この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり、これすなはち先尼外道が見なり。
大唐國大證國師慧忠和尚に問ふ、從何方來(何れの方より來れる)。
曰、南方來(南方より來る)。
師曰、南方有何知識(南方何の知識か有る)。
曰、知識頗多(知識頗る多し)。
師曰、如何示人(如何が人に示す)。
曰、彼方知識、直下示學人心是佛。佛是覺義、汝今悉具見聞覺知之性、此性善能揚眉瞬目、去來運用。於身中、頭頭知、脚脚知、故名正遍知。離此之外、更無別佛。此身有生滅、心性無始以來、未曾生滅。身生滅者、如龍換骨、似蛇皮、人出故宅。身是無常、其性常也。南方所、大約如此。(曰く、彼方の知識、直下に學人に心是佛と示す。佛は是れ覺の義なり、汝今、見聞覺知の性を悉具せり。此の性善能く揚眉瞬目し、去來運用す。身中にく、頭にるれば頭知り、脚にるれば脚知る、故に正遍知と名づく。此れを離るるの外、更に別の佛無し。此の身はち生滅有り、心性は無始より以來、未だ曾て生滅せず。身、生滅するとは、龍の骨を換ふるが如く、蛇の皮をし、人の故宅を出づるに似たり。ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所、大約此の如し。)
師曰く、若然者、與彼先尼外道、無有差別。彼云、我此身中有一性、此性能知痛癢。身壞之時、則出去。如舍被燒舍主出去。舍無常、舍主常矣。審如此者、邪正莫辨、孰爲是乎。吾比遊方、多見此色。近尤盛矣。聚却三五百衆、目視雲漢云、是南方宗旨。把他壇經改換、添糅鄙譚、削除聖意、惑亂後徒、豈成言。苦哉、吾宗喪矣。若以見聞覺知、是爲佛性者、淨名不應云法離見聞覺知、若行見聞覺知、是則見聞覺知非求法也。(師曰く、若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん。彼が云く、我が此の身中に一性有り、此の性能く痛癢を知る、身壞する時、則ち出で去る。舍の焼かるれば舍主の出で去るが如し。舍はち無常なり、舍主は常なりと。審すらくは此の如きは、邪正辨ずるなし、孰んが是とせんや。吾れ比遊方せしに、多く此の色を見き。近尤も盛んなり。三五百衆を聚却て、目に雲漢を視て云く、是れ南方の宗旨なりと。他の壇經を把つて改換して、鄙譚を添糅し、聖意を削除して後徒を惑亂す、豈言を成らんや。苦哉、吾宗喪びにたり。若し見聞覺知を以て是を佛性とせば、淨名は應に法は見聞覺知を離る、若し見聞覺知を行ぜば是れち見聞覺知なり、法を求むるに非ずと云ふべからず。)
大證國師は曹溪古佛の上足なり、天上人間の大善知識なり。國師のしめす宗旨をあきらめて、參學の龜鑑とすべし。先尼外道が見處としりてしたがふことなかれ。
近代は大宋國に山の主人とあるやから、國師のごとくなるはあるべからず。むかしより國師にひとしかるべき知識いまだかつて出世せず。しかあるに、世人あやまりておもはく、臨濟山も國師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし。あはれむべし、明眼の師なきことを。

いはゆる佛の保任する心是佛は、外道二乘のゆめにもみるところにあらず。唯佛與佛のみ心是佛しきたり、究盡しきたる聞著あり、行取あり、證著あり。
佛百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に似せず。
公案あり、見成を相待せず、敗壞を廻避せず。
是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。
心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。
あるいは心是佛を參究し、心佛是を參究し、佛是心を參究し、心佛是を參究し、是佛心を參究す。かくのごとくの參究、まさしく心是佛、これを擧して心是佛に正傳するなり。かくのごとく正傳して今日にいたれり。いはゆる正傳しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
このゆゑに古人いはく、若人識得心、大地無寸土(若し人、心を識得せば、大地に寸土無し)。
しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。
云く、作麼生是妙淨明心。山河大地、日月星辰(作麼生ならんか是れ妙淨明心。山河大地、日月星辰)。
あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去來心は生死去來のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子拂子心は椅子拂子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、心是佛、不染汚心是佛なり。佛、不染汚佛なり。
しかあればすなはち、心是佛とは、發心、修行、菩提、涅槃の佛なり。いまだ發心修行菩提涅槃せざるは、心是佛にあらず。たとひ一刹那に發心修證するも心是佛なり、たとひ一極微中に發心修證するも心是佛なり、たとひ無量劫に發心修證するも心是佛なり、たとひ一念中に發心修證するも心是佛なり、たとひ半拳裏に發心修證するも心是佛なり。しかあるを、長劫に修行作佛するは心是佛にあらずといふは、心是佛をいまだみざるなり、いまだしらざるなり、いまだ學せざるなり。心是佛を開演する正師を見ざるなり。
いはゆる佛とは釋牟尼佛なり。釋牟尼佛これ心是佛なり。過去現在未來の佛、ともにほとけとなるときは、かならず釋牟尼佛となるなり。これ心是佛なり。

正法眼藏心是佛第五

爾時延應元年五月二十五日在雍州宇治郡觀音導利興聖寶林寺示衆
于時元三年乙巳七月十二日在越州吉田縣大佛寺侍者寮書寫之 懷弉