第四 身心學道
佛道は、不道を擬するに不得なり、不學を擬するに轉遠なり。
南嶽大慧禪師のいはく、修證はなきにあらず、染汚することえじ。
佛道を學せざれば、すなはち外道闡提等の道に墮在す。このゆゑに、前佛後佛かならず佛道を修行するなり。
佛道を學するに、しばらくふたつあり。いはゆる心をもて學し、身をもて學するなり。
心をもて學するとは、あらゆる心をもて學するなり。その心といふは、質多心、汗栗駄心、矣栗駄心等なり。又、感應道交して、菩提心をおこしてのち、佛の大道に歸依し、發菩提心の行李を學するなり。たとひいまだ眞實の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし佛の法をならふべし。これ發菩提心なり、赤心片片なり、古佛心なり、平常心なり、三界一心なり。
これらの心を放下して學道するあり、拈擧して學道するあり。このとき、思量して學道す、不思量して學道す。あるいは金襴衣を正傳し、金襴衣を稟受す。あるいは汝得吾髓あり、三拜依立而立あり。碓米傳衣する、以心學心なり。剃髪染衣、すなはち囘心なり、明心なり。踰城し入山する、出一心、入一心なり。山の所入なる、思量箇不思量底なり。世の所なる、非思量なり。これを眼睛に團じきたること二三斛、これを業識に弄しきたること千萬端なり。かくのごとく學道するに、有功に賞おのづからきたり、有賞に功いまだいたらざれども、ひそかに佛の鼻孔をかりて出氣せしめ、驢馬の脚蹄を拈じて印證せしむる、すなはち萬古の榜樣なり。
しばらく山河大地日月星辰、これ心なり。この正當恁麼時、いかなる保任か現前する。山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。大地は此處のみにあらず、山もおほかるべし、大須彌小須彌あり。横に處せるあり、豎に處せるあり。三千界あり、無量國あり。色にかかるあり、空にかかるあり。河もさらにおほかるべし、天河あり、地河あり、四大河あり、無熱池あり。北倶廬州には四阿耨達池あり。海あり、池あり。地はかならずしも土にあらず、土かならずしも地にあらず。土地もあるべし、心地もあるべし、寶地もあるべし。萬般なりといふとも、地なかるべからず、空と地とせる世界もあるべきなり。日月星辰は人天の所見不同あるべし、類の所見おなじからず。恁麼なるがゆゑに、一心の所見、これ一齊なるなり。これらすでに心なり。内なりとやせん、外なりとやせん。來なりとやせん、去なりとやせん。生時は一點をずるか、ぜざるか。死には一塵をさるか、さらざるか。この生死および生死の見、いづれのところにかおかんとかする。向來はただこれ心の一念二念なり。一念二念は一山河大地なり、二山河大地なり。山河大地等、これ有無にあらざれば大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に變ぜず。
かくのごとくの心、みづから學道することを慣するを、心學道といふと決定信受すべし。この信受、それ大小有無にあらず。いまの知家非家、家出家(家、家に非ずと知りて家出家す)の學道、それ大小の量にあらず、遠近の量にあらず。鼻鼻末にあまる、向上向下にあまる。展事あり、七尺八尺なり。投機あり、爲自爲他なり。恁麼なる、すなはち學道なり。學道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫これ心なり。さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり。咸通年前につくり、咸通年後にやぶる、泥滯水なり、無繩自縛なり。玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり、極微にきはまる時あり。露柱と同參せず、燈籠と交肩せず。かくのごとくなるゆゑに赤脚走して學道するなり、たれか著眼看せん。筋斗して學道するなり、おのおの隨他去あり。このとき、壁落これ十方を學せしむ、無門これ四面を學せしむ。
發菩提心は、あるいは生死にしてこれをうることあり、あるいは涅槃にしてこれをうることあり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれども、發心のところにさへられざるあり。境發にあらず、智發にあらず、菩提心發なり、發菩提心なり。發菩提心は、有にあらず無にあらず、善にあらず惡にあらず、無記にあらず。報地によりて起するにあらず、天有はさだめてうべからざるにあらず。ただまさに時節とともに發菩提心するなり、依にかかはれざるがゆゑに。發菩提心の正當恁麼時には、法界ことごとく發菩提心なり。依を轉ずるに相似なりといへども、依にしらるるにあらず。共出一隻手なり、自出一隻手なり、異類中行なり。地獄、鬼、畜生、修羅等のなかにしても發菩提心するなり。
赤心片片といふは、片片なるはみな赤心なり。一片兩片にあらず、片片なるなり。
荷葉團團團似鏡、菱角尖尖尖似錐(荷葉團團、團なること鏡に似たり、菱角尖尖、尖なること錐に似たり)。
かがみににたりといふとも片片なり、錐ににたりといふとも片片なり。
古佛心といふは、むかしありて大證國師にとふ、いかにあらむかこれ古佛心。
ときに國師いはく、牆壁瓦礫。
しかあればしるべし、古佛心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古佛心といふにあらず、古佛心それかくのごとく學するなり。
平常心といふは、此界他界といはず、平常心なり。昔日はこのところよりさり、こんにちはこのところよりきたる。さるときは漫天さり、きたるときは盡地きたる。これ平常心なり。平常心この屋裡に開門す、千門萬戸一時開閉なるゆゑに平常なり。いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし、噴地の一聲のごとし。語等なり、心等なり、法等なり。壽行生滅の刹那に生滅するあれども、最後身よりさきはかつてしらず。しらざれども、發心すれば、かならず菩提の道にすすむなり。すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。すでにあやしむことあり、すなはち平常なり。
身學道といふは、身にて學道するなり。赤肉團の學道なり。身は學道よりきたり、學道よりきたれるは、ともに身なり。盡十方界是箇眞實人體なり、生死去來眞實人體なり。この身體をめぐらして、十惡をはなれ、八戒をたもち、三寶に歸依して家出家する、眞實の學道なり。このゆゑに眞實人體といふ。後學かならず自然見の外道に同ずることなかれ。
百丈大智禪師のいはく、若執本淨本解自是佛、自是禪道解者、屬自然外道(若し本淨、本解、自は是れ佛、自は是れ禪道の解と執せば、ち自然外道に屬す)。
これら閑家の破具にあらず、學道の積功累なり。跳して玲瓏八面なり、落して如藤倚樹なり。或現此身得度而爲法なり、或現他身得度而爲法なり、或不現此身得度而爲法なり、或不現他身得度而爲法なり、乃至不爲法なり。
しかあるに棄身するところに揚聲止響することあり、命するところに斷腸得髓することあり。たとひ威音王よりさきに發足學道すれども、なほこれみづからが兒孫として長するなり。
盡十方世界といふは、十方面ともに盡界なり。東西南北四維上下を十方といふ。かの表裏縱横の究盡なる時節を思量すべし。思量するといふは、人體はたとひ自他に礙せらるといふとも、盡十方なりと諦觀し、決定するなり。これ未曾聞をきくなり。方等なるゆゑに、界等なるゆゑに。人體は四大五蘊なり、大塵ともに凡夫の究盡するところにあらず、聖者の參究するところなり。又、一塵に十方を諦觀すべし、十方は一塵に嚢括するにあらず。あるいは一塵に堂佛殿を建立し、あるいは堂佛殿に、盡界を建立せり。これより建立せり、建立これよりなれり。
恁麼の道理、すなはち盡十方界眞實人體なり。自然天然の邪見をならふべからず。界量にあらざれば廣狹にあらず。盡十方界は八萬四千の法蘊なり、八萬四千の三昧なり、八萬四千の陀羅尼なり。八萬四千の法蘊、これ轉法輪なるがゆゑに、法輪の轉處は、亙界なり、亙時なり。方域なきにあらず、眞實人體なり。いまのなんぢ、いまのわれ、盡十方界眞實人體なる人なり。これらを蹉過することなく學道するなり。たとひ三大阿祇劫、十三大阿祇劫、無量阿祇劫までも、身受身しもてゆく、かならず學道の時節なる進歩退歩學道なり。禮拜問訊するすなはち、動止威儀なり。枯木を畫圖し、死灰を磨す。しばらくの間斷あらず。暦日は短促なりといへども學道は幽遠なり。家出家せる風流たとひ蕭然なりとも、樵夫に混同することなかれ。活計たとひ競頭すとも、佃戸に一齊なるにあらず。迷悟善惡の論に比することなかれ、邪正眞僞の際にとどむることなかれ。
生死去來眞實人體といふは、いはゆる生死は凡夫の流轉なりといへども、大聖の所なり。超凡越聖せん、これを眞實體とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれども、究盡するに、面面みな生死なるゆゑに恐怖すべきにあらず。ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。生は死を礙するにあらず、死は生を礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。生は栢樹子のごとし。死は鐵漢のごとし。栢樹はたとひ栢樹に礙せらるとも、生はいまだ死に礙せられざるゆゑに學道なり。生は一枚にあらず、死は兩疋にあらず。死の生に相對するなし、生の死に相待するなし。
圜悟禪師曰く、生也全機現、死也全機現、塞太空、赤心常片片(生も全機現なり、死も全機現なり。太空に塞し、赤心常に片片たり)。
この道著、しづかに功夫點すべし。圜悟禪師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず。去來を參學するに、去に生死あり、來に生死あり、生に去來あり、死に去來あり。去來は盡十方界を兩翼三翼として飛去飛來す、盡十方界を三足五足として進歩退歩するなり。生死を頭尾として、盡十方界眞實人體はよく身囘腦するなり。身囘腦するに、如一錢大なり、似微塵裏なり、平坦坦地、それ壁立千仭なり、壁立千仭處、それ平坦坦地なり。このゆゑに南州北州の面目あり、これをして學道す。非想非非想の骨髓あり、これを抗して學道するのみなり。
正法眼藏身心學道第四
爾時仁治三年壬寅重陽日在于寶林寺示衆
仁治癸卯仲春初二日書寫 懷弉